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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第四章 新生篇
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第六話 呵責

 人間は、自分の感情に名前を与えることで、ようやくそれを理解したつもりになる。


 苛立ち。執着。興味。好意。喪失。後悔。

 けれど、名前を与えたところで、その感情そのものが軽くなるわけではない。


 むしろ、名付けてしまったがゆえに、逃げ場を失うことがある。


 曖昧なままであれば見ないふりができたものも、輪郭を持った瞬間、胸の内側で確かな重さを持ち始める。


 そして人は、その重さによって初めて知るのだ。

 自分が、なにを失いかけていたのかを。


 久世恒一は、官付の執務室へ戻っていた。


 窓の外では夏の光が、白く、眩しく庭へ落ちている。

 空気は重く、障子を開けていても、室内へ入り込む風は熱を含んでいて、机の上に積まれた書類の端を揺らすほどの力もない。


 普段なら、そこに三浦伊織がいる。

 書類の位置を整え、茶を出し、必要な報告だけを過不足なく伝え、久世が余計なことを言う前に静かに釘を刺す。


 だが、いま三浦は席を外していた。

 それが、幸運なのか不運なのか、久世にはわからなかった。


 誰かがいれば、少なくとも、このぐちゃぐちゃに絡まった感情を、表へ出さずに済んだのかもしれない。

 あるいは逆に、三浦であれば、何も言わずともすべてを読み取り、逃げ道のない言葉で突きつけてきたのかもしれない。


(……記乃が、後宮を出る)


 机に手をつき、久世はゆっくりと椅子へ腰を下ろした。


 つい先ほど見送った背中が、まだ目の奥に残っている。

 荷車を引いて歩く、細い背中。

 いつも通り静かで、無駄がなく、けれどどこか穏やかで、まるで自分の進む先をすでに決めている人間の背中だった。


(違う)


 久世は、胸の内側でその言葉を押し返す。


(後宮を出るだけだ。官付から消えるわけではない。記録官補佐を続ける可能性もある。化野の家に住むだけなら、会えなくなるわけでもない)


 理屈を並べる。

 けれど、その理屈は、驚くほど役に立たなかった。

 胸の奥に落ちている重みは、そんなふうに整理できるものではない。


 久世は、机の上へ視線を落とす。

 そこには、記乃が以前まとめた報告書が残っていた。

 癖のない字。

 過不足のない項目。

 事実、推測、未確認事項を混ぜずに並べる、あの女らしい記録。


 それを見ただけで、喉の奥が苦くなる。


(喪失感)


 久世はまず、自分の気持ちに、そう名づけた。

 これは、喪失感だ。


 面白い女だと思っていた。

 気に入っていると、自分でも何度も思った。

 観察していて飽きない。使える。賢い。

 少し妙で、扱いづらく、それでいて、こちらの予想を外してくる。

 そんな言葉で片づけていた。


 だが、それは違ったのだ。

 面白い、などという軽い言葉では足りない。

 気に入っている、などという便利な表現では追いつかない。

 もっと深い場所で、自分はあの女の存在を、当たり前のように手元へ置いていた。


 官付や後宮を探せば、すぐに見つかる存在。

 事件が起きれば動き、問えば答える。

 贈り物をすれば、困った顔をする。

 無茶をすれば、少し眉を寄せて、しかし必要ならば従う。


 そういう日々を、久世はいつの間にか、当然のものとして扱っていた。


(あって当然だったものが、なくなる)


 いや、なくなるとは限らない。

 それでも、同じ場所にはいなくなる。

 後宮という枠の内側で、官付の補佐として、手を伸ばせば届く場所にいた存在。

 それが、別の家へ移り、別の戸籍を持ち、別の未来を選ぶ。

 その事実が、胸の内側を締めつける。


 久世は、指先でこめかみを押さえた。

 喪失。

 その名前を与えても、重みは減らなかった。


(後悔)


 次に浮かんだのは、それだった。


 なぜ、気づかなかったのか。

 あれだけ近くにいた。

 何度も会話をして、何度も興味を向けた。

 危うい目に遭えば、腹が立った。

 倒れたと聞けば、焦った。

 無茶をすれば、苛立った。

 贈り物を拒まれれば、落ち込んだ。


 それらはすべて、ただの興味ではなかったのではないか。

 なぜ、自分はそれを、もっと早く疑わなかったのか。


(俺は、なにを見ていた)


 久世は、奥歯を噛みしめる。

 自分は観察力がある方だと思っていた。

 人間の配置を見て、制度の流れを見る。

 誰がなにを望み、どこに歪みがあり、どの手を打てば場が動くのか、それを読むことは苦手ではなかった。


 それなのに、自分の感情だけは、読めなかった。


 否──

 読まなかった。

 その可能性を、久世は否定できなかった。


 記乃へ向けていた感情に名前をつけることが面倒で、どこか都合が悪く、そしてなにより、失敗することを恐れていたのかもしれない。


 相手は後宮の侍女であり、記録官補佐であり、出自の不安定な女である。

 対してこちらは官付の長であり、皇族の出であり、存在そのものに歪みを抱えた人間だ。

 近づけば、面倒が起こる。

 そう思って、興味という言葉で覆った。


 面白いものとして扱えば、手元に置いても不自然ではない。

 役に立つ人材として評価すれば、近づく理由が作れる。

 その程度の理屈で、自分を誤魔化していた。


(好いていたなら)


 久世は、椅子の背へ体重を預ける。


(もっと早く気づいていれば)


 もっと早く、行動に移せた。


 記乃が自分の感情を整理する前に。

 偵記が法の抜け穴など探し始める前に。

 結城家で、家族の形が再定義される前に。

 記乃が、あんなふうに穏やかな顔で「結婚したい相手がいる」と言う前に。


 自分が何かを言えた可能性は、本当に一度もなかったのか。

 いや、あったはずだ。いくらでも。


 茶会のあと。

 贈り物をしたとき。

 怪我をした記乃を見たとき。

 無茶をして働き続ける記乃に、偵記と対立したとき。

 そのどこかで、ただの上司としてではなく、ただの面白がる男としてでもなく、一人の男として手を伸ばすことはできたはずだった。


(だが、しなかった)


 そうしなかったのは、誰だ。

 自分自身だ。


 誰かに邪魔されたわけではない。

 制度が止めたわけでもない。

 自分が、自分の感情を見なかった。


 その結果、記乃は別の男へ向かっている。

 しかも、その相手は、記乃が長く家族として過ごしてきた男であり、彼女の痛みや孤独や生活の細部を、自分より遥かに多く知っている。


 久世は、低く息を吐いた。

 後悔は、刃のようだった。


 今さら自分を切りつけても、何ひとつ戻らない。

 それでも、切りつけずにはいられない。


(希望)


 そして、久世は、次にその名前をつけた。


 わずかな希望。

 それは、醜いものだった。

 血縁が否定されたとはいえ、記乃と偵記は兄妹として育った。

 戸籍も、長くそのように扱われてきた。

 いくら法の抜け穴を利用したところで、世間体がそれを許すのか。


 結城家の人間は認めても、外の人間は違う。

 官付も、後宮も、帝都の噂好きな人間たちも、簡単には飲み込まないだろう。


 ならば──


 もし、その婚姻が頓挫したなら?

 もし、記乃が傷つき、迷い、立ち止まることになったなら?


 そのとき、自分にもまだ、好機(チャンス)があるのではないか。


 そこまで考えた瞬間、久世は自分の思考に嫌悪した。


 ──最低だ。


 思わず、声には出さずに呟く。

 記乃が選んだ道が壊れることを、どこかで期待している。

 彼女が望んでいるかもしれない未来が、世間体や制度によって阻まれることを、一筋の希望として捉えている。


 それは、久世が嫌うはずの構造そのものだった。

 優秀な個体を、制度が阻む。

 個人の望みを、世間体が押し潰す。

 それを変えようとしていたはずの自分が、今だけは、その歪みが彼女を引き止めてくれればいいと考えている。


(なんて、醜い)


 久世は、両手で顔を覆った。

 自嘲の笑みすら出てこない。


 これまで、どれほど綺麗な理屈を並べてきたところで、いざ自分の恋慕が絡めば、こんなにも簡単に醜くなる。


 制度改革。女性官僚。前例。国益。

 そんな言葉を扱っていた自分が、ひとりの女を失いたくないというだけで、彼女の選んだ未来が行き詰まることを願いかけている。


 久世は、深く息を吸う。

 息がうまく入らない。

 胸の奥が、硬く塞がっている。


(……違う)


 ようやく、そこまで考えたところで、久世は自分の思考を止めた。


 これは希望ではない。

 ただの未練だ。

 未練に、希望という名前を与えようとしただけだ。


 記乃の気持ちは、自分に向いていない。

 最初から向いてなどいなかったのだ。

 彼女は自分を、ただ、上司として見ていた。

 高位の人間として、官付の長として、時に扱いづらく、時に分類困難な人物として見ていた。

 恋慕の対象として見ていたことは、一度もないことは、手に取るようにわかる。


 贈り物を拒んだときの顔。

 灰簾石(タンザナイト)を見て、「私の瞳はすでに私の目についている」と返した、あの妙に淡々とした声。

 あれは、照れなどではなかった。

 好意に戸惑う女の反応ではなかった。

 ただ、受け取る理由がないものを拒んだだけだった。


 久世は、ようやく認める。


(望みは、ひとつもない)


 その結論は、ひどく静かだった。

 静かであるがゆえに、余計に深く落ちる。


 記乃の気持ちは、自分には向いていない。

 彼女の未来は、自分の知らない場所へ伸びている。

 自分がいまさらその道へ割り込むことはできない。


 権力を使えば、一時的に足止めはできるかもしれないが、それは、記乃の人生を歪める行為だ。

 あんなに合理性のみで動いていた彼女が、ようやく自分の欲を持ち、自分の人生を選び始めたのだとしたら。

 それを、自分の未練で壊すことだけは、してはならない。


(……なら、どうする)


 問いだけが残る。

 久世は、答えを出せなかった。

 ただ、椅子に座ったまま、机の上の書類を見下ろす。


 文字が、うまく頭に入ってこない。

 紙面に並んだ文言が、意味ではなくただの黒い線に見える。


 遠くで、廊下を歩く足音がした。

 誰かが小さく話す声。

 官付は動いている。

 国の仕事は止まらない。

 記録も、報告も、制度も、今日も変わらず回り続けている。


 それなのに、久世の内側だけが、完全に止まっていた。

 喪失感。後悔。未練。

 そして、望みのなさ。

 ひとつずつ名前を与えたところで、それらは消えない。

 むしろ、名付けたことで、逃げ場を失った。


 久世は、机の上へ肘をつき、額を手で覆う。

 かつて、自分は存在しているが存在しないものとして扱われてきた。

 その感覚には、慣れているつもりだった。


 だが、誰かの未来から自分が存在しないものとして外されることが、これほど苦しいとは思わなかった。


(……遅すぎた)


 その言葉だけが、胸の奥で何度も反響する。

 遅すぎた。

 気づくのも。認めるのも。手を伸ばすのも。

 何もかもが、遅すぎた。


 久世は静かに目を閉じる。


 夏の光は、容赦なく室内へ差し込み続けている。

 外では蝉が鳴いている。


 世界は、こんなにも明るい。


 それなのに、久世の胸の内側だけは、深い影の底へ沈んでいくようだった。

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