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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第四章 新生篇
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第十話 実家

 人は、家族という言葉を、血によって説明したがる。


 だれの子なのか。

 だれと繋がっているのか。

 同じ顔をしているのか。

 同じ姓を名乗っているのか。

 そうやって、人と人の関係へ線を引き、分類し、安心しようとする。


 けれど実際には、もっと曖昧なものがある。

 同じ食卓を囲んだ時間。風邪を引いた夜に掛けられた布団。帰宅音に安心する感覚。何気なく差し出された湯飲み。


 そういう名前のつかない積み重ねの方が、ときに、血縁よりも深く人間を繋いでしまう。

 だからこそ人は、家族を失うとき、戸籍より先に、生活の音を思い出すのだろう。



──────────



 化野家へ移ってから、ひと月ほどが経ったころだった。


 昼過ぎ、化野が記者の仕事で外出しているあいだ、記乃は居間で洗濯物を畳んでいた。

 夏の終わりが近づき始めた空気は、以前よりほんの少しだけ風が軽い。庭へ干していた白い布地が、障子越しの光を受けながら静かに揺れている。

 そのとき、玄関先で郵便配達の声がした。


 受け取った封書を開く。

 見慣れた字だった。


「……父上」


 密記からだった。

 内容は簡潔だった。

 そろそろ一度帰ってきてくれ、ということ。  化野も正式に紹介したいこと。夕餉を囲みたいこと。

 紙面からは、どこか浮き立つような気配まで滲んでいた。


 記乃はしばらく、その文を見つめていた。


 ──帰る。

 その言葉に、胸の内側が静かに揺れる。

 結城家を出た。戸籍も変わった。姓も変わった。


 それでも、自分の中ではまだ、あの家へ向かう感覚を〝帰る〟と呼んでいた。


 夕方。

 帰宅した化野へ手紙を見せると、化野は文面を読みながら「ああ」と声を漏らした。


「たしかに、一度顔は出さないとねえ」


 そして、くすりと笑う。


「記子ちゃん、私のこと、どんな人間だと思ってるんだろ」

「少なくとも、警戒はしていないかと」

「へえ?」

「手紙の文面に、〝ぜひお会いしたいです〟と書かれていましたので」

「うわ。純粋な子だなあ」


 化野は、少しだけ困ったように笑った。

 記乃は机へ向かい、返事を書く。

 三日後の夕方、伺います、と。



──────────



 三日後。

 昼を少し回ったころ、化野は「手土産を買いに行こう」と言い出した。


 帝都の通りは相変わらず人が多い。

 電柱の並ぶ道を、人力車と自動車と、自転車と学生たちが入り乱れるように行き交っている。

 化野は、まず酒屋へ入った。


「結城家って、酒飲む?」

「父上は好きです。兄さんも多少は」

「じゃあ、少しいいの持ってくか」


 化野は棚を眺めながら、普段より少し真面目な顔をしていた。

 選んだのは、透明な瓶へ入った、やや高価な酒だった。


「こういうの、最初が肝心だからねえ」


 そのあと菓子屋へ寄り、記子向けの菓子も買った。

 包み紙は淡い桃色で、金の紐が掛けられている。


「子どもって、こういうの好きでしょ」

「記子は喜ぶと思います」


 さらに、風呂敷包みを抱えた記乃へ、化野が視線を向ける。


「それ、ぬか漬け?」

「はい。せっかくですので」

「完全に嫁だなあ」


 記乃は少し考えた。


「……長期保存が可能で、酒にも合いますので」

「そこじゃないんだけどねえ」


 化野は、けらけら笑った。


 そして夕方。

 結城家へ到着すると、玄関には記子が立っていた。

 薄桃色の花柄の着物を着て、背筋をぴんと伸ばしている。

 まだ幼さの残る顔立ちなのに、今日は妙に気合いが入っていた。


「い、いらっしゃいませ!」


 やや緊張した声。

 だが、その目は期待で輝いている。

 化野は一瞬だけ目を丸くしたあと、柔らかく笑った。


「こんにちは、記子ちゃん」

「は、はいっ」


 化野が菓子箱を差し出す。


「よかったら、これ」

「わあ……!」


 記子の顔がぱっと明るくなる。


「ありがとうございます!」


 その横では、サトが深々と頭を下げていた。


「わざわざありがとうございます」


 化野が酒瓶を渡すと、サトは慣れた手つきで受け取る。


「冷やして、後ほどお出しいたしますわ」


 さらに、風呂敷を見て目を細めた。


「あら、ぬか漬けですか。記乃様のお手製?」

「はい」

「まあ。後ほどいただくのが楽しみです」


 広間へ向かう途中。

 記乃は、廊下の端から向けられる視線へ気づいていた。

 使用人たちだ。

 以前、自分をどこか冷ややかに見ていた人間たち。

 そのうちの何人かが、今日は妙に気まずそうに目を逸らしている。


 理由は分かっていた。

 いま、この家では、こういう説明になっている。


 ──捨て子とされていた記乃の、本当の母親が見つかった。


 つまり彼女たちは、これまで“素性の曖昧な子”として扱っていた相手が、実は事情ある血筋だった、と後から知らされたのだ。

 化野は、その空気を一目で察したらしかった。


「ふうん」


 廊下を歩きながら、小さく笑う。


「こりゃまた、ずいぶんなもんだねえ」


 その視線は穏やかだったが、妙に鋭かった。

 軽薄そうに笑うくせに、人間の空気を読むときだけ、この人は刃物みたいな目をする。


 広間へ入ると、すでに密記と偵記が座っていた。

 料理はまだ運び込まれている最中らしく、焼き魚の匂いと出汁の香りが部屋へ満ちている。


「おお、来た来た!」


 密記が嬉しそうに立ち上がる。


「居間じゃ狭いと思ってな。今日は広間で食えるようにしてもらったんだ」


 卓には、すでにかなりの料理が並んでいた。

 刺身。焼き魚。煮物。吸い物。季節野菜。

 そして、そのうち何品かは、密記の手作りらしい。


「今日は俺も台所に立ったんだ」


 密記が少し得意げに笑う。

 化野が目を丸くした。


「え、武家の当主が?」

「趣味みたいなもんですよ」


 丁寧な火加減。柔らかな出汁。酒を飲む人間を理解している肴たち。

 日ごろ台所に立っている使用人たちの料理の中に、武家の当主が作った料理が並んでいるとは……

 この見た目から、そうは思えなかった。

 それほど、密記の料理は、どれをだれが作ったかわからない出来、ということだ。


「へえ。面白い家だねえ」


 そのときだった。

 記子が、ぱっと顔を上げる。


「お兄様とお姉様は、隣合ってくださいっ」


 一瞬。

 広間が静かになった。

 化野が、ぽかんとする。

 偵記は露骨に目を逸らした。


「……記子」

「だ、だって!」


 記子は慌てて続ける。


「久しぶりなんですから、その、たくさんお話したいでしょうし……!」


 偵記は耳まで赤くなっている。

 記乃は少しだけ首を傾げた。


「兄さん?」

「……なんでもない」


 低い声だった。

 その様子を見ていた化野が、耐えきれないように吹き出す。


「あっはは! いやあ、初々しいなあ!」


 密記が笑う。

 すると今度は、記子が化野へ向き直った。


「化野さん」

「うん?」

「初対面でこんなお願いをするのは不躾なのですが……わたしが隣でも、よろしいですか?」


 化野は、一瞬だけ目を瞬かせた。

 そして、柔らかく笑う。


「もちろん。喜んで」


 記子の顔が、嬉しそうにほころんだ。


 夕餉の時間が始まる。

 冷やされた酒が運ばれ、ぬか漬けが小皿へ並べられる。

 サトが「こちらは記乃お嬢様が漬けたと伺いましたよ」と言うと、密記が驚いた顔をする。


 化野は一口食べた瞬間、「美味しい〜」と素直に声を漏らした。


「これ、かなりいい具合に漬かってるね」

「まだ浅漬け寄りですが」

「いやいや、充分。酒に合う」


 密記も頷く。


「うまいな。ぬか床を、ちゃあんと育ててる味だ」

「父上のものを参考にしました」

「俺の?」

「はい。近い味にできたかと」


 密記は、少しだけ照れくさそうに笑った。


「……そうか」


 その横では、偵記が焼き魚を取り分けていた。


「記乃、骨」

「あ、ありがとうございます」

「おまえ、魚食うの下手なんだから。小骨が喉に刺さるだろ。おれがやる」

「そこまで下手ではありません」

「いや、下手だ」

「兄さんは過保護です」

「お前が危なっかしいんだ」


 以前と変わらない会話。

 それが妙に心地よかった。

 化野は、その様子を酒を飲みながら眺めている。


「いやあ、本当に仲いいねえ」

「化野さんは、ご兄弟はいらっしゃらないんですか?」


 記子が訊ねる。


「いるにはいるけど、いまじゃ、だいぶ疎遠かなあ」

「そうなのですか……」

「まあ、家って色々あるからねえ」


 化野は軽く笑った。

 だが、その笑い方は少しだけ薄かった。

 密記が酒を注ぎながら口を開く。


「でも、仲良く過ごしているようで安心したよ」


 その視線は、化野と記乃を交互に見ていた。


「正直、最初はどうなるかと思ってたからなあ」

「ええ? 密記殿、そりゃあひどいなあ」


 化野が抗議する。


「私、かなり善良な部類だよ?」

「善良な人間は、自分でそう言わん」


 偵記が即答した。

 広間に笑いが広がる。

 記子は、いつの間にか完全に化野へ懐いていた。


「化野さん、今度お庭見てもいいですか?」

「いいよお。最近、記乃ちゃんが整備してくれてねえ」

「お姉様、庭まで……」

「雑草が多かったので」

「それを普通は、ひと月で整えないんだよなあ」


 化野が笑いながら酒を飲む。

 密記は、その光景を静かに見つめていた。

 やがて、小さく息を吐く。


「……これからも、時々顔を出してくれ」


 その声音は穏やかだった。

 けれど、どこか寂しさも滲んでいる。

 記乃は、静かに頷いた。


「はい」


 帰る場所。

 その言葉を、いまなら少し理解できる気がした。


 その日は泊まることになっていた。

 酒を飲んだ化野が運転をしては、法律違反になるためだ。


 夜。

 風呂上がりの廊下は秋口の風が入っており、少し涼しく感じられる。

 庭からは虫の声が聞こえている。


 記乃は、自分へ用意された布団へ座りながら、静かに周囲を見渡した。

 見慣れた部屋に、嗅ぎ慣れた匂い。

 けれど、自分はもう、この家の戸籍にはいない。

 それでも、不思議だった。


 ──失われた感じがしない。

 むしろ以前より、ここへ帰ってきた実感の方が強い。


 人の居場所というものは、紙に書かれた姓だけでは決まらないのかもしれない。


 そんなことを思いながら、記乃は静かに灯りを落とした。

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