第十三話 準備
人は〝準備〟という言葉に、未来の気配を閉じ込める。
まだ起きていない出来事のために、家を建てる。
まだ交わしていない誓いのために、道具を選ぶ。
まだ来ていない日々のために、台所の火加減や、風呂の沸かし方や、寝室へ入る光の向きまで考える。
それは、ただの段取りではない。
未来が本当に来るのだと信じている人間だけができる、ひどく前向きな行為だった。
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記乃の姓が〝化野〟になってから、早二年と少しが経っていた。
十月十日。
戸籍上の誕生日として登録されているこの日、記乃は二十歳になった。
偵記はこの年の春に二十五歳になっており、かつて兄妹として結城家の廊下を並んで歩いていたふたりは、いつの間にか、すっかり大人の顔を見せるようになっていた。
記乃の日々は、驚くほど穏やかに続いている。
朝起きて、化野と食事をとり、家事を済ませ、民俗学者としての仕事へ同行し、怪異と呼ばれたものを条件へ分解する。
ときどき結城家で夕餉を共にし、週に一度は偵記と会い、季節の菓子や本や、互いに見つけた小さなものを贈り合う。
そんな日々。
それは、かつての記乃が想像したこともなかった平穏だった。
(このまま、歳だけを重ねていったら)
ふと、そんな考えが浮かぶこともある。
官付へ戻る道が、結局、開かれなかったら。
久世が言ってくれた場所が、制度の壁に阻まれたまま終わったら。
そう考えかけて、記乃はすぐに思考を止めた。
(……信じる、と決めたのだから)
疑うような真似は、不誠実だ。
少なくとも、久世はその場しのぎで言葉を渡す人間ではない。
あの人は、自分が戻れる場所を作ると言った。
ならば、記乃は待つべきなのだ。
ただ、待つだけではなく、いつ戻っても恥じないように、自分の技量を鈍らせずに。
──────────
成人祝いと称して、密記から結城家へ招かれたのは、その数日前のことだった。
「二十歳かあ」
化野は手紙を読みながら、しみじみと呟いた。
「記乃ちゃんも、すっかり大人だねえ」
「戸籍上は、ですが」
「そういうこと言うところは、あんまり変わってないね」
化野はけらけら笑う。
それでも、どこか嬉しそうだった。
そして十月十日、当日。
化野はいつものように手土産の酒を選び、記子のための菓子も買った。
記乃も、自分で漬けたぬか漬けを小さな風呂敷へ包む。
「完全に持ち寄り慣れてきたよねえ」
「以前より、なにを持っていけば喜ばれるか、予測しやすくなりました」
「そういうところ、実務の顔で家族付き合いしてるの面白いよ」
「非効率な手土産は避けたいので」
「うん、変わってない。まあ、成長もしたよねえ」
すると、記乃は付け足した。
「幽さんが教えてくれたので、いい土産を選べるようになったんです」
「……そうかい。じゃあ、私は私のことも褒めておくとしようか」
化野は、少しだけ親の表情をすることが増えた。
記乃もそんな化野の子として振る舞うことを、躊躇うことはなくなってきていた。
ふたりの関係性は、明確に変わっていた。
夕方。
自動車が結城家の門前へ停まると、玄関先にはすでに記子が立っていた。
自動車の音を聞きつけて出てくるのは、もう恒例になっている。
「幽さん!」
記子はぱっと顔を明るくし、化野へ駆け寄った。
以前より背が伸び、顔立ちにも少女から少しずつ娘へ変わっていく気配がある。
体調も以前より安定し、時折女学校へ通いながら、家では自主学習に励んでいる。
かつての記乃のように、机へ向かうことを当然の習慣としている。
「はいはい、記子ちゃん。元気そうでなにより」
化野は軽く抱きとめる。
その仕草は、もう不慣れな来客のものではない。
この家に馴染んだ、大人の親戚のようだった。
「お菓子、買ってきたよ」
化野が包みを差し出すと、記子は嬉しそうに目を輝かせた。
だが、すぐに少しだけ表情を引き締める。
「幽さん、わたしはもう子どもじゃないんですよ? 毎度お菓子を用意していただかなくても」
その声音は、ただの強がりではなかった。
化野の懐を案じている。
そして、毎回もらうことへの遠慮もある。
記乃には、それが分かった。
化野も分かったのだろう。
少しだけ目を細め、包みを持ったまま腰を落として、記子と視線を合わせた。
「うん。記子ちゃんが大人になってきているのは知っているよ」
「はい」
「でもね、これは私からの気持ちなんだ。嫌いなものじゃないなら、受け取ってほしいな」
記子は少し考えた。
その表情は、年齢以上に真剣だった。
「それなら……はい。ありがとうございます」
包みを受け取る。
そして、少し照れたように続けた。
「ただ、これからは時々にしてくださると嬉しいです。そうしたら、時々のお土産ということで、喜びが一層大きくなると思うんです」
化野は一瞬だけ目を丸くし、すぐに声を上げて笑った。
「あっはっは! いいねえ、記子ちゃんは相当、弁が立つ」
「だめですか?」
「ううん。すごくいいよ」
化野は、心底楽しそうだった。
この聡い少女のことを、かなり気に入っているのだろう。
記乃は、その横顔を見ながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
今日はこれから、たくさんの人に誕生日を祝われる。
祝ってもらえるということに、記乃は未だ慣れていない。
けれど、嬉しいとは思う。
昔なら、どう処理していいかわからなかった感情を、いまは少しずつ、きちんと自分の中へ置けるようになっていた。
広間へ入ると、すでに料理が並び始めていた。
温かいものだけは、食事の直前に運ぶのだという。
広い卓に刺身や焼き魚、煮物、酢の物、椀物、酒肴が整えられてゆく。
いつもより明らかに豪華だった。
上座には密記。
偵記と記乃は隣同士。
向かいには記子と化野。
すっかり馴染んだ席順である。
「記乃、二十歳おめでとう」
密記が嬉しそうに言った。
「ありがとうございます、父上」
記乃が頭を下げると、密記は少しだけ目を細めた。
血縁はない。
戸籍上も、もう父娘ではない。
それでも、記乃が自然に父上と呼ぶたび、密記は毎回、少しだけ嬉しそうな顔をする。
「二十歳だしな。今日は少し、酒も飲んでみるか?」
密記が化野の土産の酒へ視線を向ける。
記乃は少し考えたあと、首を横へ振った。
「今日は遠慮します」
「おや、どうして?」
「お酒を飲んで、節目の日の記憶が曖昧になったりしては嫌なので」
密記が、目を瞬かせた。
それから、ゆっくりと笑う。
「……そうか」
その表情には、深い感慨があった。
記乃が「嫌だから」と、自分の感情を理由に断った。
節目の日を大切にしたいと、自分で判断した。
以前の記乃なら、体調、効率、必要性などを理由にしただろう。
それがいまは違う。
化野との生活の中で、自我や感性が、静かに育っている。
密記には、それが手に取るように分かった。
「いい判断だ」
偵記が低く言う。
「酒はいつでも飲める」
「偵記さんは飲むんですか」
「飲む」
「では、記憶が曖昧になる可能性が」
「おれはそんな飲み方しねえ」
偵記は少しだけ不機嫌そうに返したが、口元は緩んでいた。
化野が酒を注ぎながら笑う。
「まあまあ。今日は記乃ちゃんを祝う日なんだから、飲む人間は楽しく、飲まない人間も楽しく、だねえ」
「幽さんはたくさん飲むんですか?」
記子が訊ねる。
「もちろん」
「翌日、大丈夫ですか?」
「記子ちゃんったら、要一くんみたいなこと言うねえ」
「相良さんは正しいことをおっしゃる方です」
「うん。それには、返す言葉がない」
広間に笑いが広がる。
やがて、温かい料理が運ばれ、宴席は本格的に始まった。
「この煮物、父上が作ったものですか」
記乃が訊ねると、密記は嬉しそうに頷いた。
「よく分かったな」
「味が父上のものです」
「味でわかるとは」
「出汁の取り方と、煮含める時間に癖があります」
「それは……褒めてるのか?」
「はい」
密記は満足そうに酒を飲む。
偵記は焼き魚を取り分け、記乃の皿へ置いた。
「骨、取っといた」
「ありがとうございます」
「二十歳になったって言っても、相変わらず魚の食べ方は信用できねえからな」
「そこまで下手ではありません」
「下手だ」
「幽さん、私は魚を食べるのが下手でしょうか」
記乃が真面目に訊ねると、化野はしばらく考えた。
「うーん、下手というより、食べ方が慎重すぎて魚と格闘しているみたいになるね」
「格闘……」
「だから偵記くんが取ってくれるなら、取ってもらえばいいんじゃない?」
偵記は少しだけ耳を赤くする。
「べつに、たいした手間じゃねえ」
「偵記さんは昔から、私の魚の骨を取ってくれましたよね。手間だと思うなら続けていないだろうということは、知っています」
「そういうことを平然と言うな」
「事実です」
「事実でも、こう、言い方があるだろ」
記子がにこにこしながらふたりを見ている。
「お兄様とお姉様は、本当に仲良しですね」
「記子」
「はい?」
「そういう顔で見るな」
「どんな顔ですか?」
「全部わかってる顔だ」
「わかっていますもの」
記子が胸を張る。
化野が楽しそうに笑った。
「いやあ、結城家は本当に見ていて飽きないねえ」
「幽さんも、もう他人ではありませんよ」
記子が言う。
「ですから、見ているだけではなく、参加してください」
「おや、手厳しい」
「家族の席ですから」
その言葉に、化野は少しだけ黙った。
ほんの一瞬だった。
しかし記乃は見逃さなかった。
化野は軽薄に笑って、酒を飲む。
「じゃあ、参加するとしようかな」
その声は、いつも通りのようで、少しだけ柔らかかった。
食事が半ばを過ぎたころ。
化野が、ふと酒盃を置いた。
「そろそろ、準備をしてもいい頃合いだと思っていてね。ねえ? 密記殿」
広間の空気が、わずかに変わる。
記乃は顔を上げた。
偵記も、箸を止める。
密記は、待っていた話題だというように頷いた。
「ああ。ちょうど、そろそろ話そうと思っていた」
記子は、少し背筋を伸ばす。
密記は、偵記と記乃の方を見た。
「ふたりの婚姻についてだ」
その言葉を聞いて、記乃の胸の内側が、静かに熱を持つ。
何度も考えてきた未来。
それが、いま、家族の食卓で当然のように語られている。
「ここに住まうのは、あまりよく思わない使用人もいるだろう」
密記は言った。
「お前たちが悪いわけではない。ただ、人間は急な変化に弱い。とくに、この家には長く仕えている者も多く、その半数は記乃のことをよく思わない者であることも、また事実だ」
その言葉は現実的だった。
記乃も、それは理解している。
この家のすべての人間が、自分と偵記の婚姻を心から祝福するとは限らない。
「だから、ふたりの新居となる邸宅を用意させている最中だ」
偵記が、ぱっと顔を上げた。
「は?」
「もうあと数ヶ月で完成するだろう」
「いや、待て」
偵記の声が低くなる。
「事前に相談しろよ。自分の家くらい、自分で建てる」
密記は、苦笑した。
「お前ならそう言うと思った」
「なら、なんで勝手に進めてんだ」
「武家の長男で、官僚であるお前の家は、それなりに立派である必要がある」
密記は酒盃を置き、父親というより、家の長としての顔になった。
「まあ、世間体だな」
「世間体……」
「そうだ。お前が一番嫌いなやつだな」
「……たしかに嫌いだが、無視できねえのはわかってる」
「なら話が早い」
密記は続ける。
「それに、この家よりも設備が整っているものになる。幽さんの意見も取り入れて、いまの記乃の生活から大きく変わらないようにする予定だ」
記乃は、そこで化野を見た。
化野は、しれっと酒を飲んでいる。
記乃の中で、いくつかの記憶が繋がった。
以前、化野に聞かれたことがある。
家の中で便利だと思う点はなにか。一生使いたいと思う設備はどんなものか。
台所は、風呂は、洗濯機は、書棚は、採光は。
あのときは、単に化野家の改修のためかと思っていた。
「……幽さん」
「ん?」
「謀りましたね」
「え? 知らなあい」
化野は酒を煽った。
明らかに知っている顔だった。
偵記は、まだ納得していない。
「いや、でもな。家を建てるくらいの金なら、貯めれば」
「偵記」
密記は、そこで現実的に言った。
「この家を建てたときより、物価は上がっている」
「……」
「それに、先ほども言った通り、ただの小さな家では済まん。お前の立場、記乃の今後、結城家との関係、すべてを考えれば、それなりの規模と格が必要になる」
「……」
「それを、いまの賃金のみで建てられると思うのか?」
偵記は、黙った。
言い返せない。
密記は、そこで少しだけ笑った。
「使用人も通いでふたり、入れられるようにする」
「いらねえ」
「いる」
「いらねえだろ」
「いる。お前、記乃にすべての家事をさせるつもりか?」
偵記は、ぴたりと止まる。
記乃は口を開きかけた。
「私はできますが」
「できることと、させていいことは別だろう」
密記が即答する。
その言い方が、少しだけ久世に似ていて、記乃は目を瞬かせた。
偵記は、深く息を吐いた。
わかっているのだ。密記は、子どもの面倒を見たくて仕方がない。
戸籍が変わっても、記乃を娘だと言った男である。
偵記が家を持ち、記乃と暮らす。
そこへなにかしらの形で手を貸したくてたまらないのだろう。
偵記はしばらく黙ったあと、諦めたように言った。
「……好きにしてくれ」
密記の顔が、ぱっと明るくなる。
「ああ。任せなさい」
「その顔を見ると、いますぐ撤回したくなる」
「ひどいなあ」
記子が、嬉しそうに手を合わせた。
「お兄様とお姉様のお家……!」
「記子も体調がいいときは遊びに行くといい」
密記が言う。
「はいっ!」
化野が酒盃を揺らしながら笑った。
「私も行っていい?」
「幽さんは、黙っていても来るでしょう」
記乃が言う。
「よくわかってるね」
「いまの家から、近いのですか」
「それがねえ……私たちの家と結城邸とから、ちょうどいい距離なんだよ」
「やはり、謀りましたね」
「知らなあい」
また同じ返事だった。
広間に笑いが広がる。
記乃は、その中で静かに息を吸った。
婚姻の準備が、ほとんど整っている。
家。
籍。
周囲の了承。
生活の設計。
あと少し。
本当に、あと少しなのだ。
偵記が、隣で小さく言った。
「……大丈夫か」
「なにがですか」
「その、家の話だ」
「はい」
記乃は、少しだけ考えてから答えた。
「驚きましたが、嫌ではありません」
「そうか」
「むしろ、ありがたいと思います」
「……そうか」
偵記の声は、少しだけ安堵の色を帯びていた。
記乃は、その横顔を見る。
二十五歳になった偵記は、昔よりずっと大人びている。
それでも、心配するときの顔は変わらない。
眉間に皺を寄せて、口調が悪くなり、けれど視線だけは、いつもこちらを見落とさない。
その人と暮らす家が、いま、用意されている。
まだ見ぬその家を想像すると、胸の内側に、小さな灯りがともった。
炎というほど強くはない。
けれど、消えない。
夜の障子越しに見える、家の灯りのようなものだった。
密記が酒盃を掲げる。
「では、記乃の成人と、これからの準備に」
化野が笑って盃を持つ。
「未来に、だねえ」
記子も茶碗を掲げる。
「お姉様、おめでとうございます!」
偵記は、少し照れくさそうに、それでも真面目な顔で盃を持った。
「……おめでとう」
記乃は、酒ではなく茶の入った湯呑みを持つ。
「ありがとうございます」
広間には、温かな料理の匂いと、酒の香りと、家族の声が満ちている。
準備とは、未来を信じる行為だ。
その未来が、いま確かに、すぐそこまで近づいてきている。
記乃は湯呑みに口をつけながら、静かにそう思った。




