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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第四章 新生篇
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第八話 辞去

 人はその場所を去るときになって初めて、自分がそこへどれほど馴染んでいたのかを知る。


 毎日歩いた廊下。

 聞き慣れた足音。

 癖のある声。

 書類の紙質。

 窓から入る光の角度。

 そういう些細なものは、そこにいる間は、ただの背景でしかない。


 だが、失うことが決まった瞬間、それらは急に輪郭を持ち始める。

 まるで、沈みゆく夕陽が、昼間には気づかなかった建物の影を長く濃く引き伸ばすように。


 久世と話をした三日後。

 記乃は、官付をも去ることになった。

 もっとも、それは永久の別れではない。

 久世の言葉を信じた結果の〝一時的な辞職〟であり、それは事実上〝休職〟である。

 それでも、所属を外れるという行為は、思っていた以上に重かった。


 朝の官付は、相変わらず忙しない。

 廊下では職員たちが書類を抱えて行き交い、遠くでは誰かが報告を読み上げている。

 その音の流れを聞きながら、記乃は静かに歩いていた。


 今日で、自分はこの場所の人間ではなくなる。

 そう考えると、不思議な感覚だった。


 寂しさとも違う。

 喪失感とも、まだ少し違う。

 ただ、長く身体の一部として扱っていたものを、静かに切り離していくような感覚だけがあった。



──────────



 最初に向かったのは、久世の執務室だった。

 襖を開けると、久世は机へ向かっており、その後ろには三浦が立っている。


 以前と変わらない光景。

 けれど、自分は今日、その光景の外側へ出る。


「失礼いたします」


 記乃が頭を下げると、久世は顔を上げた。


「ああ」


 短い返事。

 その声音は、妙に穏やかだった。

 三浦が一歩前へ出る。


「本日付での手続き、確認いたしました」


 相変わらず、過不足のない声だった。


「正式な処理については、こちらで進めております」

「ありがとうございます」


 記乃が礼を言うと、三浦は静かに頭を下げた。


「主が、全力であなたを戻してくださいます。あなたは、必ずここに戻ってこられます」


 その言葉は、まるで誓約のようだった。


「信じてくださって、ありがとうございます」


 記乃は、一瞬だけ返答に迷った。


 本来なら、礼を言われる側ではない気がしたからだ。

 むしろ、自分のためにここまで動かせてしまっていることへ、少し気が引けている。

 それでも、三浦の眼差しは真剣だった。


 だからこそ記乃も、きちんと、丁寧に頭を下げる。


「……こちらこそ、何卒よろしくお願いいたします」


 久世は、そのやり取りを静かに見ていた。


 なにも言わない。

 だが、その沈黙には、以前のような揺らぎがなかった。


 これは、覚悟を決めた人間の静けさだった。



──────────



 執務室を出たあと、記乃は後宮側へ続く廊下を歩いていた。

 すると、向こう側から足早にやってくる人影がある。

 白衣を纏った、癖のある短髪の、痩せた体躯をした男。


「記乃!」


 相良だった。

 どうやら、わざわざ医局から出てきたらしい。

 息を切らしているほどではないが、歩幅は明らかに急いでいた。

 記乃は立ち止まる。


「相良さん」

「聞いた。今日で官付を離れるって」

「はい」


 記乃は頷く。


「相良さんにもご挨拶したかったので、出てきてくださって助かりました」


 そして、少しだけ困ったように続けた。


「もう、本日付で後宮へ出入りができないとのことだったので」


 相良は、しばらく黙って記乃を見ていた。


 それは非常に、医官らしい目であった。

 怪我や病だけではなく、人間の無理や限界まで観察する目。

 やがて、静かに口を開く。


「記乃」


 声は穏やかだった。


「君は優秀な人材だ」


 記乃は、少しだけ目を瞬かせる。

 相良は続ける。


「認めている者は、もう認めている」


 廊下の窓から、夏の光が差し込む。

 白い光が、相良の横顔を薄く照らしていた。


「あとは制度だけだ」


 その声音には、医官としてではない、人間としての実感が滲んでいた。


「だから──」


 相良は一瞬言葉を選び、一拍だけ間を開けて、言った。


「待っている」


 記乃は、静かに頭を下げる。


「……はい。ありがとうございます」


 相良は、少しだけ笑った。


「あと」

「?」

「倒れるなよ」


 記乃は少し考える。


「努力します」

「努力がどうとかじゃなくて、ちゃんと休めと言っているんだ」


 即座に返ってきた。

 その言葉に、記乃はほんの少しだけ口元を緩めた。



──────────



 記乃が最後に向かったのは、真壁の執務室だった。


 襖の前へ立ち、軽く叩く。

 当然のように、返事はない。

 だが、それでいいのだ。

 記乃は知っている。

 この人は、返事をしないことで「入れ」と言っている。


 二年弱、毎日のように出入りしていた部屋だ。

 真壁という人間のことは、知り尽くしている。


 襖を開ける。

 真壁は、いつも通り机へ向かっていた。

 書類を読んでいる。

 顔も上げない。


「要件は」


 それも、いつも通りだった。

 記乃は、その光景を見て、少しだけ安心した。

 変わらないものが、ここにはまだある。


「真壁さん」

「ああ」

「私は、いずれまたここに戻ってきます」


 真壁は、そこでようやく手を止めた。


「ああ」

「久世さんがおっしゃっていましたから」

「そうか」


 短い返事ばかり。

 けれど、記乃には分かる。

 この人は、必要なことしか言わないだけだ。


「機密や情報を漏洩することはしませんので、ご安心ください」

「それは当たり前だ」


 即答だった。

 記乃は、少しだけ目を伏せる。


「この二年弱、本当に、ありがとうございました」


 真壁は、しばらく黙っていた。

 そして、小さく答える。


「……ああ」


 静かな声だった。

 それだけだった。

 だが、記乃には充分だった。


 真壁は、元々、長々と感情を語る人間ではない。

 必要な言葉だけを述べる。

 それが、この人の誠実さだ。


 やがて真壁は、書類を机に置いた。


「戻らなければ、業務が回らん」


 記乃は、少しだけ目を瞬かせた。


「早く戻ってこい」


 その言葉は、あまりにも真壁らしかった。

 記乃は、静かに返す。


「それは、久世さん次第です」


 真壁は、そこで初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 笑ったというほどではない。

 だが、確かに、柔らかかった。


「行け」

「はい。失礼します」


 記乃は、深く頭を下げる。

 そして、静かに襖を閉めた。



──────────



 官付を出るころには、陽が少し傾き始めていた。


 職務で使用していた筆記具や資料類は、すべて返却済みである。

 だから、帰り道の荷物はほとんどない。

 こんなにも長くいた場所なのに、持ち出すものは驚くほど少なかった。


 歩いて門扉へと向かう。

 すると、そこには黒塗りの自動車が停まっていた。

 窓が開く。


「挨拶は済んだ?」


 化野だった。


「はい」


 記乃が頷くと、化野は軽く目を細める。


「そっか」


 記乃は助手席へ乗り込んだ。

 扉が閉まる。

 車内には、革と機械油の匂いが満ちていた。

 発進する。

 官付の門が、ゆっくり後ろへ遠ざかっていく。


「じゃあ、この足で手続きに行こうか」


 化野が、ハンドルを握ったまま言う。


「戸籍の調整。今日のうちに済ませちゃおう」

「そうですね」


 記乃は、窓の外を見ながら答えた。


 夏の帝都が流れていく。

 石畳。電柱。行き交う人力車。

 遠くで鳴く蝉の声。

 その風景を見ながら、記乃は静かに理解していた。


 今日、自分は官付からも、結城家からも抜けることになる。

 今日から、自分はもう〝結城(ゆうき)記乃(きの)〟ではなくなる。


 ──化野(あだしの)記乃(きの)

 その名前を、これから名乗ることになる。


 車窓へ映った自分の顔は、まだ少し現実感が薄かった。


 けれど、不思議と恐怖はない。


 ただ、長い廊下を渡り終え、別の場所へ足を踏み出した人間だけが持つ、静かな余韻が胸の内側へ残っていた。

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