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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第四章 新生篇
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第十二話 逢瀬

 人間という生き物は、幸福を手に入れた瞬間よりも、それが日常へ溶け始めたときに、ようやく〝幸せだったのだ〟と理解する。


 特別な出来事だけが幸福なのではない。

 待ち合わせの時間。聞き慣れた足音。相手が好きそうなものを見つけた瞬間。

 そういう小さな感情の積み重なりが、気づけば生活の奥へ静かに沈殿していく。


 幸福とは、ときに、劇的な光ではない。

 長く降り続けた雨のあと、ようやく身体から抜けていく湿気みたいに、あとからじわじわと、人間の輪郭を変えていくものなのだ。



──────────



 記乃が化野の仕事を手伝い始めてから、半年が経っていた。


 季節は巡り、冬の鋭い空気はゆるやかにほどけ、帝都には春の匂いが混じり始めている。

 庭の草木も少しずつ芽吹き、以前ほど、空気は肺を刺すような寒さを逃がしていた。


 記乃は、以前より忙しくなった。

 化野の助手として各地へ同行し、怪異(オカルト)を解体し、現象を条件へ分解し、報告を整理する。

 ときには、化野へ記録法そのものを教えることもあった。


「いやあ、君の報告書、本当に読みやすいんだよねえ」


 そう言って、化野は毎回感心したように笑う。


「必要な項目が整理されていますから」

「その〝整理〟を、みんなができれば苦労しないんだけどなあ」


 仕事は想定よりも忙しかった。

 だが、苦ではなかった。

 むしろ、記乃はようやく、自分が生きている感覚を取り戻し始めていた。


 平穏もある。役割もある。帰る家もある。

 そして、好きな人もいる。



──────────



 ひと月に二度ほどの結城家での夕餉とは別に、記乃と偵記は、週に一度、ふたりだけで会う約束をしていた。


 最初のころは、どこかぎこちなかった。

 後宮を離れ、戸籍を変え、兄妹ではなくなる準備をして、それでも長年染みついた呼び方や距離感は、簡単には変わらない。

 けれど、幸せな時間には違いなかった。


 お洒落というものも、最初はよくわからなかった。

 だが、化野は妙なところで面倒見がよかった。


「白粉は、こう。首との境目を馴染ませる」

「はい」

「紅は引きすぎると、途端に芝居っぽくなるからねえ」

「芝居っぽくなる」

「そう。あと、君は目元が涼しいから、髪は少し柔らかく崩した方が映える」


 化野は、驚くほど器用に記乃へ化粧や髪型を教えた。


「……なぜ、こんなに詳しいんですか」

「私は根っからの洒落者だよ。」


 教え方は、驚くほどに丁寧だった。


 そして、教わった知識を使って、記乃は精一杯身支度を整える。

 好きな人と会うために。

 それは、これまでの人生で、一度も経験したことのない感情だった。


 初めてきちんと化粧をして、洒落た髪型で待ち合わせへ向かった日。

 偵記は、記乃の顔を見た瞬間、固まった。


「……兄さん?」


 返事がない。

 記乃は、少し不安になった。


「やはり、変でしょうか」

「……」

「すみません。お化粧を落としてきます」


 踵を返しかけた瞬間、手首を掴まれた。


「待て」

 低い声。

 偵記の手は、驚くほど強く、熱かった。


「……落とすな」


 その声が妙に掠れていて、記乃はきょとんとした。


「変では、ない?」

「変なわけあるか」


 偵記はそう言ったあと、盛大に目を逸らした。

 耳が赤い。

 記乃は、それを見て、ようやく理解した。


(……照れている)


 それがわかった瞬間、自分の胸の奥も、少しだけ熱くなった。


 そして、ふたりで会うようになって、三度目の逢瀬の日。

 まだ風が冷たい季節だった。

 町中を肩を寄せて歩きながら、偵記はふと思った。


「……なあ」

「はい?」

「なんていうか、こう……こういう状況で〝兄さん〟って呼ぶの、さすがにまずくねえか」


 記乃は、少し考えた。

 恋人同士として並んで歩いているというのに、呼び方だけが、昔のまま。

 それはたしかに、奇妙な状況だった。


「では、なんとお呼びしたら……」

「名前でいいだろ」


 偵記はぶっきらぼうに言う。

 記乃は、一瞬だけ視線を彷徨わせた。


「……では」


 少しだけ照れくさそうに。


「偵記さん、と」


 その瞬間、偵記はぴたりと動きを止めた。

 そして、無言で顔を逸らす。


「……?」


 記乃は不思議そうに首を傾げたが、長年ともにいたせいで、わかってしまう。


 ──喜んでいる。

 それも、少しどころの話ではない。


 偵記は、口元を手で隠しながら低く言った。


「……慣れねえ」

「私もです」


 そう返すと、偵記は少しだけ笑った。


 ふたりで会うたびに、ふたりの関係性は、少しずつ輪郭は変えていった。

 町を歩き、茶を飲み、本を見て、甘味を分け合う。そういう時間を積み重ねるうちに、記乃は理解し始めていた。


 偵記は、心の底から自分と会いたがっているのだ、と。


 実際、偵記は週に二度ほどしかない休日のうち、その大半を記乃へ使っていた。


「少し、会いすぎではありませんか」


 以前、記乃はそう訊ねたことがある。


「偵記さんにも、休息や交友関係が必要かと」


 すると偵記は、心底呆れたような顔をした。


「おまえ、おれが嫌々ひとと会うと思ってんのか」


 低く、不機嫌そうな声。

 だが、その奥にある感情は、長年一緒にいた記乃にはわかる。

 これは怒っているのではなく、照れているのだ。


「おれは、会いたいから会ってるだけだ」


 ぶっきらぼうにそう言ったあと、偵記はそっぽを向いてしまった。

 記乃は、その横顔を見ながら、少しだけ考えた。


 この人は、昔からそうだった。

 嫌なことは嫌だと言う。

 苦手な人間には近づかない。

 決して愛想笑いをしない。

 良くも悪くも、不器用なほど正直なのだ。


 だからこそ、好きで会ってくれているのだと、納得せざるを得なかった。



──────────



 偵記は、いつもなにかしら贈り物をしてくれた。


 菓子。本。髪紐。香。

 会ったとき、あるいは、その日の別れ際。


 不器用な人間なりの、好意の表し方なのだろうと思った。

 しかし、こうも毎回となると、どうにも申し訳がなかった。


 記乃はいま、定職についているわけではない。

 それでも、化野から仕事の礼として小遣いを受け取っている。

 ならば、自分もなにか返したいと思った。


 好きな人へ、自分の意思で。


 春の始まり。

 桜が咲き始めた、その日。

 待ち合わせ場所へやってきた偵記へ、記乃は小さな包みを差し出した。


「あの」


 少しだけ緊張した声。


「これ。気に入らないものだったら、すみません」


 偵記は目を瞬く。


「……おれに?」

「はい」


 受け取り、包みを開く。


 中には、黒檀の櫛が入っていた。

 深い黒色の木肌に繊細に彫り込まれた、竜胆の花。


 偵記は、一瞬、息を止めた。

 竜胆は、記乃が好きな花だった。

 そして以前、自分も好きだと言ったことがある、数少ない花。


 さらに──

 櫛を贈る意味を、偵記は知っている。


 添い遂げる。将来を誓う。

 つまり、これは。


(……待ってくれよ)


 偵記は、しばらく言葉を失った。

 記乃は、不安そうに様子を窺っている。


「やはり、変でしたか」

「違う」


 偵記は即座に否定した。

 そして、櫛を大切そうに懐へしまう。


「……ありがとな」


 声が、少しだけ低かった。

 そのあと。

 今度は偵記が、小さな桐箱を差し出した。


「おれからも」


 記乃は受け取って、そっと開く。

 中には、竜胆の簪が入っていた。

 銀細工の先に、小さな紫の花。


 記乃は、目を見開く。

 簪を贈る意味を、記乃も知っていた。


 あなたを守る。大切に思う。


 つまり──

 ふたりは、そこでようやく気づく。

 図らずも、お互い、同じ意味の品を選んでいたのだと。


 しばらく見つめ合って、ほとんど同時に、笑った。


「……偶然ですか?」

「知らん」

「ですが、同じ竜胆の花でした」

「おまえが好きだからな」


 あまりにも自然に返されて、記乃は少しだけ頬を熱くする。


 桜が風に揺れていた。

 淡い花弁が、春の光の中を流れていく。


 記乃は、そっと偵記の左腕へ手を回した。

 偵記は、一瞬だけ目を丸くしたあと、何も言わず、そのまま歩幅を合わせる。


 肩が触れる。

 衣擦れの音。

 春の匂い。

 そのどれもが、穏やかだった。


 ふたりは、ゆっくり並んで歩き出す。


 長いあいだ、兄妹として隣を歩いてきた。

 けれど、いまではもう、少しだけ違う形で肩を寄せ合っている。


 その事実が、堪らなく愛おしく、大切なものだと実感した。

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