第十一話 助手
人は役割を失ったあとで、自分がどれほどその役割へ依存していたのかを知る。
朝、起きる理由。紙を捲る理由。外へ出る理由。呼ばれる理由。
そういうものは、生きるために必要不可欠な器官ではない。
しかし、それが長く身体へ馴染んでいた場合、人間は役割を失った瞬間、まるで骨を一本抜かれたような、不安定な感覚を覚える。
平穏な時間は、ゆるやかに過ぎてゆく。
だが同時に、静かすぎる。
音のない空間は、ときに、人間へ己の空白を見せつけてくる。
──────────
結城家を訪れてから、三ヶ月が経っていた。
あれ以来、記乃と化野は少なくとも、ひと月に二度は結城家を訪れている。
途中、記乃の戸籍上の誕生日がやってきて、みなで盛大に祝ったりもして。
最初のころは多少遠慮をしていた化野も、今では手土産の酒瓶を抱えて「今日も飲むぞお」などと言いながら広間へ上がり込むようになった。
そして、翌日には記子と一緒に町で菓子を選んで買い与え、密記と料理談義をし、偵記に適当に絡んでは「鬱陶しい。静かにしてくれ」と真顔で返される程度には馴染んでいた。
人間の距離感というものは、不思議だ。
最初は借り物の服みたいに落ち着かなかった関係も、何度か同じ卓を囲めば、少しずつ身体へ馴染んでいく。
もっとも、生活そのものは、至極穏やかだった。
朝起きて、食事を作り、洗濯をし、庭へ手を入れ、書棚を整理し、化野の帰宅音を聞く。
そんな毎日。
記乃は、それを嫌だとは思っていない。
以前より、ずっと息がしやすい。
眠ることへ罪悪感を抱かなくなった。
湯気を眺める時間を、無意味だとは思わなくなった。
だが──
(……落ち着かない)
ある日の昼下がり。
洗濯物を干し終えた記乃は、縁側へ腰掛けながら、静かに空を見上げていた。
夏はすっかり薄れ、秋ですら、いまにも通り過ぎてゆきそうだ。
蝉は声を枯らし、代わりに鈴虫が鳴いている。
風は乾き始め、空は少し高くなっていた。
化野は、今日も外出中だ。
家の中は静かだった。
静かすぎるほどに。
(暇だ)
記乃は、内心でそう結論づける。
家事は慣れれば、想像より遥かに早く終わる。
効率化できる箇所は効率化し、手順を整理し、動線を最適化すれば、一日に必要な作業時間は大幅に減る。
そして問題なのは、その空いた時間だった。
化野は「ゆっくりしろ」と言う。
密記は「養育費だから遠慮するな」と言いながら、断る化野へ充分すぎる仕送りを寄越してくる。
それらはありがたい。
本当にありがたいのだが──
(どうも、申し訳ない……)
その感覚が、どうしても消えない。
ただ生活しているだけで、衣食住が保証される。
それを、記乃はまだうまく受け入れられていなかった。
役に立たなければならない。
働かなければならない。
成果を返さなければならない。
長年そうやって生きてきた人間にとって〝守られるだけ〟という状態は、湯へ沈めた石みたいに落ち着かないものに感じられるものだ。
夕方。
帰宅した化野は、玄関を開けた瞬間、「うわ、なんか今日は庭がさらに整ってる」と笑った。
記乃は、居間で帳簿をつけていた。
「おかえりなさい」
「ただいま。いやあ、今日は疲れた」
化野は履き物を脱ぎながら、だらりと肩を落とす。
「地方役人って、どうしてあんなに話が長いんだろうねえ」
「要点整理が不充分だからでは」
「うわあ。容赦ない」
けらけらと笑う化野に、記乃は伝えようか迷っていた。
記乃は少し考えたあと、静かに口を開く。
「化野さん」
「ん?」
「私、化野さんのお仕事を、お手伝いできませんか」
化野は、一瞬きょとんとした。
「え?」
そして、首を傾げる。
「どの仕事?」
記乃は少し考える。
記者。作家。民俗学者。
この人は肩書きが多すぎる。
しばらく迷ったあと、答えた。
「……民俗学者としてのお仕事を」
その瞬間だった。
化野の目が、ぱっと輝く。
「ああ、それは助かる!」
予想以上に勢いよく返ってきた。
「え?」
「いや、だってさあ。記乃ちゃんがいてくれたら、怪異をしっかり理屈で解いていけるじゃない?」
化野は本気で嬉しそうだった。
「私はさあ、どうしても〝人間側〟を見ちゃうんだよねえ。噂とか、恐怖とか、共同体とか、信仰とか」
そう言いながら、記乃を指差す。
「でも君、そこへ容赦なく科学的根拠なんかを持ち込むでしょ」
「現象には、条件がありますので」
「ほらそれ!」
化野は笑った。
「最高の助手じゃないか」
その言葉は、妙に自然だった。
──助手。
記乃は、その響きを胸の内側で転がす。
補佐ではなく、下働きでもなく、助手。
それは、以前より少しだけ対等に近い言葉だった。
翌日。
記乃は、さっそく化野の短期出張へ同行することになった。
行き先は、帝都から半日ほど離れた地方の華族邸宅。
車窓の外では、秋へ向かい始めた田畑が風に揺れている。
「今回の依頼は?」
記乃が訊ねると、化野は紙束をぱらぱら捲った。
「〝触れると死ぬ護符〟だって」
「触れると死ぬ……?」
「うん。屋敷内で使われてた護符に触れた人間が、数日後に死ぬらしい」
記乃は少し考える。
「接触後、即死ではない?」
「ない」
「複数人?」
「今のところ三人」
「症状は」
「嘔吐、痙攣、呼吸困難」
そこで、記乃は静かに言った。
「……遅効性の毒物の可能性がありますね」
化野が、にやりと笑う。
「やっぱりね。連れてきて、正解だった」
現地へ到着すると、屋敷の主人は、記乃の姿を見て露骨に困惑した。
「……こちらの、お嬢さんは?」
化野は平然としている。
「ああ、助手です。あと娘」
「娘……」
「社会勉強も兼ねてましてねえ。よろしければ、ご一緒させても?」
主人は明らかに戸惑っていた。
若い娘。
背の高い化野に比べて、ずいぶんと華奢な見た目。
怪異調査へ連れてくる人間には見えないのだろう。
だが、化野は気にしない。
記乃も記乃で、そういう視線には慣れている。
護符は、すぐに見つかった。
和紙に奇妙な文様が描かれ、紐で括られている。
記乃は手袋を借り、慎重に表面を観察した。
「……やはり。付着していますね」
「毒?」
「おそらく」
指先で、わずかに粉を掬う。
「触れたあと、手を洗わず食事を取れば、口から体内へ入る」
化野が主人へ向き直る。
「というわけで、怪異ではなく毒殺未遂ですねえ」
主人は、呆然としていた。
「そ、そんな……」
「護符なんて、人間、わりと無防備に触りますからね」
化野は肩を竦める。
「信仰ってもんは、〝疑わなくていい〟って安心感も込みなんですよねえ」
事件は、驚くほどあっさり片付いた。
犯人もほどなく判明。
使用人のひとりだった。
屋敷内の人間関係。遺産問題。嫉妬。
怪異という名前を剥がせば、そこに残るのは、結局いつもの人間だった。
帰り道。
夕暮れが、車窓を橙色へ染めていた。
田畑の向こうで、山際へ太陽が沈みかけている。
化野がハンドルを握りながら笑う。
「いやあ、助かった」
「護符に触れると死ぬ、という時点で、物理接触の確認は必要かと」
「その〝必要〟を即座にやる人間が貴重なんだよ」
化野はちらりと記乃を見る。
「楽しかった?」
記乃は少し考えた。
久しぶりだった。
条件を整理し、現象を観察し、仮説を立てて、答えへ辿り着く。
あの、懐かしい感覚。
「……少しだけ」
そう答えると、化野が吹き出す。
「その顔で〝少し〟は嘘だね」
記乃は窓の外を見る。
確かに、胸の内側には、ほんの少し満足感が残っていた。
平穏も悪くない。
だが、自分はやはり、なにかを解き明かしていると落ち着くらしい。
人は案外、自分の性質から逃げられない生き物なのかもしれなかった。




