第十六話 不安
不安という感情は、必ずしも〝失う〟と決まったときに生まれるものではない。
むしろ人間は、大切なものをようやく手に入れられそうになった瞬間にこそ、強く怯える。
指先が届かなかった頃には、諦めるという逃げ道があった。
けれど、一度でも触れてしまえば、人は〝なかったこと〟になどできやしない。
だから、不安とは、幸福の影として生まれる。
光が強くなるほど、影もまた濃くなるように。
──────────
官付から届いた電報に対し、記乃はその日のうちに返答を出した。
──承知。
簡潔な二文字だった。
だが、その短い返答の中には、この二年と少しの時間が詰まっている。
家事を覚えた。暮らしを覚えた。余白を覚えた。そして、化野幽の助手として外の世界を知った。
それでもなお、自分は官付へ戻りたいのだと、記乃は迷わず理解していた。
密記も、記子も、化野も、その返答へ心から賛同した。
「まあ、当然だよねえ」
化野は、記乃が返答を書いている様子を眺めながら、どこか満足そうに笑っていた。
「記乃ちゃん、どう見ても仕事人間だし」
「否定はできません」
「だろうね」
けらけらと笑ってみせる化野。
密記もまた、深く頷いていた。
「元々、事実上の休職みたいなものだったからな」
「はい」
「戻る場所が用意されたなら、期待に応えて、戻るべきだろう」
記子は、嬉しそうに両手を胸元で合わせていた。
「お姉様が、ついに、ついに官僚に……! わたし、本当に嬉しいですっ」
その言葉に嘘はない。
みな、本当に喜んでいた。
記乃が、仕事を好きなことを知っている。学ぶことを止めない人間であることも知っている。
そして、官付へ戻りたい気持ちを、ずっと胸の奥へ置き続けていたことも。
ゆえに、この報せは、結城家にも化野にも、祝福として受け入れられていた。
ただひとりを除いて。
偵記は、その日の夕餉でも、ほとんど普段通りだった。
食事を取り分け、必要な会話には応じ、密記へ返事をし、記子へ呆れたように小言を返す。
外側だけ見れば、いつもの偵記だった。
だが、記乃には分かる。
この人は、なにかを飲み込んでいる。
箸を置くタイミング。会話が途切れる間。視線の泳ぎ方。呼吸の浅さ。
長年一緒に生きてきたからこそ、分かってしまう程度の僅かな違和感が、いまの偵記にはあった。
(……不安)
記乃は、静かにそう結論づける。
その日の夜。
結城邸は静かだった。障子の向こうでは秋虫が鳴いており、廊下には、夜特有の冷えた空気がゆるやかに流れている。
記乃は、偵記の部屋の前へ立った。
軽く襖を叩く。
「……なんだ」
低い声。
「私です」
少し間があってから、
「入れ」
と返ってきた。
襖を開ける。
偵記は机へ向かったまま、書類を読んでいた。 だが、記乃が入ってきても、すぐには視線を向けない。
それが逆に、不自然だった。
「どうしましたか」
「べつに」
「別に、ではありません」
記乃は、静かに部屋へ入る。
「今日、一日中、様子がおかしかったです」
「気のせいだ」
「いいえ」
記乃は即答した。
「めでたいことだ、と、周囲に喜んでもらえているのは嬉しいです」
「……ああ」
「それは本心です」
記乃は、まっすぐ偵記を見る。
「でも、それが本心だからこそ、偵記さんの表情が曇っているのは、容認できない」
偵記の眉が、わずかに寄った。
「あなたが不安を抱えたままで、私は、心から喜ぶことはできません」
「べつに、不安だなんて」
「いいえ。不安そうな顔をしています」
沈黙。
秋虫の声だけが、障子の向こうで細く続いていた。
記乃は、逃がさない。
「不安の内訳を、教えていただけますか」
偵記は、しばらく黙っていた。
言うべきではないと、理解しているのだろう。 せっかくの祝い事に、水を差すことになる。
だが、記乃は待った。
やがて、偵記は低く息を吐いた。
「……久世」
ぽつり。
「おれは、あの人がおまえを好いてると思ってる」
記乃は黙って聞いている。
「いままでだって、ずっとそうだった」
偵記は視線を伏せたまま続ける。
「今回の法案だって、もちろん国のためでもあるんだろうけど、おまえのためでもあったはずだ」
「はい」
「それくらい、おれにも分かる」
声は低かった。
「だから、怖えんだよ」
記乃は、静かに目を瞬かせる。
「ようやく籍を入れようとしてるこの時機で、官付から呼び戻される」
偵記は、自嘲するように笑った。
「権力者が、本気で欲しがったらどうなる」
「……」
「おれは、おまえを守りきれるのか」
その言葉を、記乃は黙って聞いていた。
偵記は続ける。
「ちゃんと祝いたい。おまえがあるべき場所に戻れることを、喜びたい。けど、その気持ちの横で、ずっと考えちまう」
苦しそうだった。
「奪われたら、どうしようって」
部屋の空気は静かだった。
静かすぎて、人間の不安だけが、そこへ薄く沈殿しているようだった。
記乃は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言う。
「偵記さんの不安の種が、実りを成すことはありません」
偵記が顔を上げる。
「なぜなら、私の心はここにあるからです」
記乃は、まっすぐ偵記を見る。
「たとえ、久世様がなにかの間違いで、偵記さんから私を奪おうと考えたとしましょう」
「……」
「そうなっても、私は拒否し続けます」
「相手は権力者だぞ」
「関係ありません」
「あるだろ」
偵記は苦く言った。
「権力を持っておまえを奪われたら、おれは太刀打ちできねえ」
すると記乃は、小さく首を傾げた。
「なにか勘違いをしていますね」
「は?」
「そもそも、あの方と私は、そんなんじゃありませんから」
偵記は、しばらく黙った。
それから、疲れたように顔を覆う。
「……浮気がばれた亭主かよ」
「事実無根だと言っているんです」
記乃は真顔だった。
偵記としては、問題はそこではない。
記乃にとってなにもなくとも、久世にとっては違う。
だが、それでも──
記乃が迷わず「拒否する」と言い切ったことは、確かに偵記を救っていた。
記乃は、そっと髪へ触れる。
いつか偵記から贈られた、竜胆の簪。
「この簪が、私をあなたから離してくれませんから」
偵記は、その言葉に息を止めた。
桜の日。
互いに求婚を意味する品を贈り合った、あの日。
これらは、ただの装飾品ではない。
互いの意思そのものだった。
偵記は、ようやく少しだけ肩の力を抜く。
だが、記乃はまだ納得していないらしかった。
「……まだ、不安そうです」
「いや、まあ」
「そんなに不安なら」
記乃は、静かに言った。
「いますぐ私に手を出しますか」
偵記が固まる。
「この身をあなたのものにしてしまえば、不安は晴れますか」
その声音は、冗談ではなかった。
覚悟の色を含んでいる。
記乃は、本気で言っている。
偵記は、しばらく言葉を失った。
やがて、深く息を吐き、小さく笑う。
「……それは、まだ後にとっておく」
その笑みは、ようやく少し自然だった。
偵記は手を伸ばし、記乃の頭を撫でる。
ゆっくりと。
大切なものへ触れるみたいに。
記乃は、満足そうに目を細めた。
「安心しました」
「おまえなあ……」
「おやすみなさい、偵記さん」
記乃は、静かに立ち上がる。
襖を開ける前、少しだけ振り返った。
「なにがあろうと、離れませんから」
偵記は、短く頷く。
「ああ」
記乃は、静かに部屋を出ていった。
廊下には、夜の冷えた空気が流れている。 けれど、不思議と寒くはなかった。
不安は、完全には消えない。人間である以上、それはきっと無理なのだろう。
それでも──
信じたいと思える言葉があるだけで、人は少しだけ、安心して眠れるようになるのだった。




