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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第四章 新生篇
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第十六話 不安

 不安という感情は、必ずしも〝失う〟と決まったときに生まれるものではない。


 むしろ人間は、大切なものをようやく手に入れられそうになった瞬間にこそ、強く怯える。

 指先が届かなかった頃には、諦めるという逃げ道があった。


 けれど、一度でも触れてしまえば、人は〝なかったこと〟になどできやしない。


 だから、不安とは、幸福の影として生まれる。

 光が強くなるほど、影もまた濃くなるように。



──────────



 官付から届いた電報に対し、記乃はその日のうちに返答を出した。


 ──承知。


 簡潔な二文字だった。

 だが、その短い返答の中には、この二年と少しの時間が詰まっている。


 家事を覚えた。暮らしを覚えた。余白を覚えた。そして、化野幽の助手として外の世界を知った。

 それでもなお、自分は官付へ戻りたいのだと、記乃は迷わず理解していた。


 密記も、記子も、化野も、その返答へ心から賛同した。


「まあ、当然だよねえ」


 化野は、記乃が返答を書いている様子を眺めながら、どこか満足そうに笑っていた。


「記乃ちゃん、どう見ても仕事人間だし」

「否定はできません」

「だろうね」


 けらけらと笑ってみせる化野。

 密記もまた、深く頷いていた。


「元々、事実上の休職みたいなものだったからな」

「はい」

「戻る場所が用意されたなら、期待に応えて、戻るべきだろう」


 記子は、嬉しそうに両手を胸元で合わせていた。


「お姉様が、ついに、ついに官僚に……! わたし、本当に嬉しいですっ」


 その言葉に嘘はない。

 みな、本当に喜んでいた。

 記乃が、仕事を好きなことを知っている。学ぶことを止めない人間であることも知っている。

 そして、官付へ戻りたい気持ちを、ずっと胸の奥へ置き続けていたことも。


 ゆえに、この報せは、結城家にも化野にも、祝福として受け入れられていた。

 ただひとりを除いて。


 偵記は、その日の夕餉でも、ほとんど普段通りだった。

 食事を取り分け、必要な会話には応じ、密記へ返事をし、記子へ呆れたように小言を返す。


 外側だけ見れば、いつもの偵記だった。

 だが、記乃には分かる。

 この人は、なにかを飲み込んでいる。

 箸を置くタイミング。会話が途切れる間。視線の泳ぎ方。呼吸の浅さ。


 長年一緒に生きてきたからこそ、分かってしまう程度の僅かな違和感が、いまの偵記にはあった。


(……不安)


 記乃は、静かにそう結論づける。


 その日の夜。

 結城邸は静かだった。障子の向こうでは秋虫が鳴いており、廊下には、夜特有の冷えた空気がゆるやかに流れている。

 記乃は、偵記の部屋の前へ立った。

 軽く襖を叩く。


「……なんだ」


 低い声。


「私です」


 少し間があってから、


「入れ」


 と返ってきた。


 襖を開ける。

 偵記は机へ向かったまま、書類を読んでいた。  だが、記乃が入ってきても、すぐには視線を向けない。

 それが逆に、不自然だった。


「どうしましたか」

「べつに」

「別に、ではありません」


 記乃は、静かに部屋へ入る。


「今日、一日中、様子がおかしかったです」

「気のせいだ」

「いいえ」


 記乃は即答した。


「めでたいことだ、と、周囲に喜んでもらえているのは嬉しいです」

「……ああ」

「それは本心です」


 記乃は、まっすぐ偵記を見る。


「でも、それが本心だからこそ、偵記さんの表情が曇っているのは、容認できない」


 偵記の眉が、わずかに寄った。


「あなたが不安を抱えたままで、私は、心から喜ぶことはできません」

「べつに、不安だなんて」

「いいえ。不安そうな顔をしています」


 沈黙。

 秋虫の声だけが、障子の向こうで細く続いていた。

 記乃は、逃がさない。


「不安の内訳を、教えていただけますか」


 偵記は、しばらく黙っていた。

 言うべきではないと、理解しているのだろう。  せっかくの祝い事に、水を差すことになる。

 だが、記乃は待った。

 やがて、偵記は低く息を吐いた。


「……久世」


 ぽつり。


「おれは、あの人がおまえを好いてると思ってる」


 記乃は黙って聞いている。


「いままでだって、ずっとそうだった」


 偵記は視線を伏せたまま続ける。


「今回の法案だって、もちろん国のためでもあるんだろうけど、おまえのためでもあったはずだ」

「はい」

「それくらい、おれにも分かる」


 声は低かった。


「だから、怖えんだよ」


 記乃は、静かに目を瞬かせる。


「ようやく籍を入れようとしてるこの時機(タイミング)で、官付から呼び戻される」


 偵記は、自嘲するように笑った。


「権力者が、本気で欲しがったらどうなる」

「……」

「おれは、おまえを守りきれるのか」


 その言葉を、記乃は黙って聞いていた。

 偵記は続ける。


「ちゃんと祝いたい。おまえがあるべき場所に戻れることを、喜びたい。けど、その気持ちの横で、ずっと考えちまう」


 苦しそうだった。


「奪われたら、どうしようって」


 部屋の空気は静かだった。

 静かすぎて、人間の不安だけが、そこへ薄く沈殿しているようだった。


 記乃は、しばらく黙っていた。

 そして、静かに言う。


「偵記さんの不安の種が、実りを成すことはありません」


 偵記が顔を上げる。


「なぜなら、私の心はここにあるからです」


 記乃は、まっすぐ偵記を見る。


「たとえ、久世様がなにかの間違いで、偵記さんから私を奪おうと考えたとしましょう」

「……」

「そうなっても、私は拒否し続けます」

「相手は権力者だぞ」

「関係ありません」

「あるだろ」


 偵記は苦く言った。


「権力を持っておまえを奪われたら、おれは太刀打ちできねえ」


 すると記乃は、小さく首を傾げた。


「なにか勘違いをしていますね」

「は?」

「そもそも、あの方と私は、そんなんじゃありませんから」


 偵記は、しばらく黙った。

 それから、疲れたように顔を覆う。


「……浮気がばれた亭主かよ」

「事実無根だと言っているんです」


 記乃は真顔だった。

 偵記としては、問題はそこではない。

 記乃にとってなにもなくとも、久世にとっては違う。


 だが、それでも──

 記乃が迷わず「拒否する」と言い切ったことは、確かに偵記を救っていた。


 記乃は、そっと髪へ触れる。

 いつか偵記から贈られた、竜胆の簪。


「この簪が、私をあなたから離してくれませんから」


 偵記は、その言葉に息を止めた。


 桜の日。

 互いに求婚を意味する品を贈り合った、あの日。

 これらは、ただの装飾品ではない。

 互いの意思そのものだった。


 偵記は、ようやく少しだけ肩の力を抜く。

 だが、記乃はまだ納得していないらしかった。


「……まだ、不安そうです」

「いや、まあ」

「そんなに不安なら」


 記乃は、静かに言った。


「いますぐ私に手を出しますか」


 偵記が固まる。


「この身をあなたのものにしてしまえば、不安は晴れますか」


 その声音は、冗談ではなかった。

 覚悟の色を含んでいる。


 記乃は、本気で言っている。

 偵記は、しばらく言葉を失った。


 やがて、深く息を吐き、小さく笑う。


「……それは、まだ後にとっておく」


 その笑みは、ようやく少し自然だった。

 偵記は手を伸ばし、記乃の頭を撫でる。

 ゆっくりと。

 大切なものへ触れるみたいに。

 記乃は、満足そうに目を細めた。


「安心しました」

「おまえなあ……」

「おやすみなさい、偵記さん」


 記乃は、静かに立ち上がる。

 襖を開ける前、少しだけ振り返った。


「なにがあろうと、離れませんから」


 偵記は、短く頷く。


「ああ」


 記乃は、静かに部屋を出ていった。


 廊下には、夜の冷えた空気が流れている。  けれど、不思議と寒くはなかった。

 不安は、完全には消えない。人間である以上、それはきっと無理なのだろう。


 それでも──


 信じたいと思える言葉があるだけで、人は少しだけ、安心して眠れるようになるのだった。

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