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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第四章 新生篇
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第十七話 帰還

 帰還という言葉は、不思議な響きを持っている。

 元いた場所へ戻る、という意味でありながら、人間は決して〝同じまま〟では帰れない。


 一度外へ出た人間は、風の匂いを知る。

 他人の暮らしを見て、違う土地の土を踏み、かつては理解できなかった感情を覚えてしまう。


 ゆえに〝帰還〟とは、単なる過去への巻き戻しではない。

 変化した人間が、変化したまま、もう一度門をくぐることなのだ。



──────────



 官付へ返答の電報を打ってから、三日後のことだった。

 記乃は結城邸の門前に停まった自動車へ乗り込みながら、小さく息を吐く。

 運転席には養父(ちち)密記。助手席は空けて、後部座席に偵記と記乃が座っていた。


 秋も深まり始めた帝都は、朝の空気へ薄く冷たさを混ぜ始めている。

 窓の外では、銀杏並木が少しずつ色づき、乾いた風が舗装路の砂埃を細く攫っていた。

 養父がハンドルを握りながら、軽い声で言う。


「いやあ。とうとうだなあ……感慨深いもんだ」

「はい」


 記乃は静かに頷いた。


 官付へ戻る。

 その言葉は、二年前なら、もっと現実味のない夢みたいに感じていただろう。

 だがいまは違う。

 手を伸ばせば届く位置にある。

 当然、試験はある。制度整備も完全ではない。

 それでも、たしかに道は開かれていた。


 偵記は隣で静かに外を見ていた。以前のような、不安に沈んだ顔ではない。

 もちろん、それは完全に消えたわけではないのだろう。

 だが、その横顔は、もう迷いに呑まれてはいない。

 〝信じる〟と決めた人間の顔だった。


 記乃は、その横顔を見て、少しだけ安心した。


 官付へ到着すると、門番たちは一瞬、目を見開いた。

 そして、すぐに深く頭を下げる。


「……化野様」


 その呼び方に、記乃はわずかに目を瞬く。

 以前なら、結城記乃。あるいは、記録官補佐。

 だがいま、自分は〝化野〟としてここへ戻ってきている。


 それが、不思議と嫌ではなかった。

 むしろ、自分が歩いてきた二年間を肯定されているように感じる。


 廊下を歩く。

 磨かれた床に、紙と墨の匂い。遠くから聞こえる足音と、紙を捲る音。


 ──懐かしい。


 だが同時に、以前より少しだけ、この場所が狭く感じた。

 きっと、自分の視野が広がったのだろう。


 真壁の執務室の前で立ち止まり、記乃は襖を叩く。


「化野記乃です」


 少し間があってから「入れ」と、低い声が返ってきた。

 襖を開けると、真壁は机の前に座っていた。この光景も、二年ぶりだった。

 だが、記乃はその姿を見た瞬間、静かに思う。


(……少し)


 以前より、疲れて見える。

 目元の皺が増えた。肩の線も、どこか重い。

 記乃は、それをそのまま口にした。


「……老けましたね」


 真壁の眉がぴくりと動く。


「言葉を選べないのは、相変わらずか」

「選んだ上で、適切な表現をしたんです」


 即答だった。

 真壁は、しばらく無言になる。


 それから、小さく息を吐いた。


「……そういう軽口を叩くようになったのか」


 以前の記乃なら、絶対にこんなことを言わなかった。

 必要最低限しか話さず、冗談にも反応が薄く、感情を見せることも少なかった。

 だがいまの記乃は違う。少しだけ柔らかくなっている。

 真壁は、その変化をはっきり感じ取っていた。


「まあいい」


真壁は机へ肘をついた。


「戻ってきたな」

「はい」

「……長かった」

「そうですね」


 短い会話だった。

 だが、その短さの中に、二年分の時間があった。


 すると、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてくる。

 次の瞬間、襖が勢いよく開いた。


「記乃!」


 相良だった。

 二年前より少し背が伸びたようにも見えるが、年齢を考えれば、それはありえないことだ。

 いや、正確な表現をするならば、医官としての落ち着きが出たのだろう。

 それでも、いまの表情は昔のままだった。


「相良さん」

「本当に、戻ってきたんだな」

「はい」


 相良は、しばらく記乃の顔を見ていた。

 そして、なにかを思い出したように懐を探る。


「あ、ええと。そうだ」


 取り出したのは、小さな包みだった。


「これ」

「……?」


 受け取って開く。中には、色とりどりの飴玉が入っていた。

 記乃はしばらく無言になった。


「子ども扱いされている気がします」

「いや、違っ」


 相良は慌てる。


「先日、成人しましたよ」

「知ってる! もう十一月を前にしてるんだから」


 相良は耳まで赤くしていた。


「ただ、その、ろくな祝いの品を用意できなかったというか……なにもないのもなんだと思って……手元にこれしかなかった」


 記乃は、その包みを見る。

 色とりどりの飴玉たちが、光を受けて、小さく色を変えていた。

 相良らしい、少し不器用な贈り物だった。記乃は、小さく口元を緩める。


「……では、ありがたく頂戴します」


 相良は、ようやく安堵したように笑った。


 そのときだった。廊下の向こうが、妙に騒がしいことへ気づく。

 ざわめき。慌ただしい足音。誰かが、明らかに遠慮なく歩いてくる気配。

 次の瞬間、真壁の執務室の襖が、躊躇なく開かれた。


「いや、失礼」


 現れたのは、鳳条玲だった。

 青を基調とした軍服。手には煙管(パイプ)。淡い髪の毛に、翡翠色の瞳。

 軍部に属する異例の女性官僚にして、天才軍師。

 その姿を見て、記乃は納得する。


(……なるほど)


 このひとが来たならば、官付が騒がしくもなるはずだ。


 鳳条は、煙管を指先で弄びながら、にやりと笑った。


「久しぶりだね。記乃」

「鳳条様」

「……様はいらないって言ってるのに」


 相変わらずだった。

 鳳条は、記乃を上から下まで眺める。


「前より、よほどいい表情(かお)をするようになったじゃないか」

「そうでしょうか」

「前はもっと、刃物みたいだった」


 鳳条は、眠そうな顔をさらに綻ばせた。


「正式な祝いは、また後日。ただ、おめでとう、と。それだけ言いに来た」


 その言葉に、記乃はわずかに目を見開いた。


 正直、意外だった。

 鳳条は、もっと面白半分でからかうかと思っていた。だが、その声音は案外、真っ直ぐだった。


「二人目だ」


 鳳条は煙管を軽く振る。


「歓迎するよ。後輩」


 その言葉は、軽いようでいて、重かった。

 女性官僚。

 その前例を、鳳条はずっと一人で背負ってきたのだ。

 記乃は、静かに頭を下げる。


「ありがとうございます」



──────────



 その後、記乃は別室で官僚試験を受けた。


 結果は、言うまでもない。

 後日、官付から正式な合格通知が届く。


 化野記乃。

 正式任官。

 役職──記録官。


 今度は、補佐ではない。正式な官僚として、名が記録される。

 ただし、姓だけは、記乃自身の希望で〝化野〟を名乗り続けることにした。

 たとえ今後、偵記と婚姻関係となり、戸籍上は結城になったとしても、職場では化野の姓を使う。


 それは、待ち続けた二年間の証だった。

 化野家の娘として過ごした時間。

 外を見て、学び、積み重ねた時間。

 そのすべてを、自分は捨てたくないのだ。


 そして、その数日後。


 新聞にの一面に記乃の記事が載った。


 法案可決後、初の女性官僚任官の報せ(ニュース)は、帝都中で話題になった。


 記乃は朝食後、結城邸の縁側で、その記事を読んでいた。

 記事を書いた記者の名を見て、少しだけ目を細める。


 ──化野幽。


「……やっぱり」


 記事の内容は、必要以上に記乃を持ち上げてはいなかった。

 むしろ、冷静すぎるくらいだった。


 制度改定の意義。

 女性官僚任用の歴史性。

 今後の課題。

 化野らしい、浮かれすぎない文章である。


 だがその中に、一文だけ私情が混ざっている。


 ──なお、この記念すべき女性官僚は、私の娘です。


 記乃は、その一文を読んだ瞬間、視界が少しだけ滲むのを感じた。


 その正体は、涙だった。

 ぽたり、と紙へ落ちるほどではない。

 ただ一滴だけ、静かに、竜胆のような青紫色の瞳を滲ませる。


 記乃は、自分を産んだ母を知らない。

 引き取られた家の養母は、冷たかった。

 〝母〟という存在の優しい記憶など、持ちえなかった。


 だからこそ、いま、ようやく理解する。


(……ああ)


 自分にとって〝母〟と呼べる存在は──

 化野幽、ただひとりなのだと。


 秋の風が、新聞の端を揺らしていた。


 長いあいだ閉ざされていた門は、もう完全に開いている。


 そして記乃は、その門を、自分の足で乗り越えたのだった。

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