第十二話 逢瀬
人間という生き物は、幸福を手に入れた瞬間よりも、それが日常へ溶け始めたときに、ようやく〝幸せだったのだ〟と理解する。
特別な出来事だけが幸福なのではない。
待ち合わせの時間。聞き慣れた足音。相手が好きそうなものを見つけた瞬間。
そういう小さな感情の積み重なりが、気づけば生活の奥へ静かに沈殿していく。
幸福とは、ときに、劇的な光ではない。
長く降り続けた雨のあと、ようやく身体から抜けていく湿気みたいに、あとからじわじわと、人間の輪郭を変えていくものなのだ。
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記乃が化野の仕事を手伝い始めてから、半年が経っていた。
季節は巡り、冬の鋭い空気はゆるやかにほどけ、帝都には春の匂いが混じり始めている。
庭の草木も少しずつ芽吹き、以前ほど、空気は肺を刺すような寒さを逃がしていた。
記乃は、以前より忙しくなった。
化野の助手として各地へ同行し、怪異を解体し、現象を条件へ分解し、報告を整理する。
ときには、化野へ記録法そのものを教えることもあった。
「いやあ、君の報告書、本当に読みやすいんだよねえ」
そう言って、化野は毎回感心したように笑う。
「必要な項目が整理されていますから」
「その〝整理〟を、みんなができれば苦労しないんだけどなあ」
仕事は想定よりも忙しかった。
だが、苦ではなかった。
むしろ、記乃はようやく、自分が生きている感覚を取り戻し始めていた。
平穏もある。役割もある。帰る家もある。
そして、好きな人もいる。
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ひと月に二度ほどの結城家での夕餉とは別に、記乃と偵記は、週に一度、ふたりだけで会う約束をしていた。
最初のころは、どこかぎこちなかった。
後宮を離れ、戸籍を変え、兄妹ではなくなる準備をして、それでも長年染みついた呼び方や距離感は、簡単には変わらない。
けれど、幸せな時間には違いなかった。
お洒落というものも、最初はよくわからなかった。
だが、化野は妙なところで面倒見がよかった。
「白粉は、こう。首との境目を馴染ませる」
「はい」
「紅は引きすぎると、途端に芝居っぽくなるからねえ」
「芝居っぽくなる」
「そう。あと、君は目元が涼しいから、髪は少し柔らかく崩した方が映える」
化野は、驚くほど器用に記乃へ化粧や髪型を教えた。
「……なぜ、こんなに詳しいんですか」
「私は根っからの洒落者だよ。」
教え方は、驚くほどに丁寧だった。
そして、教わった知識を使って、記乃は精一杯身支度を整える。
好きな人と会うために。
それは、これまでの人生で、一度も経験したことのない感情だった。
初めてきちんと化粧をして、洒落た髪型で待ち合わせへ向かった日。
偵記は、記乃の顔を見た瞬間、固まった。
「……兄さん?」
返事がない。
記乃は、少し不安になった。
「やはり、変でしょうか」
「……」
「すみません。お化粧を落としてきます」
踵を返しかけた瞬間、手首を掴まれた。
「待て」
低い声。
偵記の手は、驚くほど強く、熱かった。
「……落とすな」
その声が妙に掠れていて、記乃はきょとんとした。
「変では、ない?」
「変なわけあるか」
偵記はそう言ったあと、盛大に目を逸らした。
耳が赤い。
記乃は、それを見て、ようやく理解した。
(……照れている)
それがわかった瞬間、自分の胸の奥も、少しだけ熱くなった。
そして、ふたりで会うようになって、三度目の逢瀬の日。
まだ風が冷たい季節だった。
町中を肩を寄せて歩きながら、偵記はふと思った。
「……なあ」
「はい?」
「なんていうか、こう……こういう状況で〝兄さん〟って呼ぶの、さすがにまずくねえか」
記乃は、少し考えた。
恋人同士として並んで歩いているというのに、呼び方だけが、昔のまま。
それはたしかに、奇妙な状況だった。
「では、なんとお呼びしたら……」
「名前でいいだろ」
偵記はぶっきらぼうに言う。
記乃は、一瞬だけ視線を彷徨わせた。
「……では」
少しだけ照れくさそうに。
「偵記さん、と」
その瞬間、偵記はぴたりと動きを止めた。
そして、無言で顔を逸らす。
「……?」
記乃は不思議そうに首を傾げたが、長年ともにいたせいで、わかってしまう。
──喜んでいる。
それも、少しどころの話ではない。
偵記は、口元を手で隠しながら低く言った。
「……慣れねえ」
「私もです」
そう返すと、偵記は少しだけ笑った。
ふたりで会うたびに、ふたりの関係性は、少しずつ輪郭は変えていった。
町を歩き、茶を飲み、本を見て、甘味を分け合う。そういう時間を積み重ねるうちに、記乃は理解し始めていた。
偵記は、心の底から自分と会いたがっているのだ、と。
実際、偵記は週に二度ほどしかない休日のうち、その大半を記乃へ使っていた。
「少し、会いすぎではありませんか」
以前、記乃はそう訊ねたことがある。
「偵記さんにも、休息や交友関係が必要かと」
すると偵記は、心底呆れたような顔をした。
「おまえ、おれが嫌々ひとと会うと思ってんのか」
低く、不機嫌そうな声。
だが、その奥にある感情は、長年一緒にいた記乃にはわかる。
これは怒っているのではなく、照れているのだ。
「おれは、会いたいから会ってるだけだ」
ぶっきらぼうにそう言ったあと、偵記はそっぽを向いてしまった。
記乃は、その横顔を見ながら、少しだけ考えた。
この人は、昔からそうだった。
嫌なことは嫌だと言う。
苦手な人間には近づかない。
決して愛想笑いをしない。
良くも悪くも、不器用なほど正直なのだ。
だからこそ、好きで会ってくれているのだと、納得せざるを得なかった。
──────────
偵記は、いつもなにかしら贈り物をしてくれた。
菓子。本。髪紐。香。
会ったとき、あるいは、その日の別れ際。
不器用な人間なりの、好意の表し方なのだろうと思った。
しかし、こうも毎回となると、どうにも申し訳がなかった。
記乃はいま、定職についているわけではない。
それでも、化野から仕事の礼として小遣いを受け取っている。
ならば、自分もなにか返したいと思った。
好きな人へ、自分の意思で。
春の始まり。
桜が咲き始めた、その日。
待ち合わせ場所へやってきた偵記へ、記乃は小さな包みを差し出した。
「あの」
少しだけ緊張した声。
「これ。気に入らないものだったら、すみません」
偵記は目を瞬く。
「……おれに?」
「はい」
受け取り、包みを開く。
中には、黒檀の櫛が入っていた。
深い黒色の木肌に繊細に彫り込まれた、竜胆の花。
偵記は、一瞬、息を止めた。
竜胆は、記乃が好きな花だった。
そして以前、自分も好きだと言ったことがある、数少ない花。
さらに──
櫛を贈る意味を、偵記は知っている。
添い遂げる。将来を誓う。
つまり、これは。
(……待ってくれよ)
偵記は、しばらく言葉を失った。
記乃は、不安そうに様子を窺っている。
「やはり、変でしたか」
「違う」
偵記は即座に否定した。
そして、櫛を大切そうに懐へしまう。
「……ありがとな」
声が、少しだけ低かった。
そのあと。
今度は偵記が、小さな桐箱を差し出した。
「おれからも」
記乃は受け取って、そっと開く。
中には、竜胆の簪が入っていた。
銀細工の先に、小さな紫の花。
記乃は、目を見開く。
簪を贈る意味を、記乃も知っていた。
あなたを守る。大切に思う。
つまり──
ふたりは、そこでようやく気づく。
図らずも、お互い、同じ意味の品を選んでいたのだと。
しばらく見つめ合って、ほとんど同時に、笑った。
「……偶然ですか?」
「知らん」
「ですが、同じ竜胆の花でした」
「おまえが好きだからな」
あまりにも自然に返されて、記乃は少しだけ頬を熱くする。
桜が風に揺れていた。
淡い花弁が、春の光の中を流れていく。
記乃は、そっと偵記の左腕へ手を回した。
偵記は、一瞬だけ目を丸くしたあと、何も言わず、そのまま歩幅を合わせる。
肩が触れる。
衣擦れの音。
春の匂い。
そのどれもが、穏やかだった。
ふたりは、ゆっくり並んで歩き出す。
長いあいだ、兄妹として隣を歩いてきた。
けれど、いまではもう、少しだけ違う形で肩を寄せ合っている。
その事実が、堪らなく愛おしく、大切なものだと実感した。




