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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第四章 新生篇
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第十五話 電報

 人間は、ときに、一枚の紙切れによって人生の向きを変えられる。


 判子ひとつ。署名ひとつ。通知ひとつ。

 それだけで、人間は「許される側」へ移される。


 長いあいだ閉ざされていた門が開く瞬間というものは、雷鳴みたいに劇的な音を立てるわけではない。

 むしろ、古びた錠前が、静かに外れるようなものだ。

 音は小さい。

 だが、その小さな音の向こうで、人間の未来は確かに変わっている。


 化野記乃は、その日も結城邸で朝を迎えていた。

 婚姻準備のため、完成間近の別邸へ移るまでのあいだ、一時的に実家で暮らすことにしていた。

 〝実家〟と呼べる場所があることに、記乃未だ少しだけ、不思議な感覚を抱いていた。


 広い庭。朝露を含んだ木々。遠くで動く使用人たちの足音。

 そのすべてが、昔と同じようで、昔とは違う。

 いまの記乃は、もう結城家へ引き取られた捨て子ではない。化野家の娘であり、民俗学者の助手であり、そして、近いうちに結城偵記の妻になる予定の人間だった。


 朝食の支度を終えたあと、記乃は縁側へ座り、湯呑みを片手に庭を見ていた。

 風は秋の終わりを含んでいる。

 空気は少し乾き始め、夏のころより、陽射しの輪郭が薄くなっていた。


 この二年。いや、正確には、二年と少し。

 記乃は、化野家の娘として生きてきた。


 家事を覚えた。暮らしを覚えた。余白を覚えた。

 そして同時に、化野幽の助手として、外の世界を歩いた。

 地方へ赴き、怪異(オカルト)を解体し、人間の恐怖を条件へ置き換え、記録を残す。

 その日々は忙しく、充実していた。


 幸せ、と呼んでいい人生だった。

 好きな人がいて、帰る家があって、食卓を囲む人間がいて、役割もある。


 それでも、胸の奥底には、ずっと小さな火種のような感情が残っていた。


 ──官付へ戻りたい。


 あの場所へ、もう一度。

 それは未練ではない。執着とも、少し違う。

 自分が積み上げてきたものを、今度こそ正式に使いたい、という感覚だった。


 そんなことを考えていた、そのときだった。

 門の向こうから、自動車の音が聞こえてくる。

 記乃は顔を上げた。


(……幽さん)


 聞き慣れた音だった。

 やがて黒塗りの自動車が門前へ止まり、使用人が慌てて駆け寄ってゆく。少しして、玄関の方から、けらけらと笑う声が聞こえてきた。


「いやあ、急ぎだったからさあ。直接持ってきちゃった」


 化野の声だった。

 記乃は立ち上がる。

 すると廊下の向こうから、化野がこちらへ歩いてくるのが見えた。


 揺れる長羽織。少し乱れた髪。片手には、薄黄色の封筒。

 それを目に映した瞬間、記乃は、なぜか呼吸を忘れそうになった。


 化野は記乃の前まで来ると、いつもより少しだけ静かな顔で、その封筒を差し出した。


「官付から」


 短い言葉。

 記乃は、それを受け取る。

 薄い紙だった。だが、驚くほど重く感じた。


 電報。

 官付。

 その二つの単語だけで、胸の奥が静かに脈打つ。


「……開けても?」

「もちろん。これは〝化野記乃〟宛だ」


 記乃は、丁寧に封を切った。

 紙を開く。

 そこに並んでいた文字を見た瞬間、記乃は静かに息を止めた。


 ──官付へ戻る準備を始めろ。


 簡潔だった。

 あまりにも簡潔で、余計な言葉が一切ない。

 だが、その短い一文の向こうに、二年分の時間がある。


 法案。制度。反発。根回し。前例。調整。

 それらを乗り越えた末に、この一文は届いている。


(……本当に)


 記乃は、紙面を見つめたまま思う。


 本当に、戻れる場所を用意してくれたのか──


 胸の奥が、静かに熱を持っていた。

 涙が出るほどではない。

 歓声を上げるほどでもない。

 だが、長い冬のあと、ようやく指先へ血が戻るような感覚があった。


 化野が、縁側へ腰を下ろす。


「思ったより早かったねえ」

「はい」


 記乃は頷く。


「もっと時間がかかるものだと、思っていました」

「私も。まあ、でも」


 化野は肩を竦めた。


「久世様、たぶん相当やったんだろうね」


 記乃は、静かに電報を見つめる。


 久世恒一。

 あの人は、本当に約束を果たした。


 戻れる場所を作る、と言って。

 本当に、作ってしまった。


「……試験があります」


 ぽつりと、記乃は言った。


「うん」

「正式な任官には、試験突破が必要です」

「まあ、そうだろうねえ」


 化野は軽く頷く。

 しかし、その声音に心配は混じっていなかった。


 記乃自身も、そこに不安はない。

 この二年、記乃は学ぶことを止めなかった。

 制度。法律。記録。行政。統計。地方制度。民俗。心理。現象分析。

 必要だと思うものを、片っ端から学び続けてきた。


 化野の助手として外へ出たことも、大きかった。

 後宮の中だけでは見えなかったものを、たくさん見た。

 地方の人間。共同体。噂。恐怖。貧困。権力。

 それらを知ったいまの自分は、二年前より、ずっと視野が広い。


 学び続けた時間は、無駄ではなかった。

 遠回りでもなかった。

 すべて、必要な事項だったのだ。


 記乃は、ゆっくりと電報を畳む。

 そのときだった。


「お姉様ー!」


 廊下の向こうから、記子が駆けてくる。


「どうしたんですか? 幽さんが、すごい勢いで来たって聞いて」


 そこで、記子は記乃の手の中の紙へ気づいた。


「……電報?」


 記乃は、少しだけ口元を緩めた。


「そう。官付から」


 記子が目を見開く。

 化野は、にやにやしながら頬杖をついていた。


「記乃ちゃん、戻れるってさ」


 一瞬。

 空気が止まる。

 そして次の瞬間、記子の顔がぱっと明るくなった。


「本当ですか!?」

「はい」

「お姉様が、ついに官僚に……!」


 その声は、自分のことみたいに嬉しそうにした。

 記乃は、その反応を見ながら、静かに思う。


 ──戻る。

 今度は、補佐という曖昧な役割ではない。


 正式な官僚として。

 化野記乃として。

 正しく、帰ることができるのだ。


 長いあいだ閉ざされていた門が、ようやく開こうとしていた。

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