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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第四章 新生篇
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第十一話 助手

 人は役割を失ったあとで、自分がどれほどその役割へ依存していたのかを知る。


 朝、起きる理由。紙を捲る理由。外へ出る理由。呼ばれる理由。

 そういうものは、生きるために必要不可欠な器官ではない。

 しかし、それが長く身体へ馴染んでいた場合、人間は役割を失った瞬間、まるで骨を一本抜かれたような、不安定な感覚を覚える。


 平穏な時間は、ゆるやかに過ぎてゆく。

 だが同時に、静かすぎる。

 音のない空間は、ときに、人間へ己の空白を見せつけてくる。



──────────



 結城家を訪れてから、三ヶ月が経っていた。

 あれ以来、記乃と化野は少なくとも、ひと月に二度は結城家を訪れている。


 途中、記乃の戸籍上の誕生日がやってきて、みなで盛大に祝ったりもして。


 最初のころは多少遠慮をしていた化野も、今では手土産の酒瓶を抱えて「今日も飲むぞお」などと言いながら広間へ上がり込むようになった。

 そして、翌日には記子と一緒に町で菓子を選んで買い与え、密記と料理談義をし、偵記に適当に絡んでは「鬱陶しい。静かにしてくれ」と真顔で返される程度には馴染んでいた。


 人間の距離感というものは、不思議だ。

 最初は借り物の服みたいに落ち着かなかった関係も、何度か同じ卓を囲めば、少しずつ身体へ馴染んでいく。


 もっとも、生活そのものは、至極穏やかだった。

 朝起きて、食事を作り、洗濯をし、庭へ手を入れ、書棚を整理し、化野の帰宅音を聞く。

 そんな毎日。


 記乃は、それを嫌だとは思っていない。

 以前より、ずっと息がしやすい。


 眠ることへ罪悪感を抱かなくなった。

 湯気を眺める時間を、無意味だとは思わなくなった。

 だが──


(……落ち着かない)


 ある日の昼下がり。

 洗濯物を干し終えた記乃は、縁側へ腰掛けながら、静かに空を見上げていた。


 夏はすっかり薄れ、秋ですら、いまにも通り過ぎてゆきそうだ。

 蝉は声を枯らし、代わりに鈴虫が鳴いている。

 風は乾き始め、空は少し高くなっていた。


 化野は、今日も外出中だ。

 家の中は静かだった。

 静かすぎるほどに。


(暇だ)


 記乃は、内心でそう結論づける。

 家事は慣れれば、想像より遥かに早く終わる。

 効率化できる箇所は効率化し、手順を整理し、動線を最適化すれば、一日に必要な作業時間は大幅に減る。


 そして問題なのは、その空いた時間だった。

 化野は「ゆっくりしろ」と言う。

 密記は「養育費だから遠慮するな」と言いながら、断る化野へ充分すぎる仕送りを寄越してくる。


 それらはありがたい。

 本当にありがたいのだが──


(どうも、申し訳ない……)


 その感覚が、どうしても消えない。

 ただ生活しているだけで、衣食住が保証される。

 それを、記乃はまだうまく受け入れられていなかった。


 役に立たなければならない。

 働かなければならない。

 成果を返さなければならない。

 長年そうやって生きてきた人間にとって〝守られるだけ〟という状態は、湯へ沈めた石みたいに落ち着かないものに感じられるものだ。


 夕方。

 帰宅した化野は、玄関を開けた瞬間、「うわ、なんか今日は庭がさらに整ってる」と笑った。

 記乃は、居間で帳簿をつけていた。


「おかえりなさい」

「ただいま。いやあ、今日は疲れた」


 化野は履き物を脱ぎながら、だらりと肩を落とす。


「地方役人って、どうしてあんなに話が長いんだろうねえ」

「要点整理が不充分だからでは」

「うわあ。容赦ない」


 けらけらと笑う化野に、記乃は伝えようか迷っていた。

 記乃は少し考えたあと、静かに口を開く。


「化野さん」

「ん?」

「私、化野さんのお仕事を、お手伝いできませんか」


 化野は、一瞬きょとんとした。


「え?」


 そして、首を傾げる。


「どの仕事?」


 記乃は少し考える。

 記者。作家。民俗学者。

 この人は肩書きが多すぎる。

 しばらく迷ったあと、答えた。


「……民俗学者としてのお仕事を」


 その瞬間だった。

 化野の目が、ぱっと輝く。


「ああ、それは助かる!」


 予想以上に勢いよく返ってきた。


「え?」

「いや、だってさあ。記乃ちゃんがいてくれたら、怪異(オカルト)をしっかり理屈で解いていけるじゃない?」


 化野は本気で嬉しそうだった。


「私はさあ、どうしても〝人間側〟を見ちゃうんだよねえ。噂とか、恐怖とか、共同体とか、信仰とか」


 そう言いながら、記乃を指差す。


「でも君、そこへ容赦なく科学的根拠なんかを持ち込むでしょ」

「現象には、条件がありますので」

「ほらそれ!」


 化野は笑った。


「最高の助手じゃないか」


 その言葉は、妙に自然だった。


 ──助手。

 記乃は、その響きを胸の内側で転がす。


 補佐ではなく、下働きでもなく、助手。

 それは、以前より少しだけ対等に近い言葉だった。


 翌日。

 記乃は、さっそく化野の短期出張へ同行することになった。

 行き先は、帝都から半日ほど離れた地方の華族邸宅。

 車窓の外では、秋へ向かい始めた田畑が風に揺れている。


「今回の依頼は?」


 記乃が訊ねると、化野は紙束をぱらぱら捲った。


「〝触れると死ぬ護符〟だって」

「触れると死ぬ……?」

「うん。屋敷内で使われてた護符に触れた人間が、数日後に死ぬらしい」


 記乃は少し考える。


「接触後、即死ではない?」

「ない」

「複数人?」

「今のところ三人」

「症状は」

「嘔吐、痙攣、呼吸困難」


 そこで、記乃は静かに言った。


「……遅効性の毒物の可能性がありますね」


 化野が、にやりと笑う。


「やっぱりね。連れてきて、正解だった」


 現地へ到着すると、屋敷の主人は、記乃の姿を見て露骨に困惑した。


「……こちらの、お嬢さんは?」


 化野は平然としている。


「ああ、助手です。あと娘」

「娘……」

「社会勉強も兼ねてましてねえ。よろしければ、ご一緒させても?」


 主人は明らかに戸惑っていた。

 若い娘。

 背の高い化野に比べて、ずいぶんと華奢な見た目。

 怪異調査へ連れてくる人間には見えないのだろう。


 だが、化野は気にしない。

 記乃も記乃で、そういう視線には慣れている。

 護符は、すぐに見つかった。

 和紙に奇妙な文様が描かれ、紐で括られている。

 記乃は手袋を借り、慎重に表面を観察した。


「……やはり。付着していますね」

「毒?」

「おそらく」


 指先で、わずかに粉を掬う。


「触れたあと、手を洗わず食事を取れば、口から体内へ入る」


 化野が主人へ向き直る。


「というわけで、怪異ではなく毒殺未遂ですねえ」


 主人は、呆然としていた。


「そ、そんな……」

「護符なんて、人間、わりと無防備に触りますからね」


 化野は肩を竦める。


「信仰ってもんは、〝疑わなくていい〟って安心感も込みなんですよねえ」


 事件は、驚くほどあっさり片付いた。


 犯人もほどなく判明。

 使用人のひとりだった。


 屋敷内の人間関係。遺産問題。嫉妬。


 怪異(オカルト)という名前を剥がせば、そこに残るのは、結局いつもの人間だった。


 帰り道。

 夕暮れが、車窓を橙色へ染めていた。

 田畑の向こうで、山際へ太陽が沈みかけている。

 化野がハンドルを握りながら笑う。


「いやあ、助かった」

「護符に触れると死ぬ、という時点で、物理接触の確認は必要かと」

「その〝必要〟を即座にやる人間が貴重なんだよ」


 化野はちらりと記乃を見る。


「楽しかった?」


 記乃は少し考えた。

 久しぶりだった。

 条件を整理し、現象を観察し、仮説を立てて、答えへ辿り着く。

 あの、懐かしい感覚。


「……少しだけ」


 そう答えると、化野が吹き出す。


「その顔で〝少し〟は嘘だね」


 記乃は窓の外を見る。

 確かに、胸の内側には、ほんの少し満足感が残っていた。


 平穏も悪くない。


 だが、自分はやはり、なにかを解き明かしていると落ち着くらしい。


 人は案外、自分の性質から逃げられない生き物なのかもしれなかった。

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