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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第四章 新生篇
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第九話 余白

 戸籍の手続きを終えた翌朝。

 記乃は、まだ少し薄暗さの残る部屋で目を覚ました。


 障子越しの光は柔らかく、朝の空気には、夜の涼しさがわずかに残っている。遠くでは、もう蝉が鳴き始めていた。


 布団の上でしばらく目を開けたまま、記乃は静かに天井を見つめる。


(……ここは、化野さんの家だ)


 いや、もう〝化野さんの家〟と称するのは、不適切な表現だ。

 訪れているのではない。

 はたまた、泊まりに来ているわけでもない。

 昨日から、ここが自分の家になったのだから。


 そう考え直した瞬間、記乃は少しだけ妙な感覚を覚えた。

 それは緊張とも、不安とも違う。

 長いあいだ、借り物の靴で歩いていた人間が、急に「もう脱いでいい」と言われたような感覚だった。


 記乃は起き上がる。

 居間は静かだった。どうやら、化野はまだ眠っているらしい。

 壁にかけられた、洒落た時計を見る。朝としては、まだ少し早い時間だ。


 記乃は台所へ向かった。

 昨日、「好きに使っていいよ」と言われていたことを思い出す。それなら、軽く朝食でも作ろうかと思った。

 しかし──


「……」


 ガスコンロの前で、止まる。

 肝心の使い方がわからない。

 記乃は、しばらく無言でそれを見つめていた。  金属のつまみ。配管。点火部分。

 構造自体は理解できる。だが、実際にどの順序で扱うべきかが不明だ。


(確認不足で壊すのは、非合理的すぎる)


 記乃は紙片(メモ)と万年筆を取り出した。


 ──ガスコンロの使用方法。


 書き留める。


 それでは洗濯を済ませてしまおうかと思い、洗面所へ向かう。

 だが、そこでも止まった。


「……二槽式」


 見たことはある。構造も理解できる。

 しかし、使用したことがないため、実際の運用順序が曖昧だった。

 生家である結城家も、後宮も、手洗いだった。


 洗う。脱水。排水。移動。

 どの段階で、どの程度、水を使うのか。

 記乃は再び紙片へ書き込む。


 ──洗濯機の使用方法。


 そのときだった。


「おはよう」


 背後から、眠たげな声がした。

 振り返ると、化野が寝癖のついた髪のまま、廊下へ立っている。

 片手で欠伸を押さえながら、記乃の持っている紙片を見て、けらけら笑った。


「仕事じゃないってのに、まったく、さっそくメモを取ってるのかい、君は」

「ちょうどよかったです」


 記乃は紙片へ視線を落とす。


「ガスコンロの使い方を教えてください」

「うん。了解」


 化野は気軽に頷いた。


「なんか作ってくれるの?」

「あまり複雑なものは作れませんが」

「期待しとこうかなあ」


 化野は笑いながら、記乃と共に台所へ向かう。


 使い方の説明は簡潔だった。

 つまみの調整。火力。点火確認。注意点。


 記乃は一度見ただけで理解した。


「把握しました」

「早いねえ」

「構造自体は単純ですから」

「効率人間だなあ、本当に」


 記乃を見て、化野は面白そうに笑った。


 化野が朝風呂を浴びて身支度を整えているあいだに、記乃は朝食を作り終えていた。

 昨日、帰り道で買った鮭。それを丁寧に焼き、味噌汁を作り、漬物を小皿へ並べる。

 炊いた麦飯の湯気が、静かに食卓へ立ち上っていた。


「わ」


 居間へ来た化野が、目を丸くする。


「もうできてる」

「簡単なものですが」

「いやいや、充分だよ」


 席へ座り、焼きたての鮭を口へ運ぶ。

 途端に、化野の表情がぱっと明るくなった。


「美味しい!」


 素直な声だった。


「身がふっくらしてるし、塩加減がちょうどいい。うん、塩梅がいい。料理苦手みたいな口ぶりだったのに」


 記乃は少し考える。


「……養父(ちち)の基準で考えていましたので」

「ん?」

「父上は、料理が好きでしたから」


 密記の姿が浮かぶ。

 刺身を捌き、火加減を見て、楽しそうに台所へ立っていた男。料理を〝作業〟ではなく、趣味として扱う人間だった。


「あれと比べれば、自分は普通です」

「それは、ううん、比較対象が悪いんじゃない?」


 化野は笑う。


「いやあ、いいなあ。なにかしている間に、ご飯ができてる生活」


 その声音は冗談めいていたが、どこか本当に嬉しそうだった。


 そのあと、記乃は洗濯機の使い方を教わった。

 水量。脱水時間。洗剤の量。

 理解すると、今度は庭が気になった。


「それと、庭へ手を入れてもよろしいでしょうか」

「ん? 好きにしていいよ」


 雑草の生えた庭を見ながら、化野は肩を竦める。


「私、植物育てるの向いてなくてさあ。かといって、庭師には金を使いたくないし」


 けらけらと笑う化野。


 さらに、仕事部屋の書棚を整理してほしいと頼まれる。

 化野の仕事部屋は以前見たときと変わらず、混沌としていた。

 本。新聞。資料。海外文献。民俗記録。

 分類が曖昧なまま積み重なり、机の上には紙束が地層のように形成されている。


(……崩落寸前)


 記乃は内心で判断した。

 化野は昼前には記者の仕事で外へと出ていった。


「十七時には帰るよー」


 軽い声だけを残して。

 そのあと、家の中は静かになった。


 記乃は、一日を使って家を整えた。

 洗濯。掃除。書棚整理。買い出し。

 ついでに、ぬか床も用意した。


(長期的に見れば、漬物を自作した方が節約効率は高い)


 野菜を漬け込みながら、そう考える。

 気づけば、庭の雑草もある程度整えられていた。書棚は分類ごとに整理され、洗濯物は庭先で揺れている。


 生活の音が、少しずつ家へ馴染み始めていた。


 十七時前。

 記乃は台所へ立ち、夕食を作っていた。

 鍋の湯気。味噌の香り。包丁の音。

 夕陽が、台所の床を橙色へ染めている。


 そのとき、玄関の戸が開く音がした。


「ただいまー」


 化野の声。

 記乃は、一瞬だけ手を止める。

 その音が、不思議と心地よかった。

 誰かが帰ってくる音。

 それを、自分のいる家で聞くという感覚。

 化野は居間へ入った瞬間、足を止めた。


「えっ」


 綺麗になった部屋。整理された書棚。洗濯物。夕食の匂い。


「……いや、ちょっと待って」


 化野は笑い始める。


「ここまでやる? 普通」

「必要なことかと」

「必要以上だよ!」


 笑いながら、化野は履き物を脱ぐ。


「ははは! いやあ、娘にしてよかった!」


 そのあと、少しだけ真面目な顔になった。


「ただし」


 記乃を見る。


「働きすぎは毒だからね」


 夕陽の色が、化野の横顔を柔らかく染めていた。


「ゆっくりすることも、覚えてもらうよ」


 記乃は、その言葉へすぐには返事をしなかった。

 ゆっくりする。

 それが、いまひとつ理解できなかったからだ。



──────────



 そんな生活が、ひと月ほど続いた。


 朝食の湯気。

 庭へ干した洗濯物。

 夕暮れの光。

 帰宅する化野の足音。

 最初のころ、記乃は、それらを見るたびに思っていた。


 これらに、意味はあるのだろうか、と。


 役に立つのか。成果があるのか。必要性はあるのか。

 記乃は、生まれたときから、役割によって生きてきた。

 役に立たなければならない。必要とされなければならない。意味がなければならない。

 そうやって、自分の存在理由を確認し続けてきた。


 だから、平穏というものがわからなかった。

 なにも起きない日。

 成果を求められない時間。

 理由なく湯気を眺める瞬間。

 それらを、どう扱えばいいのかわからなかった。


 しかし、ある日の夕方。

 洗濯物を取り込みながら、記乃はふと気づく。

 風が吹いていた。

 庭の草花が揺れている。遠くで蝉が鳴いている。台所からは、煮物の匂いがする。

 化野はまだ帰っていない。


 それなのに、不思議と、胸の内側は静かだった。


(……ああ)


 そのとき、記乃は少しだけ理解できた気がした。


 意味がないからこそ、安心するものがあるのだ、と。


 なにかを証明しなくていい時間。

 役割を果たさなくていい空間。

 理由を求めなくていい沈黙。


 余白とは、怠慢ではなく、呼吸なのだ。


 紙いっぱいへ文字を書き続ければ、やがて読めなくなる。

 人間も、きっと同じなのだろう。


 余白があるからこそ、次の言葉を書ける。


 夕暮れの光は、静かに庭へ落ちていた。

 記乃は洗濯物を抱えたまま、その橙色をしばらく見つめている。


 玄関先から、化野が帰宅する音が聞こえる。


 なにか特別なことを成し遂げているわけではない。


 それでもいま、心は確かに、穏やかだった。

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