第七話 覚悟
人間は、己の感情を知ったあとで、初めて問われる。
その感情を、どう扱うのか。
奪うために使うのか。
壊すために使うのか。
それとも、相手のために、自分の欲を削る方向へ変えるのか。
恋慕という感情は、決して美しいだけのものではない。
そこには執着も、未練も、醜さも、独占欲も混じる。
だからこそ、人間の品性は、恋を抱いた瞬間ではなく、その恋をどう処理するかによって露出する。
久世は前夜のうちに、自分の中に渦巻く感情たちに、名前を与えてしまっていた。
恋慕。喪失。後悔。未練。
それらはどれも、軽いものではなかった。
だが、名前をつけたことで、逃げることだけはできなくなった。
翌朝、官付長である久世の執務室は、いつも通り整えられていた。
机の上には書類が積まれ、窓から差し込む夏の光が白く床を照らしている。
外では蝉が鳴いており、その声は遠くからではなく、空気そのものの内側から響いているようだった。
久世は机の前へ座り、しばらく筆を持たずにいた。
昨夜の感情は、完全には消えていない。
むしろ、名付けてしまったことで、胸の内側へより深く沈んでいる。
だが、それでも今日は、動かなければならなかった。
「結城偵記を呼べ」
短く命じると、職員はすぐに頭を下げて出ていった。
そして、偵記がやってくるまで、そう時間はかからなかった。
十数分も待てば扉が叩かれ、偵記が入ってくる。
官服姿の偵記は、普段通りに見えた。
背筋は伸び、表情は硬く、目元には人を近づけない鋭さがある。
だが、久世には分かる。
この男は、気を張っている、と。
自分の前で崩れないように、感情をきっちり奥歯で噛み殺している。
「お呼びでしょうか」
偵記は、きちんと礼を取った。
声も態度も、官僚として整っている。
義妹の件で久世に対して複雑な感情があるはずなのに、それを仕事の場へ持ち込まない。
それだけで、久世は少しだけ、この男を認めざるを得なかった。
「結城記乃の件だ」
久世が言うと、偵記の眉が僅かに動いた。
だが、表情は崩さない。
「家族の問題です」
即答だった。
冷静で、短い。
それでいて、明確な線引きがある。
「承知しているさ。ただ、彼女が後宮を抜けることは、必ず官付にも影響を及ぼす」
「記乃は、後宮の人間である前に、ひとりの人間です」
「それはそうだ」
久世は認める。
偵記の目が、わずかに細められた。
「なら、なぜ呼ばれたのでしょうか」
問い方は丁寧だ。
だが、奥には警戒がある。
久世は少しだけ息を吐いた。
「見ただろう。今朝からの、官付の人間たちが振りまく、彼女への視線や、空気を。これが続けば、遅かれ早かれ、彼女はここを去ることになる」
「……そうかもしれません」
「彼女がここを去ることになってしまっては、国家の損失につながる」
その言葉に、偵記は一瞬だけ黙った。
そして、口元をわずかに歪めた。
笑ったのではない。
呆れと、少しの苛立ち。
「でしたら」
偵記は静かに言った。
「あなた様が制度を整えて、あいつを正式な官僚にでもしてくださいよ」
久世は、言葉を失った。
偵記は続ける。
「後宮の下働きだとか、記録官補佐だとか、そういう曖昧な立場に置いておくから、あいつは無駄に傷つくんです」
声は荒くない。
だが、一語ずつに力があった。
「才能があると思うなら、必要だと思うなら、正規の道を作ってください」
久世は、返せなかった。
あまりにも正論だった。
「あなたなら、それができるでしょう」
偵記の眼差しは、強かった。
──できるでしょう。
その言葉は、久世の肩に重くのしかかった。
「失礼いたします」
そう言って偵記は、深く頭を下げて執務室を出ていった。
扉が閉まり、室内には静けさが戻る。
久世は、しばらく動かなかった。
(……最もだ)
胸の内側で、そう認める。
記乃を失いたくない。
だが、それは、自分のそばに縛りつける理由にはならない。
あの女が必要なら、必要とされるに足る場所を作ればいい。
使いたいなら、使える制度を整えればいい。
認めているなら、認められる肩書きを与えればいい。
偵記の言った通り、自分はそれができる立場にいる。
否、そのようにすべき立場にいる。
久世は椅子から立ち上がった。
改めていま、記乃の気持ちを確かめなければならなかった。
──────────
記録蔵は、いつも通り静かだった。
紙の匂い。乾いた木の匂い。
書物が積まれた場所特有の、時間が沈殿したような空気。
夏の湿度があるにもかかわらず、蔵の中だけはどこか冷えているように感じられる。
記乃は、奥の机で書類の整理をしていた。
その横顔は普段と変わらない。
淡々としていて、必要なものだけを見ている。
だが、久世には、昨日とは違って見えた。
彼女は、もう自分の人生の次の位置へ視線を向けている。
そのことが、胸を刺した。
「結城記乃」
声をかけると、記乃は顔を上げた。
「久世様」
驚いた様子は少ない。
ただ、少しだけ不思議そうに目を瞬かせる。
「どうされましたか」
久世は、机の前で足を止めた。
言葉を選ぶ。
ここで余計な感情を混ぜるべきではない。
問うべきことは、ひとつだった。
「昨日お前が言っていたことに、嘘はないか」
記乃は、一瞬だけ黙った。
そして、まっすぐに久世を見た。
「私は、嘘をつくのが苦手です」
静かな声だった。
「心から叶えたいことしか、口にしていません」
久世は、その答えを聞いて、胸の奥が沈むのを感じた。
だが、不思議と、昨日のように崩れはしなかった。
むしろ、そこにようやく地面ができたような感覚があった。
そうだ。彼女は、本気なのだ。
ならば、自分がすべきことは、もう決まっている。
「わかった」
久世は静かに言った。
「後宮を去るのなら、記録官補佐の仕事を、一度辞めろ」
記乃の眉が、わずかに動いた。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「今日だけでも、周囲の目が変わっている」
久世は答える。
「後宮を抜ける、化野家へ籍を移す、結城家との関係が変わる。そうした話は、どれほど隠しても漏れる。お前が思っている以上に、人間は他人の変化に敏い」
記乃は黙って聞いている。
「今日のように通いで来れば、以前よりも風当たりは強くなる。お前はそれでも働くだろうが、働けることと、働かせていいことは別だ」
自分で言いながら、久世は少しだけ苦く思った。
昨日までなら、別の言い方をしていたかもしれない。
努力を止めるな、と。
上へ行くなら耐えろ、と。
だが、今は違う。
耐えさせるのではなく、耐えずに済む場所を作るべきなのだ。
「お前が戻ってこられる場所を、私が作ろう」
記乃の目が、静かに久世を見る。
感動しているわけではない。
疑っているわけでもない。
ただ、言葉の意味を正確に測っている目だった。
「戻ってこられる場所、ですか」
「ああ」
久世は頷く。
「補佐なんておかしな肩書きではなく、もっと正式な形で。お前の働きが、曖昧な好意や例外ではなく、制度上の正当な役割として扱われるようにする」
言葉にした瞬間、久世の中で何かが通った。
恋慕は消えない。
喪失感も、後悔も、未練も消えない。
だが、それらを理由に記乃を引き止めるのではなく、彼女が戻れる場所を作るために使うことはできる。
自分主体だった欲を、相手主体の行動へ変える。
それが、いま久世にできる唯一のことだった。
「私は」
久世は続けた。
「お前のような有能な者が戻れる場所を、作ると決めたんだ」
記乃は、しばらく黙っていた。
蔵の中に、紙の匂いと、遠い蝉の声だけが満ちる。
やがて、記乃は椅子から立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「では、お願いいたします」
久世は、その姿を見て、胸の奥がかすかに痛んだ。
彼女は、自分を信じて頭を下げている。
恋慕ではない。
信頼だ。
それでも、いまはそれで充分だった。
「任せろ」
久世は短く言った。
それ以上は、言わなかった。
言えば、余計な感情が混ざる。
記乃は顔を上げ、いつものように静かな表情で頷いた。
「その間、私はなにをすればよろしいでしょうか」
「休め」
「……休む、ですか」
「そうだ」
久世は、少しだけ口元を緩める。
「お前は放っておくと、休むことすら仕事にしそうだからな」
記乃は少し考えた。
「否定はできません」
「なら、まずは化野の家へ移る準備をしろ。結城家との整理もあるだろう。身辺を整えておけ」
「承知しました」
記乃は素直に頷いた。
以前なら、ここでさらに仕事の必要性を主張したかもしれない。
だが、今の記乃は、少しずつ変わっている。
仕事だけではなく、自分の生活も選ぼうとしている。
その変化を久世は認めなければならなかった。
たとえ、その先に自分がいなくても。
──────────
記録蔵を出たあと、久世は廊下で足を止めた。
夏の光が、障子越しに床へ白く落ちている。
昨日と同じ光。
同じ暑さ。
同じ官付。
だが、久世の中では、何かが確かに変わっていた。
記乃を失いたくない。
その感情は、正直に言えば、まだある。
だが、いまはそれだけではない。
記乃が、自分の能力を曲げずに済む場所を作りたい。
あの女が、誰かの好意や例外や物珍しさではなく、正当に評価される場所へ戻れるようにしたい。
そう思った。
これは、失恋の痛みを誤魔化すための仕事ではない。
まして、自分の未練を綺麗に見せるための理屈でもない。
彼女が必要だと、心から思ったからだ。
国にも。
官付にも。
そして、おそらく、自分自身にも。
久世は、ゆっくり息を吐いた。
(ならば、作るしかない)
制度は動かせる。
前例も作れる。
道がないなら、引けばいい。
それが自分の役割だ。
久世恒一は、官付の長であり、皇太弟であり、そして本来ならば皇太子である男だった。
その立場を、これまで都合よく隠し、使うべき場所だけで使ってきた。
ならば、今度も使えばいい。
ただし今度は自分のためではない。
ひとりの女が、自分の人生を選びながら、それでも能力を潰されずに済むように。
そのために、使えるものはすべて使う。
久世は、まっすぐ執務室へ戻っていく。
足取りは、昨日よりずっと静かだった。
だが、その静けさの奥には、一本の芯が通っていた。
恋は、遅すぎた。
しかしそれは、覚悟の時機まで遅らせる理由にはならない。




