第九話 余白
戸籍の手続きを終えた翌朝。
記乃は、まだ少し薄暗さの残る部屋で目を覚ました。
障子越しの光は柔らかく、朝の空気には、夜の涼しさがわずかに残っている。遠くでは、もう蝉が鳴き始めていた。
布団の上でしばらく目を開けたまま、記乃は静かに天井を見つめる。
(……ここは、化野さんの家だ)
いや、もう〝化野さんの家〟と称するのは、不適切な表現だ。
訪れているのではない。
はたまた、泊まりに来ているわけでもない。
昨日から、ここが自分の家になったのだから。
そう考え直した瞬間、記乃は少しだけ妙な感覚を覚えた。
それは緊張とも、不安とも違う。
長いあいだ、借り物の靴で歩いていた人間が、急に「もう脱いでいい」と言われたような感覚だった。
記乃は起き上がる。
居間は静かだった。どうやら、化野はまだ眠っているらしい。
壁にかけられた、洒落た時計を見る。朝としては、まだ少し早い時間だ。
記乃は台所へ向かった。
昨日、「好きに使っていいよ」と言われていたことを思い出す。それなら、軽く朝食でも作ろうかと思った。
しかし──
「……」
ガスコンロの前で、止まる。
肝心の使い方がわからない。
記乃は、しばらく無言でそれを見つめていた。 金属のつまみ。配管。点火部分。
構造自体は理解できる。だが、実際にどの順序で扱うべきかが不明だ。
(確認不足で壊すのは、非合理的すぎる)
記乃は紙片と万年筆を取り出した。
──ガスコンロの使用方法。
書き留める。
それでは洗濯を済ませてしまおうかと思い、洗面所へ向かう。
だが、そこでも止まった。
「……二槽式」
見たことはある。構造も理解できる。
しかし、使用したことがないため、実際の運用順序が曖昧だった。
生家である結城家も、後宮も、手洗いだった。
洗う。脱水。排水。移動。
どの段階で、どの程度、水を使うのか。
記乃は再び紙片へ書き込む。
──洗濯機の使用方法。
そのときだった。
「おはよう」
背後から、眠たげな声がした。
振り返ると、化野が寝癖のついた髪のまま、廊下へ立っている。
片手で欠伸を押さえながら、記乃の持っている紙片を見て、けらけら笑った。
「仕事じゃないってのに、まったく、さっそくメモを取ってるのかい、君は」
「ちょうどよかったです」
記乃は紙片へ視線を落とす。
「ガスコンロの使い方を教えてください」
「うん。了解」
化野は気軽に頷いた。
「なんか作ってくれるの?」
「あまり複雑なものは作れませんが」
「期待しとこうかなあ」
化野は笑いながら、記乃と共に台所へ向かう。
使い方の説明は簡潔だった。
つまみの調整。火力。点火確認。注意点。
記乃は一度見ただけで理解した。
「把握しました」
「早いねえ」
「構造自体は単純ですから」
「効率人間だなあ、本当に」
記乃を見て、化野は面白そうに笑った。
化野が朝風呂を浴びて身支度を整えているあいだに、記乃は朝食を作り終えていた。
昨日、帰り道で買った鮭。それを丁寧に焼き、味噌汁を作り、漬物を小皿へ並べる。
炊いた麦飯の湯気が、静かに食卓へ立ち上っていた。
「わ」
居間へ来た化野が、目を丸くする。
「もうできてる」
「簡単なものですが」
「いやいや、充分だよ」
席へ座り、焼きたての鮭を口へ運ぶ。
途端に、化野の表情がぱっと明るくなった。
「美味しい!」
素直な声だった。
「身がふっくらしてるし、塩加減がちょうどいい。うん、塩梅がいい。料理苦手みたいな口ぶりだったのに」
記乃は少し考える。
「……養父の基準で考えていましたので」
「ん?」
「父上は、料理が好きでしたから」
密記の姿が浮かぶ。
刺身を捌き、火加減を見て、楽しそうに台所へ立っていた男。料理を〝作業〟ではなく、趣味として扱う人間だった。
「あれと比べれば、自分は普通です」
「それは、ううん、比較対象が悪いんじゃない?」
化野は笑う。
「いやあ、いいなあ。なにかしている間に、ご飯ができてる生活」
その声音は冗談めいていたが、どこか本当に嬉しそうだった。
そのあと、記乃は洗濯機の使い方を教わった。
水量。脱水時間。洗剤の量。
理解すると、今度は庭が気になった。
「それと、庭へ手を入れてもよろしいでしょうか」
「ん? 好きにしていいよ」
雑草の生えた庭を見ながら、化野は肩を竦める。
「私、植物育てるの向いてなくてさあ。かといって、庭師には金を使いたくないし」
けらけらと笑う化野。
さらに、仕事部屋の書棚を整理してほしいと頼まれる。
化野の仕事部屋は以前見たときと変わらず、混沌としていた。
本。新聞。資料。海外文献。民俗記録。
分類が曖昧なまま積み重なり、机の上には紙束が地層のように形成されている。
(……崩落寸前)
記乃は内心で判断した。
化野は昼前には記者の仕事で外へと出ていった。
「十七時には帰るよー」
軽い声だけを残して。
そのあと、家の中は静かになった。
記乃は、一日を使って家を整えた。
洗濯。掃除。書棚整理。買い出し。
ついでに、ぬか床も用意した。
(長期的に見れば、漬物を自作した方が節約効率は高い)
野菜を漬け込みながら、そう考える。
気づけば、庭の雑草もある程度整えられていた。書棚は分類ごとに整理され、洗濯物は庭先で揺れている。
生活の音が、少しずつ家へ馴染み始めていた。
十七時前。
記乃は台所へ立ち、夕食を作っていた。
鍋の湯気。味噌の香り。包丁の音。
夕陽が、台所の床を橙色へ染めている。
そのとき、玄関の戸が開く音がした。
「ただいまー」
化野の声。
記乃は、一瞬だけ手を止める。
その音が、不思議と心地よかった。
誰かが帰ってくる音。
それを、自分のいる家で聞くという感覚。
化野は居間へ入った瞬間、足を止めた。
「えっ」
綺麗になった部屋。整理された書棚。洗濯物。夕食の匂い。
「……いや、ちょっと待って」
化野は笑い始める。
「ここまでやる? 普通」
「必要なことかと」
「必要以上だよ!」
笑いながら、化野は履き物を脱ぐ。
「ははは! いやあ、娘にしてよかった!」
そのあと、少しだけ真面目な顔になった。
「ただし」
記乃を見る。
「働きすぎは毒だからね」
夕陽の色が、化野の横顔を柔らかく染めていた。
「ゆっくりすることも、覚えてもらうよ」
記乃は、その言葉へすぐには返事をしなかった。
ゆっくりする。
それが、いまひとつ理解できなかったからだ。
──────────
そんな生活が、ひと月ほど続いた。
朝食の湯気。
庭へ干した洗濯物。
夕暮れの光。
帰宅する化野の足音。
最初のころ、記乃は、それらを見るたびに思っていた。
これらに、意味はあるのだろうか、と。
役に立つのか。成果があるのか。必要性はあるのか。
記乃は、生まれたときから、役割によって生きてきた。
役に立たなければならない。必要とされなければならない。意味がなければならない。
そうやって、自分の存在理由を確認し続けてきた。
だから、平穏というものがわからなかった。
なにも起きない日。
成果を求められない時間。
理由なく湯気を眺める瞬間。
それらを、どう扱えばいいのかわからなかった。
しかし、ある日の夕方。
洗濯物を取り込みながら、記乃はふと気づく。
風が吹いていた。
庭の草花が揺れている。遠くで蝉が鳴いている。台所からは、煮物の匂いがする。
化野はまだ帰っていない。
それなのに、不思議と、胸の内側は静かだった。
(……ああ)
そのとき、記乃は少しだけ理解できた気がした。
意味がないからこそ、安心するものがあるのだ、と。
なにかを証明しなくていい時間。
役割を果たさなくていい空間。
理由を求めなくていい沈黙。
余白とは、怠慢ではなく、呼吸なのだ。
紙いっぱいへ文字を書き続ければ、やがて読めなくなる。
人間も、きっと同じなのだろう。
余白があるからこそ、次の言葉を書ける。
夕暮れの光は、静かに庭へ落ちていた。
記乃は洗濯物を抱えたまま、その橙色をしばらく見つめている。
玄関先から、化野が帰宅する音が聞こえる。
なにか特別なことを成し遂げているわけではない。
それでもいま、心は確かに、穏やかだった。




