第十五話 電報
人間は、ときに、一枚の紙切れによって人生の向きを変えられる。
判子ひとつ。署名ひとつ。通知ひとつ。
それだけで、人間は「許される側」へ移される。
長いあいだ閉ざされていた門が開く瞬間というものは、雷鳴みたいに劇的な音を立てるわけではない。
むしろ、古びた錠前が、静かに外れるようなものだ。
音は小さい。
だが、その小さな音の向こうで、人間の未来は確かに変わっている。
化野記乃は、その日も結城邸で朝を迎えていた。
婚姻準備のため、完成間近の別邸へ移るまでのあいだ、一時的に実家で暮らすことにしていた。
〝実家〟と呼べる場所があることに、記乃未だ少しだけ、不思議な感覚を抱いていた。
広い庭。朝露を含んだ木々。遠くで動く使用人たちの足音。
そのすべてが、昔と同じようで、昔とは違う。
いまの記乃は、もう結城家へ引き取られた捨て子ではない。化野家の娘であり、民俗学者の助手であり、そして、近いうちに結城偵記の妻になる予定の人間だった。
朝食の支度を終えたあと、記乃は縁側へ座り、湯呑みを片手に庭を見ていた。
風は秋の終わりを含んでいる。
空気は少し乾き始め、夏のころより、陽射しの輪郭が薄くなっていた。
この二年。いや、正確には、二年と少し。
記乃は、化野家の娘として生きてきた。
家事を覚えた。暮らしを覚えた。余白を覚えた。
そして同時に、化野幽の助手として、外の世界を歩いた。
地方へ赴き、怪異を解体し、人間の恐怖を条件へ置き換え、記録を残す。
その日々は忙しく、充実していた。
幸せ、と呼んでいい人生だった。
好きな人がいて、帰る家があって、食卓を囲む人間がいて、役割もある。
それでも、胸の奥底には、ずっと小さな火種のような感情が残っていた。
──官付へ戻りたい。
あの場所へ、もう一度。
それは未練ではない。執着とも、少し違う。
自分が積み上げてきたものを、今度こそ正式に使いたい、という感覚だった。
そんなことを考えていた、そのときだった。
門の向こうから、自動車の音が聞こえてくる。
記乃は顔を上げた。
(……幽さん)
聞き慣れた音だった。
やがて黒塗りの自動車が門前へ止まり、使用人が慌てて駆け寄ってゆく。少しして、玄関の方から、けらけらと笑う声が聞こえてきた。
「いやあ、急ぎだったからさあ。直接持ってきちゃった」
化野の声だった。
記乃は立ち上がる。
すると廊下の向こうから、化野がこちらへ歩いてくるのが見えた。
揺れる長羽織。少し乱れた髪。片手には、薄黄色の封筒。
それを目に映した瞬間、記乃は、なぜか呼吸を忘れそうになった。
化野は記乃の前まで来ると、いつもより少しだけ静かな顔で、その封筒を差し出した。
「官付から」
短い言葉。
記乃は、それを受け取る。
薄い紙だった。だが、驚くほど重く感じた。
電報。
官付。
その二つの単語だけで、胸の奥が静かに脈打つ。
「……開けても?」
「もちろん。これは〝化野記乃〟宛だ」
記乃は、丁寧に封を切った。
紙を開く。
そこに並んでいた文字を見た瞬間、記乃は静かに息を止めた。
──官付へ戻る準備を始めろ。
簡潔だった。
あまりにも簡潔で、余計な言葉が一切ない。
だが、その短い一文の向こうに、二年分の時間がある。
法案。制度。反発。根回し。前例。調整。
それらを乗り越えた末に、この一文は届いている。
(……本当に)
記乃は、紙面を見つめたまま思う。
本当に、戻れる場所を用意してくれたのか──
胸の奥が、静かに熱を持っていた。
涙が出るほどではない。
歓声を上げるほどでもない。
だが、長い冬のあと、ようやく指先へ血が戻るような感覚があった。
化野が、縁側へ腰を下ろす。
「思ったより早かったねえ」
「はい」
記乃は頷く。
「もっと時間がかかるものだと、思っていました」
「私も。まあ、でも」
化野は肩を竦めた。
「久世様、たぶん相当やったんだろうね」
記乃は、静かに電報を見つめる。
久世恒一。
あの人は、本当に約束を果たした。
戻れる場所を作る、と言って。
本当に、作ってしまった。
「……試験があります」
ぽつりと、記乃は言った。
「うん」
「正式な任官には、試験突破が必要です」
「まあ、そうだろうねえ」
化野は軽く頷く。
しかし、その声音に心配は混じっていなかった。
記乃自身も、そこに不安はない。
この二年、記乃は学ぶことを止めなかった。
制度。法律。記録。行政。統計。地方制度。民俗。心理。現象分析。
必要だと思うものを、片っ端から学び続けてきた。
化野の助手として外へ出たことも、大きかった。
後宮の中だけでは見えなかったものを、たくさん見た。
地方の人間。共同体。噂。恐怖。貧困。権力。
それらを知ったいまの自分は、二年前より、ずっと視野が広い。
学び続けた時間は、無駄ではなかった。
遠回りでもなかった。
すべて、必要な事項だったのだ。
記乃は、ゆっくりと電報を畳む。
そのときだった。
「お姉様ー!」
廊下の向こうから、記子が駆けてくる。
「どうしたんですか? 幽さんが、すごい勢いで来たって聞いて」
そこで、記子は記乃の手の中の紙へ気づいた。
「……電報?」
記乃は、少しだけ口元を緩めた。
「そう。官付から」
記子が目を見開く。
化野は、にやにやしながら頬杖をついていた。
「記乃ちゃん、戻れるってさ」
一瞬。
空気が止まる。
そして次の瞬間、記子の顔がぱっと明るくなった。
「本当ですか!?」
「はい」
「お姉様が、ついに官僚に……!」
その声は、自分のことみたいに嬉しそうにした。
記乃は、その反応を見ながら、静かに思う。
──戻る。
今度は、補佐という曖昧な役割ではない。
正式な官僚として。
化野記乃として。
正しく、帰ることができるのだ。
長いあいだ閉ざされていた門が、ようやく開こうとしていた。




