第八話 辞去
人はその場所を去るときになって初めて、自分がそこへどれほど馴染んでいたのかを知る。
毎日歩いた廊下。
聞き慣れた足音。
癖のある声。
書類の紙質。
窓から入る光の角度。
そういう些細なものは、そこにいる間は、ただの背景でしかない。
だが、失うことが決まった瞬間、それらは急に輪郭を持ち始める。
まるで、沈みゆく夕陽が、昼間には気づかなかった建物の影を長く濃く引き伸ばすように。
久世と話をした三日後。
記乃は、官付をも去ることになった。
もっとも、それは永久の別れではない。
久世の言葉を信じた結果の〝一時的な辞職〟であり、それは事実上〝休職〟である。
それでも、所属を外れるという行為は、思っていた以上に重かった。
朝の官付は、相変わらず忙しない。
廊下では職員たちが書類を抱えて行き交い、遠くでは誰かが報告を読み上げている。
その音の流れを聞きながら、記乃は静かに歩いていた。
今日で、自分はこの場所の人間ではなくなる。
そう考えると、不思議な感覚だった。
寂しさとも違う。
喪失感とも、まだ少し違う。
ただ、長く身体の一部として扱っていたものを、静かに切り離していくような感覚だけがあった。
──────────
最初に向かったのは、久世の執務室だった。
襖を開けると、久世は机へ向かっており、その後ろには三浦が立っている。
以前と変わらない光景。
けれど、自分は今日、その光景の外側へ出る。
「失礼いたします」
記乃が頭を下げると、久世は顔を上げた。
「ああ」
短い返事。
その声音は、妙に穏やかだった。
三浦が一歩前へ出る。
「本日付での手続き、確認いたしました」
相変わらず、過不足のない声だった。
「正式な処理については、こちらで進めております」
「ありがとうございます」
記乃が礼を言うと、三浦は静かに頭を下げた。
「主が、全力であなたを戻してくださいます。あなたは、必ずここに戻ってこられます」
その言葉は、まるで誓約のようだった。
「信じてくださって、ありがとうございます」
記乃は、一瞬だけ返答に迷った。
本来なら、礼を言われる側ではない気がしたからだ。
むしろ、自分のためにここまで動かせてしまっていることへ、少し気が引けている。
それでも、三浦の眼差しは真剣だった。
だからこそ記乃も、きちんと、丁寧に頭を下げる。
「……こちらこそ、何卒よろしくお願いいたします」
久世は、そのやり取りを静かに見ていた。
なにも言わない。
だが、その沈黙には、以前のような揺らぎがなかった。
これは、覚悟を決めた人間の静けさだった。
──────────
執務室を出たあと、記乃は後宮側へ続く廊下を歩いていた。
すると、向こう側から足早にやってくる人影がある。
白衣を纏った、癖のある短髪の、痩せた体躯をした男。
「記乃!」
相良だった。
どうやら、わざわざ医局から出てきたらしい。
息を切らしているほどではないが、歩幅は明らかに急いでいた。
記乃は立ち止まる。
「相良さん」
「聞いた。今日で官付を離れるって」
「はい」
記乃は頷く。
「相良さんにもご挨拶したかったので、出てきてくださって助かりました」
そして、少しだけ困ったように続けた。
「もう、本日付で後宮へ出入りができないとのことだったので」
相良は、しばらく黙って記乃を見ていた。
それは非常に、医官らしい目であった。
怪我や病だけではなく、人間の無理や限界まで観察する目。
やがて、静かに口を開く。
「記乃」
声は穏やかだった。
「君は優秀な人材だ」
記乃は、少しだけ目を瞬かせる。
相良は続ける。
「認めている者は、もう認めている」
廊下の窓から、夏の光が差し込む。
白い光が、相良の横顔を薄く照らしていた。
「あとは制度だけだ」
その声音には、医官としてではない、人間としての実感が滲んでいた。
「だから──」
相良は一瞬言葉を選び、一拍だけ間を開けて、言った。
「待っている」
記乃は、静かに頭を下げる。
「……はい。ありがとうございます」
相良は、少しだけ笑った。
「あと」
「?」
「倒れるなよ」
記乃は少し考える。
「努力します」
「努力がどうとかじゃなくて、ちゃんと休めと言っているんだ」
即座に返ってきた。
その言葉に、記乃はほんの少しだけ口元を緩めた。
──────────
記乃が最後に向かったのは、真壁の執務室だった。
襖の前へ立ち、軽く叩く。
当然のように、返事はない。
だが、それでいいのだ。
記乃は知っている。
この人は、返事をしないことで「入れ」と言っている。
二年弱、毎日のように出入りしていた部屋だ。
真壁という人間のことは、知り尽くしている。
襖を開ける。
真壁は、いつも通り机へ向かっていた。
書類を読んでいる。
顔も上げない。
「要件は」
それも、いつも通りだった。
記乃は、その光景を見て、少しだけ安心した。
変わらないものが、ここにはまだある。
「真壁さん」
「ああ」
「私は、いずれまたここに戻ってきます」
真壁は、そこでようやく手を止めた。
「ああ」
「久世さんがおっしゃっていましたから」
「そうか」
短い返事ばかり。
けれど、記乃には分かる。
この人は、必要なことしか言わないだけだ。
「機密や情報を漏洩することはしませんので、ご安心ください」
「それは当たり前だ」
即答だった。
記乃は、少しだけ目を伏せる。
「この二年弱、本当に、ありがとうございました」
真壁は、しばらく黙っていた。
そして、小さく答える。
「……ああ」
静かな声だった。
それだけだった。
だが、記乃には充分だった。
真壁は、元々、長々と感情を語る人間ではない。
必要な言葉だけを述べる。
それが、この人の誠実さだ。
やがて真壁は、書類を机に置いた。
「戻らなければ、業務が回らん」
記乃は、少しだけ目を瞬かせた。
「早く戻ってこい」
その言葉は、あまりにも真壁らしかった。
記乃は、静かに返す。
「それは、久世さん次第です」
真壁は、そこで初めて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
笑ったというほどではない。
だが、確かに、柔らかかった。
「行け」
「はい。失礼します」
記乃は、深く頭を下げる。
そして、静かに襖を閉めた。
──────────
官付を出るころには、陽が少し傾き始めていた。
職務で使用していた筆記具や資料類は、すべて返却済みである。
だから、帰り道の荷物はほとんどない。
こんなにも長くいた場所なのに、持ち出すものは驚くほど少なかった。
歩いて門扉へと向かう。
すると、そこには黒塗りの自動車が停まっていた。
窓が開く。
「挨拶は済んだ?」
化野だった。
「はい」
記乃が頷くと、化野は軽く目を細める。
「そっか」
記乃は助手席へ乗り込んだ。
扉が閉まる。
車内には、革と機械油の匂いが満ちていた。
発進する。
官付の門が、ゆっくり後ろへ遠ざかっていく。
「じゃあ、この足で手続きに行こうか」
化野が、ハンドルを握ったまま言う。
「戸籍の調整。今日のうちに済ませちゃおう」
「そうですね」
記乃は、窓の外を見ながら答えた。
夏の帝都が流れていく。
石畳。電柱。行き交う人力車。
遠くで鳴く蝉の声。
その風景を見ながら、記乃は静かに理解していた。
今日、自分は官付からも、結城家からも抜けることになる。
今日から、自分はもう〝結城記乃〟ではなくなる。
──化野記乃。
その名前を、これから名乗ることになる。
車窓へ映った自分の顔は、まだ少し現実感が薄かった。
けれど、不思議と恐怖はない。
ただ、長い廊下を渡り終え、別の場所へ足を踏み出した人間だけが持つ、静かな余韻が胸の内側へ残っていた。




