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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第四章 新生篇
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第十八話 昇華

 苦しみや執着や未練のような、重たく濁った感情が、ある日突然、別の意味へ姿を変えることがある。


 叶わなかったはずのものが、無意味ではなかったと知る瞬間。

 失われたと思っていた時間が、未来を動かす礎だったと理解する瞬間。

 人はそのとき、初めて、自分の痛みを〝過去〟へ変えられる。


 そして、過去へ変わった痛みは、やがて人間の背骨になる。



──────────



 制服が届けられた日の夜、結城邸は妙に賑やかだった。


 普段から人の気配が絶えない家ではあるが、今日は空気そのものが少し浮き立っている。

 使用人たちの声は明るく、廊下を行き交う足音も、どこか軽い。


 長いあいだ、この家に沈殿していた緊張や遠慮が、少しずつ解け始めているのだろう。


 広間では、記子が未だ感極まった様子で、記乃の制服姿を何度も見ていた。


「やっぱり、お姉様、本当に格好いいです……」


 目元はまだ赤い。

 泣き疲れたあとの顔だった。

 記乃は少し困ったように視線を逸らす。


「そんなに大げさなものでは」

「大げさじゃありません!」


 記子は即答した。


「だって、お姉様が官服を着ているんですよ!? しかも、本当に、正式な記録官として!」


 記子は胸の前で拳を握る。


「わたし、小さいころ、お姉様が紙束を抱えて走り回っていたの、ずっと見ていましたから」


 その声は、どこか誇らしげだった。


「寝る前も、朝も、ずっと勉強して。具合が悪くても本を読んで。紙へなにか書いていて」


 記子は、記乃を見る。


「だから、当然なんです。お姉様は、絶対に、こうなるべきだったんです」


 広間が少し静かになった。


 記乃は、その言葉をどう受け取ればいいのか、一瞬だけ迷う。


 自分では、記子が言うほど劇的なものだと思えていない。

 ただ、必要だから積み重ねてきただけだ。

 息をするが如く、学び、条件を整理し、記録してきただけ。


 けれど、それを長年見ていた人間にとっては、違ったのだろう。

 密記が、酒盃を傾けながら小さく笑う。


「記子の言う通りだ」


 低い声だった。


「お前は昔から、妙に諦めが悪かった」

「それは……褒めていますか? それとも、貶していますか?」

「そりゃあもちろん、褒めているさ!」


 密記は即答した。


「普通の人間なら、どこかで折れる。制度に無理だと言われたら、たいていはそこで終わる」


 酒を飲む。

 その横顔には、どこか深い感慨があった。


「だが、お前は終わらなかった」


 記乃は、静かに密記を見る。

 密記は少し目を細めた。


「昔、お前に官僚を目指したらいい、と言ったことを、後悔したこともあった」


 広間が静かになる。

 偵記も、化野も、口を挟まない。


「女では官僚にはなれない。制度が認めてくれない。そんな夢を見せるべきじゃなかったんじゃないか、と、何度も思った」


 密記は苦く笑う。


「だが、結果的に、お前は経験を積み、つけた実力を持ってして、制度そのものを動かしてしまった」


 その声音には、呆れと誇りが混ざっていた。


「……本当に、なってしまったなあ」


 記乃は、その言葉を聞きながら、胸の奥が静かに熱を持つのを感じていた。


 すると、隣で偵記がぽつりと言う。


「様になってる」


 低く穏やかな声だった。

 記乃はそちらを見る。


 偵記は、記乃を見たまま、少しだけ笑っている。

 その表情を見た記子が、ぎょっとした顔をした。


「お兄様が珍しく柔らかな微笑みを浮かべているわ……」

「おい」


 偵記が眉を寄せる。


「おれは笑っちゃいけねえってか? ええ?」

「い、いえ、そういうわけでは……ただ、あまりにも自然に微笑んでいらっしゃるので……」

「失礼だな、おまえは」


 そう言いながら、偵記は記子の頬を軽くつねった。


「いたっ」

「変なこと言うからだ」

「だって、本当ですもの!」


 化野が横で腹を抱えて笑っている。


「あっはっは! いやあ、いいねえ。若いって」

「幽さんは完全に他人事ですね」

「だって面白いんだもん。偵記くんなんて、昔はもっと怖かったよ?」

「……誰のせいだと思ってんだ」

「うーん、そうだねえ。半分くらいは、世の中のせいかなあ」


 化野は酒を飲みながら、にやにや笑う。


「でも、いまはずいぶん丸くなったじゃないか。記乃ちゃんの影響?」

「知らねえ」

「あ。照れてる」

「うるせえ」


 広間に笑いが広がる。


 その中心で、記乃は静かに思う。

 幸せだ、と。


 こんなふうに笑い声の中へ自分がいる未来を、昔の自分は想像できただろうか。


 翌朝。

 官付への正式初出勤の日。

 自動車には、密記、偵記、記乃の三人が乗っていた。


 朝の帝都は冷えている。

 吐く息が薄く、白い。


 街路には通勤する人間たちの姿があり、その中に、以前より明らかに女性の姿が増えていた。

 洋装姿で書類鞄を抱えた女。

 女学生服のまま急ぎ足で駅へ向かう娘。

 スーツ姿で新聞を読んでいる女性。


 記乃は窓の外を見ながら、小さく眉を寄せる。


(……増えている)


 以前とは、明らかに空気が違っている。

 女が外で働くことが、少しずつ、特別ではなくなり始めている。

 これも、久世の計らいなのだろうか。


 官付へ到着し、廊下を歩く。

 すると、さらに違和感が強くなる。

 女性がいる。

 しかも、ただの下女などではない。帳簿を運び、電話交換を行い、事務作業をしている。

 真壁の執務室へ着くなり、記乃は口を開いた。


「女性が増えました」


 真壁は書類を捲る手を止める。


「ああ」

「可決されたのは、女性官僚に関する法案だけではなかったんですね」


 真壁は、疲れたように息を吐いた。


「あのお方は、そこだけ変えて終わる気がなかった」

「……」

「女性雇用、教育制度、事務職採用、労働条件、通学支援……通せる法案を片っ端から通した」


 記乃は、黙って聞いている。


「官僚だけ女を認めても意味がない、と判断されたんだろう」


 真壁は苦々しく笑った。


「まあ、現場は地獄だがな。制度改定だの書類整備だの、新設部署だの、毎日山ほど増えてる」

「お疲れ様です」

「本当にそう思うなら、すぐ手伝わないか」

「そのために来ました」

「……そうだったな」


 真壁は少しだけ笑った。


 そのやり取りをしながらも、記乃の胸の奥には、妙な感覚が残っていた。


 世界が変わっている。

 しかも、自分をきっかけのひとつとして。


(……こんなにも)


 記乃は静かに思う。


(本当に、世界は変わってしまうものなんですね)



──────────



 その日の午後。

 記乃は、久世の執務室を訪れていた。

 執務室は、和室から洋式に改築されているようだった。


 重厚な扉の前で立ち止まり、一度呼吸を整える。

 胸の奥が、少しだけ騒がしい。

 礼を言わなければならない。

 だが、単なる感謝では足りない気もしていた。


 久世は、本当に世界を動かしてしまった。

 その重みを、記乃はいま、改めて実感している。


「失礼いたします」

「入れ」


 扉を開けると、久世が机に向かったまま、書類へ目を通している光景が目に入る。

 三浦が、その傍らへ静かに控えている。


 記乃は部屋へ入るなり、深く頭を下げた。


「久世様」

「どうした」

「お礼を、申し上げたく」


 久世の手が止まる。

 静かな沈黙。

 やがて、久世はゆっくり顔を上げた。

 記乃は頭を下げ続ける。


「ありがとうございました」


 声は静かだった。


「私ひとりのためではないと、重々理解しています。町や官付を見れば、わかります」

「……」

「それでも、私がきっかけのひとつだったことは、間違いないのでしょう」


 久世は、しばらく黙っていた。

 その沈黙は重かった。


 二年。

 短いようで、長い時間。

 根回しをし、敵を作り、制度を動かし続けた。

 その果てにいる女が、いま目の前にいる。


 久世は、小さく息を吐いた。


「礼など言わなくていい」


 低い声。


「必要なことだったからやった」


 そして、少しだけ笑う。


「……ただ」


 久世は、静かに続けた。


「私は、やったぞ」


 その声には熱があった。

 静かで、それでいて燃えるような熱。


「ここまで、やってみせた」


 記乃は、顔を上げる。

 久世の目には、疲労もある。


 だが、それ以上に、達成した人間の火が宿っていた。

 久世は記乃をまっすぐ見つめる。


「お前は〝化野〟になったが」


 それは、静かな問い。


「また〝結城〟へ戻るのか」

「はい」


 記乃は迷わなかった。


「もっとも、ここでは〝化野〟と名乗り続けますが──」


 はっきりと、丁寧に、正確に答える。


「戸籍は、変わります」


 久世は、しばらく黙った。

 机へ置かれた指先が、わずかに動く。


「……そうか」


 その声には、確かに悔しさが滲んでいた。

 心の内は、平静とは呼べない。


 好いた女が、別の男のもとへ行く。

 それを無傷で見送れるほど、久世は綺麗な人間ではなかった。

 だが同時に、その胸には別の感情も燃えている。


 やり遂げた。

 世界を変えた。

 制度を動かした。

 好いた女が、正式にここへ立てる場所を、本当に作った。


 その〝達成感〟という名の炎は、無駄にはならない。

 これはきっと、今後一生、揺るぎなく久世を支える〝自信〟になることだろう。


 久世は、小さく笑った。


「……そうか」


 今度の声は、少しだけ柔らかい。


「なら、お前はもう、自分の足でここへ立っているんだな」

「はい」

「いい顔だ」


 記乃は少しだけ目を瞬かせる。

 すると久世は、椅子へ深く背を預けた。


「記乃」

「はい」

「私は、お前をここまで連れ戻した」


 静かな声。


「だから、もう二度と、自分の価値を疑わなくていい」


 記乃は、しばらく黙っていた。

 胸の奥が、少し熱い。

 やがて、静かに頭を下げる。


「……はい」


 その返事を聞いて、久世はようやく、小さく笑った。


 これでたしかに、恋は終わったのだろう。

 けれど、その想いは、無意味にはならなかった。


 むしろ、制度を動かし、世界を変え、多くの人間の未来を押し広げる火になった。


 人は、きっとそれをこそ、〝昇華〟と呼ぶのだろう。

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