第十話 実家
人は、家族という言葉を、血によって説明したがる。
だれの子なのか。
だれと繋がっているのか。
同じ顔をしているのか。
同じ姓を名乗っているのか。
そうやって、人と人の関係へ線を引き、分類し、安心しようとする。
けれど実際には、もっと曖昧なものがある。
同じ食卓を囲んだ時間。風邪を引いた夜に掛けられた布団。帰宅音に安心する感覚。何気なく差し出された湯飲み。
そういう名前のつかない積み重ねの方が、ときに、血縁よりも深く人間を繋いでしまう。
だからこそ人は、家族を失うとき、戸籍より先に、生活の音を思い出すのだろう。
──────────
化野家へ移ってから、ひと月ほどが経ったころだった。
昼過ぎ、化野が記者の仕事で外出しているあいだ、記乃は居間で洗濯物を畳んでいた。
夏の終わりが近づき始めた空気は、以前よりほんの少しだけ風が軽い。庭へ干していた白い布地が、障子越しの光を受けながら静かに揺れている。
そのとき、玄関先で郵便配達の声がした。
受け取った封書を開く。
見慣れた字だった。
「……父上」
密記からだった。
内容は簡潔だった。
そろそろ一度帰ってきてくれ、ということ。 化野も正式に紹介したいこと。夕餉を囲みたいこと。
紙面からは、どこか浮き立つような気配まで滲んでいた。
記乃はしばらく、その文を見つめていた。
──帰る。
その言葉に、胸の内側が静かに揺れる。
結城家を出た。戸籍も変わった。姓も変わった。
それでも、自分の中ではまだ、あの家へ向かう感覚を〝帰る〟と呼んでいた。
夕方。
帰宅した化野へ手紙を見せると、化野は文面を読みながら「ああ」と声を漏らした。
「たしかに、一度顔は出さないとねえ」
そして、くすりと笑う。
「記子ちゃん、私のこと、どんな人間だと思ってるんだろ」
「少なくとも、警戒はしていないかと」
「へえ?」
「手紙の文面に、〝ぜひお会いしたいです〟と書かれていましたので」
「うわ。純粋な子だなあ」
化野は、少しだけ困ったように笑った。
記乃は机へ向かい、返事を書く。
三日後の夕方、伺います、と。
──────────
三日後。
昼を少し回ったころ、化野は「手土産を買いに行こう」と言い出した。
帝都の通りは相変わらず人が多い。
電柱の並ぶ道を、人力車と自動車と、自転車と学生たちが入り乱れるように行き交っている。
化野は、まず酒屋へ入った。
「結城家って、酒飲む?」
「父上は好きです。兄さんも多少は」
「じゃあ、少しいいの持ってくか」
化野は棚を眺めながら、普段より少し真面目な顔をしていた。
選んだのは、透明な瓶へ入った、やや高価な酒だった。
「こういうの、最初が肝心だからねえ」
そのあと菓子屋へ寄り、記子向けの菓子も買った。
包み紙は淡い桃色で、金の紐が掛けられている。
「子どもって、こういうの好きでしょ」
「記子は喜ぶと思います」
さらに、風呂敷包みを抱えた記乃へ、化野が視線を向ける。
「それ、ぬか漬け?」
「はい。せっかくですので」
「完全に嫁だなあ」
記乃は少し考えた。
「……長期保存が可能で、酒にも合いますので」
「そこじゃないんだけどねえ」
化野は、けらけら笑った。
そして夕方。
結城家へ到着すると、玄関には記子が立っていた。
薄桃色の花柄の着物を着て、背筋をぴんと伸ばしている。
まだ幼さの残る顔立ちなのに、今日は妙に気合いが入っていた。
「い、いらっしゃいませ!」
やや緊張した声。
だが、その目は期待で輝いている。
化野は一瞬だけ目を丸くしたあと、柔らかく笑った。
「こんにちは、記子ちゃん」
「は、はいっ」
化野が菓子箱を差し出す。
「よかったら、これ」
「わあ……!」
記子の顔がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます!」
その横では、サトが深々と頭を下げていた。
「わざわざありがとうございます」
化野が酒瓶を渡すと、サトは慣れた手つきで受け取る。
「冷やして、後ほどお出しいたしますわ」
さらに、風呂敷を見て目を細めた。
「あら、ぬか漬けですか。記乃様のお手製?」
「はい」
「まあ。後ほどいただくのが楽しみです」
広間へ向かう途中。
記乃は、廊下の端から向けられる視線へ気づいていた。
使用人たちだ。
以前、自分をどこか冷ややかに見ていた人間たち。
そのうちの何人かが、今日は妙に気まずそうに目を逸らしている。
理由は分かっていた。
いま、この家では、こういう説明になっている。
──捨て子とされていた記乃の、本当の母親が見つかった。
つまり彼女たちは、これまで“素性の曖昧な子”として扱っていた相手が、実は事情ある血筋だった、と後から知らされたのだ。
化野は、その空気を一目で察したらしかった。
「ふうん」
廊下を歩きながら、小さく笑う。
「こりゃまた、ずいぶんなもんだねえ」
その視線は穏やかだったが、妙に鋭かった。
軽薄そうに笑うくせに、人間の空気を読むときだけ、この人は刃物みたいな目をする。
広間へ入ると、すでに密記と偵記が座っていた。
料理はまだ運び込まれている最中らしく、焼き魚の匂いと出汁の香りが部屋へ満ちている。
「おお、来た来た!」
密記が嬉しそうに立ち上がる。
「居間じゃ狭いと思ってな。今日は広間で食えるようにしてもらったんだ」
卓には、すでにかなりの料理が並んでいた。
刺身。焼き魚。煮物。吸い物。季節野菜。
そして、そのうち何品かは、密記の手作りらしい。
「今日は俺も台所に立ったんだ」
密記が少し得意げに笑う。
化野が目を丸くした。
「え、武家の当主が?」
「趣味みたいなもんですよ」
丁寧な火加減。柔らかな出汁。酒を飲む人間を理解している肴たち。
日ごろ台所に立っている使用人たちの料理の中に、武家の当主が作った料理が並んでいるとは……
この見た目から、そうは思えなかった。
それほど、密記の料理は、どれをだれが作ったかわからない出来、ということだ。
「へえ。面白い家だねえ」
そのときだった。
記子が、ぱっと顔を上げる。
「お兄様とお姉様は、隣合ってくださいっ」
一瞬。
広間が静かになった。
化野が、ぽかんとする。
偵記は露骨に目を逸らした。
「……記子」
「だ、だって!」
記子は慌てて続ける。
「久しぶりなんですから、その、たくさんお話したいでしょうし……!」
偵記は耳まで赤くなっている。
記乃は少しだけ首を傾げた。
「兄さん?」
「……なんでもない」
低い声だった。
その様子を見ていた化野が、耐えきれないように吹き出す。
「あっはは! いやあ、初々しいなあ!」
密記が笑う。
すると今度は、記子が化野へ向き直った。
「化野さん」
「うん?」
「初対面でこんなお願いをするのは不躾なのですが……わたしが隣でも、よろしいですか?」
化野は、一瞬だけ目を瞬かせた。
そして、柔らかく笑う。
「もちろん。喜んで」
記子の顔が、嬉しそうにほころんだ。
夕餉の時間が始まる。
冷やされた酒が運ばれ、ぬか漬けが小皿へ並べられる。
サトが「こちらは記乃お嬢様が漬けたと伺いましたよ」と言うと、密記が驚いた顔をする。
化野は一口食べた瞬間、「美味しい〜」と素直に声を漏らした。
「これ、かなりいい具合に漬かってるね」
「まだ浅漬け寄りですが」
「いやいや、充分。酒に合う」
密記も頷く。
「うまいな。ぬか床を、ちゃあんと育ててる味だ」
「父上のものを参考にしました」
「俺の?」
「はい。近い味にできたかと」
密記は、少しだけ照れくさそうに笑った。
「……そうか」
その横では、偵記が焼き魚を取り分けていた。
「記乃、骨」
「あ、ありがとうございます」
「おまえ、魚食うの下手なんだから。小骨が喉に刺さるだろ。おれがやる」
「そこまで下手ではありません」
「いや、下手だ」
「兄さんは過保護です」
「お前が危なっかしいんだ」
以前と変わらない会話。
それが妙に心地よかった。
化野は、その様子を酒を飲みながら眺めている。
「いやあ、本当に仲いいねえ」
「化野さんは、ご兄弟はいらっしゃらないんですか?」
記子が訊ねる。
「いるにはいるけど、いまじゃ、だいぶ疎遠かなあ」
「そうなのですか……」
「まあ、家って色々あるからねえ」
化野は軽く笑った。
だが、その笑い方は少しだけ薄かった。
密記が酒を注ぎながら口を開く。
「でも、仲良く過ごしているようで安心したよ」
その視線は、化野と記乃を交互に見ていた。
「正直、最初はどうなるかと思ってたからなあ」
「ええ? 密記殿、そりゃあひどいなあ」
化野が抗議する。
「私、かなり善良な部類だよ?」
「善良な人間は、自分でそう言わん」
偵記が即答した。
広間に笑いが広がる。
記子は、いつの間にか完全に化野へ懐いていた。
「化野さん、今度お庭見てもいいですか?」
「いいよお。最近、記乃ちゃんが整備してくれてねえ」
「お姉様、庭まで……」
「雑草が多かったので」
「それを普通は、ひと月で整えないんだよなあ」
化野が笑いながら酒を飲む。
密記は、その光景を静かに見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……これからも、時々顔を出してくれ」
その声音は穏やかだった。
けれど、どこか寂しさも滲んでいる。
記乃は、静かに頷いた。
「はい」
帰る場所。
その言葉を、いまなら少し理解できる気がした。
その日は泊まることになっていた。
酒を飲んだ化野が運転をしては、法律違反になるためだ。
夜。
風呂上がりの廊下は秋口の風が入っており、少し涼しく感じられる。
庭からは虫の声が聞こえている。
記乃は、自分へ用意された布団へ座りながら、静かに周囲を見渡した。
見慣れた部屋に、嗅ぎ慣れた匂い。
けれど、自分はもう、この家の戸籍にはいない。
それでも、不思議だった。
──失われた感じがしない。
むしろ以前より、ここへ帰ってきた実感の方が強い。
人の居場所というものは、紙に書かれた姓だけでは決まらないのかもしれない。
そんなことを思いながら、記乃は静かに灯りを落とした。




