第十七話 帰還
帰還という言葉は、不思議な響きを持っている。
元いた場所へ戻る、という意味でありながら、人間は決して〝同じまま〟では帰れない。
一度外へ出た人間は、風の匂いを知る。
他人の暮らしを見て、違う土地の土を踏み、かつては理解できなかった感情を覚えてしまう。
ゆえに〝帰還〟とは、単なる過去への巻き戻しではない。
変化した人間が、変化したまま、もう一度門をくぐることなのだ。
──────────
官付へ返答の電報を打ってから、三日後のことだった。
記乃は結城邸の門前に停まった自動車へ乗り込みながら、小さく息を吐く。
運転席には養父密記。助手席は空けて、後部座席に偵記と記乃が座っていた。
秋も深まり始めた帝都は、朝の空気へ薄く冷たさを混ぜ始めている。
窓の外では、銀杏並木が少しずつ色づき、乾いた風が舗装路の砂埃を細く攫っていた。
養父がハンドルを握りながら、軽い声で言う。
「いやあ。とうとうだなあ……感慨深いもんだ」
「はい」
記乃は静かに頷いた。
官付へ戻る。
その言葉は、二年前なら、もっと現実味のない夢みたいに感じていただろう。
だがいまは違う。
手を伸ばせば届く位置にある。
当然、試験はある。制度整備も完全ではない。
それでも、たしかに道は開かれていた。
偵記は隣で静かに外を見ていた。以前のような、不安に沈んだ顔ではない。
もちろん、それは完全に消えたわけではないのだろう。
だが、その横顔は、もう迷いに呑まれてはいない。
〝信じる〟と決めた人間の顔だった。
記乃は、その横顔を見て、少しだけ安心した。
官付へ到着すると、門番たちは一瞬、目を見開いた。
そして、すぐに深く頭を下げる。
「……化野様」
その呼び方に、記乃はわずかに目を瞬く。
以前なら、結城記乃。あるいは、記録官補佐。
だがいま、自分は〝化野〟としてここへ戻ってきている。
それが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、自分が歩いてきた二年間を肯定されているように感じる。
廊下を歩く。
磨かれた床に、紙と墨の匂い。遠くから聞こえる足音と、紙を捲る音。
──懐かしい。
だが同時に、以前より少しだけ、この場所が狭く感じた。
きっと、自分の視野が広がったのだろう。
真壁の執務室の前で立ち止まり、記乃は襖を叩く。
「化野記乃です」
少し間があってから「入れ」と、低い声が返ってきた。
襖を開けると、真壁は机の前に座っていた。この光景も、二年ぶりだった。
だが、記乃はその姿を見た瞬間、静かに思う。
(……少し)
以前より、疲れて見える。
目元の皺が増えた。肩の線も、どこか重い。
記乃は、それをそのまま口にした。
「……老けましたね」
真壁の眉がぴくりと動く。
「言葉を選べないのは、相変わらずか」
「選んだ上で、適切な表現をしたんです」
即答だった。
真壁は、しばらく無言になる。
それから、小さく息を吐いた。
「……そういう軽口を叩くようになったのか」
以前の記乃なら、絶対にこんなことを言わなかった。
必要最低限しか話さず、冗談にも反応が薄く、感情を見せることも少なかった。
だがいまの記乃は違う。少しだけ柔らかくなっている。
真壁は、その変化をはっきり感じ取っていた。
「まあいい」
真壁は机へ肘をついた。
「戻ってきたな」
「はい」
「……長かった」
「そうですね」
短い会話だった。
だが、その短さの中に、二年分の時間があった。
すると、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づいてくる。
次の瞬間、襖が勢いよく開いた。
「記乃!」
相良だった。
二年前より少し背が伸びたようにも見えるが、年齢を考えれば、それはありえないことだ。
いや、正確な表現をするならば、医官としての落ち着きが出たのだろう。
それでも、いまの表情は昔のままだった。
「相良さん」
「本当に、戻ってきたんだな」
「はい」
相良は、しばらく記乃の顔を見ていた。
そして、なにかを思い出したように懐を探る。
「あ、ええと。そうだ」
取り出したのは、小さな包みだった。
「これ」
「……?」
受け取って開く。中には、色とりどりの飴玉が入っていた。
記乃はしばらく無言になった。
「子ども扱いされている気がします」
「いや、違っ」
相良は慌てる。
「先日、成人しましたよ」
「知ってる! もう十一月を前にしてるんだから」
相良は耳まで赤くしていた。
「ただ、その、ろくな祝いの品を用意できなかったというか……なにもないのもなんだと思って……手元にこれしかなかった」
記乃は、その包みを見る。
色とりどりの飴玉たちが、光を受けて、小さく色を変えていた。
相良らしい、少し不器用な贈り物だった。記乃は、小さく口元を緩める。
「……では、ありがたく頂戴します」
相良は、ようやく安堵したように笑った。
そのときだった。廊下の向こうが、妙に騒がしいことへ気づく。
ざわめき。慌ただしい足音。誰かが、明らかに遠慮なく歩いてくる気配。
次の瞬間、真壁の執務室の襖が、躊躇なく開かれた。
「いや、失礼」
現れたのは、鳳条玲だった。
青を基調とした軍服。手には煙管。淡い髪の毛に、翡翠色の瞳。
軍部に属する異例の女性官僚にして、天才軍師。
その姿を見て、記乃は納得する。
(……なるほど)
このひとが来たならば、官付が騒がしくもなるはずだ。
鳳条は、煙管を指先で弄びながら、にやりと笑った。
「久しぶりだね。記乃」
「鳳条様」
「……様はいらないって言ってるのに」
相変わらずだった。
鳳条は、記乃を上から下まで眺める。
「前より、よほどいい表情をするようになったじゃないか」
「そうでしょうか」
「前はもっと、刃物みたいだった」
鳳条は、眠そうな顔をさらに綻ばせた。
「正式な祝いは、また後日。ただ、おめでとう、と。それだけ言いに来た」
その言葉に、記乃はわずかに目を見開いた。
正直、意外だった。
鳳条は、もっと面白半分でからかうかと思っていた。だが、その声音は案外、真っ直ぐだった。
「二人目だ」
鳳条は煙管を軽く振る。
「歓迎するよ。後輩」
その言葉は、軽いようでいて、重かった。
女性官僚。
その前例を、鳳条はずっと一人で背負ってきたのだ。
記乃は、静かに頭を下げる。
「ありがとうございます」
──────────
その後、記乃は別室で官僚試験を受けた。
結果は、言うまでもない。
後日、官付から正式な合格通知が届く。
化野記乃。
正式任官。
役職──記録官。
今度は、補佐ではない。正式な官僚として、名が記録される。
ただし、姓だけは、記乃自身の希望で〝化野〟を名乗り続けることにした。
たとえ今後、偵記と婚姻関係となり、戸籍上は結城になったとしても、職場では化野の姓を使う。
それは、待ち続けた二年間の証だった。
化野家の娘として過ごした時間。
外を見て、学び、積み重ねた時間。
そのすべてを、自分は捨てたくないのだ。
そして、その数日後。
新聞にの一面に記乃の記事が載った。
法案可決後、初の女性官僚任官の報せは、帝都中で話題になった。
記乃は朝食後、結城邸の縁側で、その記事を読んでいた。
記事を書いた記者の名を見て、少しだけ目を細める。
──化野幽。
「……やっぱり」
記事の内容は、必要以上に記乃を持ち上げてはいなかった。
むしろ、冷静すぎるくらいだった。
制度改定の意義。
女性官僚任用の歴史性。
今後の課題。
化野らしい、浮かれすぎない文章である。
だがその中に、一文だけ私情が混ざっている。
──なお、この記念すべき女性官僚は、私の娘です。
記乃は、その一文を読んだ瞬間、視界が少しだけ滲むのを感じた。
その正体は、涙だった。
ぽたり、と紙へ落ちるほどではない。
ただ一滴だけ、静かに、竜胆のような青紫色の瞳を滲ませる。
記乃は、自分を産んだ母を知らない。
引き取られた家の養母は、冷たかった。
〝母〟という存在の優しい記憶など、持ちえなかった。
だからこそ、いま、ようやく理解する。
(……ああ)
自分にとって〝母〟と呼べる存在は──
化野幽、ただひとりなのだと。
秋の風が、新聞の端を揺らしていた。
長いあいだ閉ざされていた門は、もう完全に開いている。
そして記乃は、その門を、自分の足で乗り越えたのだった。




