第十四話 可決
法というものは、紙の上に書かれた言葉でありながら、ときに人間の呼吸の仕方まで変えてしまう。
許されている、という一文があれば、人は前へ進める。
許されていない、という一文があれば、人はその場に縫い止められる。
それが能力の問題ではなく、意志の問題でもなく、ただ性別や出自や制度上の分類によって決められてしまうのなら、その法は人間を守るための線ではなく、人間の可能性を囲い込む柵になる。
真壁孝二郎は、長いこと、そういう柵を見てきた。
そして今日。
その柵のひとつが、ようやく外された。
女性にも官僚となる権利を与える法案が、正式に可決された。
その知らせが官付へ届いたのは、湿気を含んだ午後のことだった。
窓の外では、季節外れの雨が細く降っている。
庭石の表面は濡れ、木々の葉は薄く光を弾き、廊下の奥からは紙を運ぶ足音と、抑えきれないざわめきが聞こえていた。
真壁は執務机の前で、その通知文を静かに読み終えた。
紙面に並ぶ文字は、事務的だった。
可決。
施行準備。
採用規則の整備。
試験制度の改定。
そこに過度な感情はない。
だが、その無機質な文字の向こうに、この二年分の重みがあることを、真壁は知っていた。
(……ようやく、と、かのお方は思っていられるだろうな)
胸の奥に、静かな息が落ちる。
歓声を上げる性質ではない。
机を叩いて喜ぶ性格でもない。
それでも、真壁は確かに喜んでいた。
この法案の可決により、化野記乃が官付へ戻ってこられる道は、ほとんど確定したと言っていい。
もちろん、制度が可決しただけで、すべてが即座に整うわけではない。試験、任用、配属、周囲の反発、前例の扱い──
越えるべき手続きは山ほどある。
だが、扉は開いた。
いままで壁でしかなかったものに、初めて取っ手がついた。
その事実は、大きい。
真壁は、通知文を机へ置いた。
この二年、官付はよくも悪くも、化野記乃がいない状態で回り続けてきた。
回ってはいた。止まってはいない。
だが、それだけだった。
記録は遅れ、報告は粗くなった。
証言の差異は見落とされ、現場の観測条件は曖昧なまま処理され、後になって確認し直さなければならない案件が増えた。
誰かが怠けていたわけではない。
職員たちはそれぞれ、自分の役割を果たしていた。
ただ、あの女が異常に優秀だったのだ。
二年弱しかいなかった記録官補佐。
正式な官僚ですらなかった娘。
それなのに、去った後の空白が、あまりにも大きかった。
(あいつがいたときは、無駄が少なかった。いや、皆無、と言ってもいいほどだった)
真壁は、それを認めざるを得なかった。
記乃は感情的な慰めをしない。
愛想もよくない。
場を和ませる能力にも乏しい。
だが、事実を扱う能力だけは、群を抜いていた。
現象と証言を分ける。
推測と確認事項を混ぜない。
必要な情報を拾い、不要な装飾を捨て、あとから読む者が迷わない形で残す。
それが、どれほど得難い能力だったのか。
真壁は、この二年で嫌というほど理解した。
「……戻らなければ、業務が回らんと言ったが」
小さく呟く。
あれは冗談ではなかった。
かなり本気だった。
──────────
職務上の報告ではなく、半分は私的な話をするために、真壁は久世の執務室へ向かった。
廊下はいつもより騒がしい。
法案可決の知らせは、すでに官付内にも広まり始めているのだろう。
喜ぶ者もいる。
戸惑う者もいる。
露骨に顔をしかめる者も、おそらくいる。
制度が動くとき、人間の感情もまた、余計な音を立てて動くものだ。
久世の執務室の前へ着き、真壁は襖を叩いた。
「入れ」
中から聞こえた声は、いつもよりわずかに明るかった。
真壁は襖を開ける。
久世は、机の前に座っていた。
傍らには三浦が控えている。
机の上には、すでにいくつもの書類が広げられていた。法案可決後に必要な整備案、官付内の採用規則、試験制度、女官や後宮勤務者の扱い、教育課程。
その量を見るだけで、これから始まる仕事の多さが分かる。
それでも、久世の顔色は悪くなかった。
むしろ、二年の間で何度も見てきた疲労の影が、今日だけは少し薄いように見える。
「ついに、ですね」
真壁は静かに切り出した。
久世は、短く息を吐く。
「ああ。長かった」
その言葉に、真壁は少しだけ黙った。
──長かった。
確かに、久世本人にとっては長かったのだろう。
だが、官僚制度の一部を動かし、女性の任官資格を認める法案を通すのに、たったの二年しかかかっていない。
そう、二年も、ではない。二年しか、だ。
それは、異常な早さだった。
真壁だけではない。
三浦も、相良も、そして化野記乃本人も、事情を聞けば同じ感想を抱くだろう。
久世は、やったのだ。
やってのけた。
この二年間、反発を受け、根回しをし、皇后の後押しを受けながら、古い制度の継ぎ目へ刃を入れ続けた。
前例がない。
時期尚早。
女に官務は務まらない。
後宮の役目との整合性はどうする。
家制度が乱れる。
そういう言葉を、久世は真正面から受け続けた。
ときに流し、ときに潰し、ときに相手が自ら反論できなくなるほど資料を積み上げた。
真壁は、それを見ていた。
だからこそ、いまの「長かった」という一言を、否定はしなかった。
「これで、あとは」
真壁が言うと、久世は視線を上げた。
「記乃を戻すだけだ」
その声は、静かだった。
だが、芯がある。
二年前の久世が抱えていた喪失や後悔や未練は、完全に消えたわけではないのだろう。
それでも、いまその感情は、ひとつの仕事へ変わっている。
戻れる場所を作る。
その約束を、久世は本当に果たした。
真壁は、短く頷く。
「あいつなら、通知を受ければすぐに動くでしょう」
「だろうな」
「自己研鑽を怠らないやつですから。鈍ってはいないはずです」
「二年の月日で鈍るような女ではないだろう」
久世は、わずかに口元を緩めた。
「むしろ、外で妙な経験を積んで、以前より厄介になっている可能性すらある」
「それはあります」
真壁は即答した。
久世が少しだけ笑う。
三浦も、表情をほとんど変えないまま、どこか納得したように目を伏せた。
化野記乃。
いまはもう、結城ではない。
だが、官付へ戻ってくるならば、その姓が変わったことすら、おそらく新しい前例の一部になる。
後宮出身であり、養家を離れ、別家の娘となり、民俗学者の助手として外を見てきた女。
そんな人間が、女性官僚第一号に近い立場で戻ってくる。
面倒は多い。
反発もある。
だが、これほど象徴的な人材もいない。
久世は、傍らの三浦へ視線を向けた。
「三浦」
「はい」
「〝化野記乃〟へ電報を」
三浦は、すでに予測していたように静かに頷いた。
「文面は」
久世は少し考える。
窓の外で、雨音が細く続いていた。
濡れた庭の匂いが、かすかに室内へ入り込む。
久世は、低く言った。
「官付へ戻る準備を始めろ、と」
三浦は、わずかに目を細める。
「承知いたしました」
真壁は、そのやり取りを黙って見ていた。
二年前、記乃はここを去った。
職務道具を返し、挨拶を済ませ、化野の自動車に乗って、官付の門を出ていった。
あの日の背中を、真壁は覚えている。
あの女は、泣きもしなかった。
迷いも見せなかった。
ただ、戻ると言って出ていった。
そして今。
本当に戻る道が開いた。
(……早く戻ってこい)
真壁は、声には出さずに思った。
記録は、人がいなければ残らない。
制度は、使う人間がいなければ意味を持たない。
そして、開いた道は、最初に歩く者がいて初めて、道になる。
雨はまだ降っている。
だが、その雨の向こうで、長く閉ざされていた門が、ようやく音を立てて開き始めていた。




