第六話 呵責
人間は、自分の感情に名前を与えることで、ようやくそれを理解したつもりになる。
苛立ち。執着。興味。好意。喪失。後悔。
けれど、名前を与えたところで、その感情そのものが軽くなるわけではない。
むしろ、名付けてしまったがゆえに、逃げ場を失うことがある。
曖昧なままであれば見ないふりができたものも、輪郭を持った瞬間、胸の内側で確かな重さを持ち始める。
そして人は、その重さによって初めて知るのだ。
自分が、なにを失いかけていたのかを。
久世恒一は、官付の執務室へ戻っていた。
窓の外では夏の光が、白く、眩しく庭へ落ちている。
空気は重く、障子を開けていても、室内へ入り込む風は熱を含んでいて、机の上に積まれた書類の端を揺らすほどの力もない。
普段なら、そこに三浦伊織がいる。
書類の位置を整え、茶を出し、必要な報告だけを過不足なく伝え、久世が余計なことを言う前に静かに釘を刺す。
だが、いま三浦は席を外していた。
それが、幸運なのか不運なのか、久世にはわからなかった。
誰かがいれば、少なくとも、このぐちゃぐちゃに絡まった感情を、表へ出さずに済んだのかもしれない。
あるいは逆に、三浦であれば、何も言わずともすべてを読み取り、逃げ道のない言葉で突きつけてきたのかもしれない。
(……記乃が、後宮を出る)
机に手をつき、久世はゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
つい先ほど見送った背中が、まだ目の奥に残っている。
荷車を引いて歩く、細い背中。
いつも通り静かで、無駄がなく、けれどどこか穏やかで、まるで自分の進む先をすでに決めている人間の背中だった。
(違う)
久世は、胸の内側でその言葉を押し返す。
(後宮を出るだけだ。官付から消えるわけではない。記録官補佐を続ける可能性もある。化野の家に住むだけなら、会えなくなるわけでもない)
理屈を並べる。
けれど、その理屈は、驚くほど役に立たなかった。
胸の奥に落ちている重みは、そんなふうに整理できるものではない。
久世は、机の上へ視線を落とす。
そこには、記乃が以前まとめた報告書が残っていた。
癖のない字。
過不足のない項目。
事実、推測、未確認事項を混ぜずに並べる、あの女らしい記録。
それを見ただけで、喉の奥が苦くなる。
(喪失感)
久世はまず、自分の気持ちに、そう名づけた。
これは、喪失感だ。
面白い女だと思っていた。
気に入っていると、自分でも何度も思った。
観察していて飽きない。使える。賢い。
少し妙で、扱いづらく、それでいて、こちらの予想を外してくる。
そんな言葉で片づけていた。
だが、それは違ったのだ。
面白い、などという軽い言葉では足りない。
気に入っている、などという便利な表現では追いつかない。
もっと深い場所で、自分はあの女の存在を、当たり前のように手元へ置いていた。
官付や後宮を探せば、すぐに見つかる存在。
事件が起きれば動き、問えば答える。
贈り物をすれば、困った顔をする。
無茶をすれば、少し眉を寄せて、しかし必要ならば従う。
そういう日々を、久世はいつの間にか、当然のものとして扱っていた。
(あって当然だったものが、なくなる)
いや、なくなるとは限らない。
それでも、同じ場所にはいなくなる。
後宮という枠の内側で、官付の補佐として、手を伸ばせば届く場所にいた存在。
それが、別の家へ移り、別の戸籍を持ち、別の未来を選ぶ。
その事実が、胸の内側を締めつける。
久世は、指先でこめかみを押さえた。
喪失。
その名前を与えても、重みは減らなかった。
(後悔)
次に浮かんだのは、それだった。
なぜ、気づかなかったのか。
あれだけ近くにいた。
何度も会話をして、何度も興味を向けた。
危うい目に遭えば、腹が立った。
倒れたと聞けば、焦った。
無茶をすれば、苛立った。
贈り物を拒まれれば、落ち込んだ。
それらはすべて、ただの興味ではなかったのではないか。
なぜ、自分はそれを、もっと早く疑わなかったのか。
(俺は、なにを見ていた)
久世は、奥歯を噛みしめる。
自分は観察力がある方だと思っていた。
人間の配置を見て、制度の流れを見る。
誰がなにを望み、どこに歪みがあり、どの手を打てば場が動くのか、それを読むことは苦手ではなかった。
それなのに、自分の感情だけは、読めなかった。
否──
読まなかった。
その可能性を、久世は否定できなかった。
記乃へ向けていた感情に名前をつけることが面倒で、どこか都合が悪く、そしてなにより、失敗することを恐れていたのかもしれない。
相手は後宮の侍女であり、記録官補佐であり、出自の不安定な女である。
対してこちらは官付の長であり、皇族の出であり、存在そのものに歪みを抱えた人間だ。
近づけば、面倒が起こる。
そう思って、興味という言葉で覆った。
面白いものとして扱えば、手元に置いても不自然ではない。
役に立つ人材として評価すれば、近づく理由が作れる。
その程度の理屈で、自分を誤魔化していた。
(好いていたなら)
久世は、椅子の背へ体重を預ける。
(もっと早く気づいていれば)
もっと早く、行動に移せた。
記乃が自分の感情を整理する前に。
偵記が法の抜け穴など探し始める前に。
結城家で、家族の形が再定義される前に。
記乃が、あんなふうに穏やかな顔で「結婚したい相手がいる」と言う前に。
自分が何かを言えた可能性は、本当に一度もなかったのか。
いや、あったはずだ。いくらでも。
茶会のあと。
贈り物をしたとき。
怪我をした記乃を見たとき。
無茶をして働き続ける記乃に、偵記と対立したとき。
そのどこかで、ただの上司としてではなく、ただの面白がる男としてでもなく、一人の男として手を伸ばすことはできたはずだった。
(だが、しなかった)
そうしなかったのは、誰だ。
自分自身だ。
誰かに邪魔されたわけではない。
制度が止めたわけでもない。
自分が、自分の感情を見なかった。
その結果、記乃は別の男へ向かっている。
しかも、その相手は、記乃が長く家族として過ごしてきた男であり、彼女の痛みや孤独や生活の細部を、自分より遥かに多く知っている。
久世は、低く息を吐いた。
後悔は、刃のようだった。
今さら自分を切りつけても、何ひとつ戻らない。
それでも、切りつけずにはいられない。
(希望)
そして、久世は、次にその名前をつけた。
わずかな希望。
それは、醜いものだった。
血縁が否定されたとはいえ、記乃と偵記は兄妹として育った。
戸籍も、長くそのように扱われてきた。
いくら法の抜け穴を利用したところで、世間体がそれを許すのか。
結城家の人間は認めても、外の人間は違う。
官付も、後宮も、帝都の噂好きな人間たちも、簡単には飲み込まないだろう。
ならば──
もし、その婚姻が頓挫したなら?
もし、記乃が傷つき、迷い、立ち止まることになったなら?
そのとき、自分にもまだ、好機があるのではないか。
そこまで考えた瞬間、久世は自分の思考に嫌悪した。
──最低だ。
思わず、声には出さずに呟く。
記乃が選んだ道が壊れることを、どこかで期待している。
彼女が望んでいるかもしれない未来が、世間体や制度によって阻まれることを、一筋の希望として捉えている。
それは、久世が嫌うはずの構造そのものだった。
優秀な個体を、制度が阻む。
個人の望みを、世間体が押し潰す。
それを変えようとしていたはずの自分が、今だけは、その歪みが彼女を引き止めてくれればいいと考えている。
(なんて、醜い)
久世は、両手で顔を覆った。
自嘲の笑みすら出てこない。
これまで、どれほど綺麗な理屈を並べてきたところで、いざ自分の恋慕が絡めば、こんなにも簡単に醜くなる。
制度改革。女性官僚。前例。国益。
そんな言葉を扱っていた自分が、ひとりの女を失いたくないというだけで、彼女の選んだ未来が行き詰まることを願いかけている。
久世は、深く息を吸う。
息がうまく入らない。
胸の奥が、硬く塞がっている。
(……違う)
ようやく、そこまで考えたところで、久世は自分の思考を止めた。
これは希望ではない。
ただの未練だ。
未練に、希望という名前を与えようとしただけだ。
記乃の気持ちは、自分に向いていない。
最初から向いてなどいなかったのだ。
彼女は自分を、ただ、上司として見ていた。
高位の人間として、官付の長として、時に扱いづらく、時に分類困難な人物として見ていた。
恋慕の対象として見ていたことは、一度もないことは、手に取るようにわかる。
贈り物を拒んだときの顔。
灰簾石を見て、「私の瞳はすでに私の目についている」と返した、あの妙に淡々とした声。
あれは、照れなどではなかった。
好意に戸惑う女の反応ではなかった。
ただ、受け取る理由がないものを拒んだだけだった。
久世は、ようやく認める。
(望みは、ひとつもない)
その結論は、ひどく静かだった。
静かであるがゆえに、余計に深く落ちる。
記乃の気持ちは、自分には向いていない。
彼女の未来は、自分の知らない場所へ伸びている。
自分がいまさらその道へ割り込むことはできない。
権力を使えば、一時的に足止めはできるかもしれないが、それは、記乃の人生を歪める行為だ。
あんなに合理性のみで動いていた彼女が、ようやく自分の欲を持ち、自分の人生を選び始めたのだとしたら。
それを、自分の未練で壊すことだけは、してはならない。
(……なら、どうする)
問いだけが残る。
久世は、答えを出せなかった。
ただ、椅子に座ったまま、机の上の書類を見下ろす。
文字が、うまく頭に入ってこない。
紙面に並んだ文言が、意味ではなくただの黒い線に見える。
遠くで、廊下を歩く足音がした。
誰かが小さく話す声。
官付は動いている。
国の仕事は止まらない。
記録も、報告も、制度も、今日も変わらず回り続けている。
それなのに、久世の内側だけが、完全に止まっていた。
喪失感。後悔。未練。
そして、望みのなさ。
ひとつずつ名前を与えたところで、それらは消えない。
むしろ、名付けたことで、逃げ場を失った。
久世は、机の上へ肘をつき、額を手で覆う。
かつて、自分は存在しているが存在しないものとして扱われてきた。
その感覚には、慣れているつもりだった。
だが、誰かの未来から自分が存在しないものとして外されることが、これほど苦しいとは思わなかった。
(……遅すぎた)
その言葉だけが、胸の奥で何度も反響する。
遅すぎた。
気づくのも。認めるのも。手を伸ばすのも。
何もかもが、遅すぎた。
久世は静かに目を閉じる。
夏の光は、容赦なく室内へ差し込み続けている。
外では蝉が鳴いている。
世界は、こんなにも明るい。
それなのに、久世の胸の内側だけは、深い影の底へ沈んでいくようだった。




