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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第四章 新生篇
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第五話 祝福

 人間は、自分の欲を自覚した瞬間から、少しずつ変わってゆく。


 それまでは、必要最低限で満足していたはずのものが、急に足りなくなる。

 仕事だけでは駄目だと思い始める。

 責任だけでは、息が詰まると知ってしまう。


 そして、一度知ってしまった〝欲しい〟という感情は、簡単には消えない。

 家族も欲しい。仕事も欲しい。未来も欲しい。


 それは、清廉でも高潔でもないのかもしれない。


 それでも記乃は、ようやく理解し始めていた。

 人間とは本来、そういう生き物なのだと。



──────────



 真壁の執務室を出たあと、記乃は後宮の渡り廊下を静かに歩いていた。

 夏の陽射しはすでに高く、白い光が庭石へ照り返している。池の水面は眩しいほど明るく、時折吹く風だけが、湿り気を帯びた熱をわずかに攫っていった。


(後宮を出る、のか)


 その事実を、記乃は歩きながら何度も反芻していた。


 これまでなら、自分の生活を変えるなど考えもしなかった。与えられた役割を果たし、必要とされる場所で働き、問題なく動き続ける。

 それだけで充分なのだと、そう思っていた。


 だが、いまは違う。

 自分は欲張りだ。強欲だ。

 それでも──


(きっと、この気持ちは、大切にしなければならないのだろう)


 仕事も私生活も欲しい、という感情は、おそらく、ようやく手に入れた〝自分自身の願望〟だった。


 やがて、澄子妃の棟へ辿り着く。

 侍女へ取り次ぎを頼むと、記乃はすぐに澄子妃の私室へ通された。


 澄子妃は、窓際で香を焚いていた。

 薄紫色の着物を纏った姿は相変わらず柔らかく美しいが、その視線には、相手の状態を細かく読む静かな鋭さがある。


「記乃」


 澄子妃は微笑む。


「どうしたの?」


 記乃は、その前へ静かに座った。


「ご報告したいことがあります」


 澄子妃は、すぐには口を挟まない。記乃が自分から話し始めるのを待っていた。


「この度、私は後宮から籍を抜くことになりました」


 澄子妃の目が、わずかに細められる。


「事後報告となってしまったこと、深くお詫び申し上げます」


 その目は、驚きというより、確認するような視線だった。


「構わないわ。続けて」


 短い返答。

 だが、そこに拒絶はない。

 記乃は続ける。


「これまで、おそばへ置いてくださったこと、心より感謝しております」


 頭を下げる。


「私は、ここへ来なければ、きっと、いまのようには生きられませんでした」


 澄子妃は、しばらく黙って記乃を見ていた。

 そして、小さく息を吐く。


「……そう」


 その声音は、どこか安堵にも似ていた。


「あなたも、自分自身のことを考えて、自分自身のために行動できるようになったのね」


 記乃は、少しだけ目を瞬かせる。

 自分では、まだそこまで変わった実感がない。

 だが、澄子妃から見れば、違うのだろう。


「あなたの人生だもの」


 澄子妃は静かに続けた。


「あなたが決めて、然るべきことよ」


 窓から風が吹き込む。

 香の煙が、ゆっくり揺れた。


「あなたの人生に口を出せるのは、あなただけ」


 澄子妃の声は、穏やかだった。


「だから、深く事情は聞かないわ」


 そこまで言ってから、少しだけ柔らかく笑う。


「ただ……また戻ってくることになったのなら、その時は、また私のもとに帰ってきてね」


 記乃は、その言葉を素直にありがたいと思った。

 理由を問い詰めるでもなく、恩を盾に引き止めるでもなく、ただ、帰る場所として残ると言ってくれる。

 それは、記乃にとって、思っていた以上に救いだった。


「……はい」


 静かに頭を下げる。

 澄子妃は、どこか満足そうに目を細めていた。



──────────



 そのあと、記乃は自室へ戻り、荷物をまとめ始めた。


 最低限の衣類。紙と筆記具。大量の書籍。

 本のせいで荷物は多い。しかし、どこか生活感の薄い荷物を荷車へ積みながら、記乃は考えていた。


 まずは結城家へ運ぶべきか。

 それとも、直接化野家へ向かうべきか。

 だが、まだ正式に住むと決まったわけではない。勝手に荷物を運び込むのも違う気がする。


(まず了承を取るべきだろうか……?)


 そんなことを考えていたときだった。


「記乃!」


 聞き慣れた声。

 振り返ると、そこには久世がいた。

 珍しく、三浦の姿がない。

 久世は、少し息を乱していた。急いで来たのだろう。


 だが、記乃には、なぜそこまで急ぐ必要があったのか、いまいち分からなかった。


「……後宮を抜けるって、どういうことだ?」


 久世は、珍しく余裕のない顔をしていた。

 普段なら笑みを崩さず、どこか掴みどころのない態度を取る男が、いまは真っ直ぐ記乃を見ている。


 それは、問い詰めるような声音だった。


 記乃は荷車へ積みかけていた紙束を整えながら、静かに口を開く。


「先日、遺伝子検査を行いました」

「……遺伝子検査?」

「はい。結城家との血縁確認のためです」


 久世の眉が、わずかに寄る。


「結果は?」

養父(ちち)とは、血縁関係がないと正式に判定されました」


 そこで、久世の表情が少し変わった。

 驚き。そして、理解が追いつかないような沈黙。


「……本当の、本当に、血が繋がっていなかったのか」

「はい」


 記乃は頷く。


「血が繋がっているかもしれない、と一度は言われ、それに疑念を抱いた私が、遺伝子検査をしたいと願い出ました。そして先日、正式に血縁関係はないということが証明されました」


 久世は、しばらく言葉を失っていた。


 彼にとって、記乃はずっと「結城家の娘」だったのだろう。出自が不安定であることは知っていても、それでも、結城家の人間として扱われ続けてきた。

 その前提が、いま、崩れた。


「それで」


 久世は、ようやく続きを促す。


「後宮を出る話と、どう繋がる?」

「訳あって、化野家へ籍を移す話になりまして」

「……化野?」


 久世の目が瞬く。


「あの、化野幽か?」

「はい」

「なぜ、あの女の家へ?」


 質問が少しずつ短くなっている。

 記乃は、それに気づかないまま答える。


「私と父上に血縁がない以上、戸籍を整理する必要がありました。現在の制度上、一度、親子関係を訂正する場合、新しい親役が必要になるそうです」

「それで、化野が?」

「はい。化野さんから提案してくださいました」


 久世は黙る。

 風が吹き抜ける。荷車へ掛けられた布が、ぱたりと揺れた。


「……そうか」


 短い。

 記乃は、説明不足だろうかと思った。

 だから、続ける。


「それから」


 久世が顔を上げる。


「私には、結婚したいと思う相手がいます」


 そこで、空気が変わった。

 久世の目が、はっきり止まる。

 記乃は、その変化の意味が分からない。


「結婚、したい……相手?」

「はい」

「……だれだ」


 声が低い。

 記乃は、少しだけ不思議そうにしながら答えた。


「結城偵記です」


 沈黙。

 久世は、なにも言わなかった。

 否、言えなかった。


 結城家と血縁がない。

 化野家へ籍を移す。

 そのあと、結婚したい相手がいる。

 ひとつずつは理解できる。

 だが、それらが繋がった瞬間、自分の中のなにかが、一気に崩れた。


「結城、偵記……」


 ようやく出てきた言葉は、それだけだった。


「はい」


 記乃は静かに頷く。


「だが、兄だろう?」

「血の繋がりはありません。そう証明されました」

「っ、それでも」

「兄さんは、そのつもりで動いてくれています」


 久世は、返事をしない。

 記乃は、少しだけ困った。


 久世にしては、妙に反応が薄い。

 いつもなら、もっと軽口を叩くか、からかうか、あるいは大袈裟に驚くはずなのに、今日は違う。


 言葉が、少しずつ減っている。

 久世自身、自分の内側で起きている感情を処理しきれていなかった。


 なぜ、こんなにも胸がざわつくのか。

 なぜ、息が詰まるのか。

 なぜ、「結婚」という言葉を聞いた瞬間、目の前が遠くなったのか。


 理解できない。したくない。


 戸惑うような表情の久世を見て、記乃は、説明が不足しているのかと思った。


「すみません。これ以上説明できる事情がございません」


 久世は、いま受けた説明がすべてなのだと実感すると、喉の奥が痛むように苦しくなった。


 しばらくの沈黙。

 夏の風が吹き抜け、積みかけの荷物の布を揺らした。

 やがて久世の口から出てきたのは、たった一言だった。


「……本当に?」


 記乃は、少しだけ首を傾げる。


「はい」


 久世は未だ、受け入れられていない。

 なぜ、自分がこんなにも焦っているのか。

 なぜ、胸の内側がざわつくのか。

 なぜ、記乃が別の人間のものになる未来を想像した瞬間、こんなにも息苦しくなるのか。


 彼はまだ、自分の感情に名前をつけられてはいなかった。


 一方、記乃は、そんな久世の内面に気づいていない。

 ただ、少し驚いているだけだ。


 ──久世様にしては、妙に動揺している。


 その程度の認識だった。


「久世様?」


 呼ばれて、久世はようやく我に返る。

 目の前の記乃は、どこか穏やかだった。

 荷物をまとめながら、少しだけ嬉しそうですらある。

 その表情を見た瞬間。

 久世の胸へ、ひどく鈍い、後悔が落ちた。


(……ああ)


 遅かったのだ、と。

 記乃はもう、自分の知らない場所で未来を決め始めている。


 自分が気づかないうちに。

 自分が、まだ、この感情の正体すら理解していないうちに。


 記乃は、小さく会釈した。


「では、失礼します」


 そして、そのまま荷車を引いて歩き出す。

 久世は記乃を呼び止められなかった。


 伸ばしかけた指先は、結局、空を掴むこともなく、止まる。


 遠ざかってゆく後ろ姿。

 夏の日差し。

 荷車の軋む音。

 そのすべてを見送りながら、久世はようやく理解した。


 自分は、記乃を失いたくなかったのだと。


 その裏にあるものが恋慕であると気がつくには、あまりにも遅すぎた。


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