第五話 祝福
人間は、自分の欲を自覚した瞬間から、少しずつ変わってゆく。
それまでは、必要最低限で満足していたはずのものが、急に足りなくなる。
仕事だけでは駄目だと思い始める。
責任だけでは、息が詰まると知ってしまう。
そして、一度知ってしまった〝欲しい〟という感情は、簡単には消えない。
家族も欲しい。仕事も欲しい。未来も欲しい。
それは、清廉でも高潔でもないのかもしれない。
それでも記乃は、ようやく理解し始めていた。
人間とは本来、そういう生き物なのだと。
──────────
真壁の執務室を出たあと、記乃は後宮の渡り廊下を静かに歩いていた。
夏の陽射しはすでに高く、白い光が庭石へ照り返している。池の水面は眩しいほど明るく、時折吹く風だけが、湿り気を帯びた熱をわずかに攫っていった。
(後宮を出る、のか)
その事実を、記乃は歩きながら何度も反芻していた。
これまでなら、自分の生活を変えるなど考えもしなかった。与えられた役割を果たし、必要とされる場所で働き、問題なく動き続ける。
それだけで充分なのだと、そう思っていた。
だが、いまは違う。
自分は欲張りだ。強欲だ。
それでも──
(きっと、この気持ちは、大切にしなければならないのだろう)
仕事も私生活も欲しい、という感情は、おそらく、ようやく手に入れた〝自分自身の願望〟だった。
やがて、澄子妃の棟へ辿り着く。
侍女へ取り次ぎを頼むと、記乃はすぐに澄子妃の私室へ通された。
澄子妃は、窓際で香を焚いていた。
薄紫色の着物を纏った姿は相変わらず柔らかく美しいが、その視線には、相手の状態を細かく読む静かな鋭さがある。
「記乃」
澄子妃は微笑む。
「どうしたの?」
記乃は、その前へ静かに座った。
「ご報告したいことがあります」
澄子妃は、すぐには口を挟まない。記乃が自分から話し始めるのを待っていた。
「この度、私は後宮から籍を抜くことになりました」
澄子妃の目が、わずかに細められる。
「事後報告となってしまったこと、深くお詫び申し上げます」
その目は、驚きというより、確認するような視線だった。
「構わないわ。続けて」
短い返答。
だが、そこに拒絶はない。
記乃は続ける。
「これまで、おそばへ置いてくださったこと、心より感謝しております」
頭を下げる。
「私は、ここへ来なければ、きっと、いまのようには生きられませんでした」
澄子妃は、しばらく黙って記乃を見ていた。
そして、小さく息を吐く。
「……そう」
その声音は、どこか安堵にも似ていた。
「あなたも、自分自身のことを考えて、自分自身のために行動できるようになったのね」
記乃は、少しだけ目を瞬かせる。
自分では、まだそこまで変わった実感がない。
だが、澄子妃から見れば、違うのだろう。
「あなたの人生だもの」
澄子妃は静かに続けた。
「あなたが決めて、然るべきことよ」
窓から風が吹き込む。
香の煙が、ゆっくり揺れた。
「あなたの人生に口を出せるのは、あなただけ」
澄子妃の声は、穏やかだった。
「だから、深く事情は聞かないわ」
そこまで言ってから、少しだけ柔らかく笑う。
「ただ……また戻ってくることになったのなら、その時は、また私のもとに帰ってきてね」
記乃は、その言葉を素直にありがたいと思った。
理由を問い詰めるでもなく、恩を盾に引き止めるでもなく、ただ、帰る場所として残ると言ってくれる。
それは、記乃にとって、思っていた以上に救いだった。
「……はい」
静かに頭を下げる。
澄子妃は、どこか満足そうに目を細めていた。
──────────
そのあと、記乃は自室へ戻り、荷物をまとめ始めた。
最低限の衣類。紙と筆記具。大量の書籍。
本のせいで荷物は多い。しかし、どこか生活感の薄い荷物を荷車へ積みながら、記乃は考えていた。
まずは結城家へ運ぶべきか。
それとも、直接化野家へ向かうべきか。
だが、まだ正式に住むと決まったわけではない。勝手に荷物を運び込むのも違う気がする。
(まず了承を取るべきだろうか……?)
そんなことを考えていたときだった。
「記乃!」
聞き慣れた声。
振り返ると、そこには久世がいた。
珍しく、三浦の姿がない。
久世は、少し息を乱していた。急いで来たのだろう。
だが、記乃には、なぜそこまで急ぐ必要があったのか、いまいち分からなかった。
「……後宮を抜けるって、どういうことだ?」
久世は、珍しく余裕のない顔をしていた。
普段なら笑みを崩さず、どこか掴みどころのない態度を取る男が、いまは真っ直ぐ記乃を見ている。
それは、問い詰めるような声音だった。
記乃は荷車へ積みかけていた紙束を整えながら、静かに口を開く。
「先日、遺伝子検査を行いました」
「……遺伝子検査?」
「はい。結城家との血縁確認のためです」
久世の眉が、わずかに寄る。
「結果は?」
「養父とは、血縁関係がないと正式に判定されました」
そこで、久世の表情が少し変わった。
驚き。そして、理解が追いつかないような沈黙。
「……本当の、本当に、血が繋がっていなかったのか」
「はい」
記乃は頷く。
「血が繋がっているかもしれない、と一度は言われ、それに疑念を抱いた私が、遺伝子検査をしたいと願い出ました。そして先日、正式に血縁関係はないということが証明されました」
久世は、しばらく言葉を失っていた。
彼にとって、記乃はずっと「結城家の娘」だったのだろう。出自が不安定であることは知っていても、それでも、結城家の人間として扱われ続けてきた。
その前提が、いま、崩れた。
「それで」
久世は、ようやく続きを促す。
「後宮を出る話と、どう繋がる?」
「訳あって、化野家へ籍を移す話になりまして」
「……化野?」
久世の目が瞬く。
「あの、化野幽か?」
「はい」
「なぜ、あの女の家へ?」
質問が少しずつ短くなっている。
記乃は、それに気づかないまま答える。
「私と父上に血縁がない以上、戸籍を整理する必要がありました。現在の制度上、一度、親子関係を訂正する場合、新しい親役が必要になるそうです」
「それで、化野が?」
「はい。化野さんから提案してくださいました」
久世は黙る。
風が吹き抜ける。荷車へ掛けられた布が、ぱたりと揺れた。
「……そうか」
短い。
記乃は、説明不足だろうかと思った。
だから、続ける。
「それから」
久世が顔を上げる。
「私には、結婚したいと思う相手がいます」
そこで、空気が変わった。
久世の目が、はっきり止まる。
記乃は、その変化の意味が分からない。
「結婚、したい……相手?」
「はい」
「……だれだ」
声が低い。
記乃は、少しだけ不思議そうにしながら答えた。
「結城偵記です」
沈黙。
久世は、なにも言わなかった。
否、言えなかった。
結城家と血縁がない。
化野家へ籍を移す。
そのあと、結婚したい相手がいる。
ひとつずつは理解できる。
だが、それらが繋がった瞬間、自分の中のなにかが、一気に崩れた。
「結城、偵記……」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
「はい」
記乃は静かに頷く。
「だが、兄だろう?」
「血の繋がりはありません。そう証明されました」
「っ、それでも」
「兄さんは、そのつもりで動いてくれています」
久世は、返事をしない。
記乃は、少しだけ困った。
久世にしては、妙に反応が薄い。
いつもなら、もっと軽口を叩くか、からかうか、あるいは大袈裟に驚くはずなのに、今日は違う。
言葉が、少しずつ減っている。
久世自身、自分の内側で起きている感情を処理しきれていなかった。
なぜ、こんなにも胸がざわつくのか。
なぜ、息が詰まるのか。
なぜ、「結婚」という言葉を聞いた瞬間、目の前が遠くなったのか。
理解できない。したくない。
戸惑うような表情の久世を見て、記乃は、説明が不足しているのかと思った。
「すみません。これ以上説明できる事情がございません」
久世は、いま受けた説明がすべてなのだと実感すると、喉の奥が痛むように苦しくなった。
しばらくの沈黙。
夏の風が吹き抜け、積みかけの荷物の布を揺らした。
やがて久世の口から出てきたのは、たった一言だった。
「……本当に?」
記乃は、少しだけ首を傾げる。
「はい」
久世は未だ、受け入れられていない。
なぜ、自分がこんなにも焦っているのか。
なぜ、胸の内側がざわつくのか。
なぜ、記乃が別の人間のものになる未来を想像した瞬間、こんなにも息苦しくなるのか。
彼はまだ、自分の感情に名前をつけられてはいなかった。
一方、記乃は、そんな久世の内面に気づいていない。
ただ、少し驚いているだけだ。
──久世様にしては、妙に動揺している。
その程度の認識だった。
「久世様?」
呼ばれて、久世はようやく我に返る。
目の前の記乃は、どこか穏やかだった。
荷物をまとめながら、少しだけ嬉しそうですらある。
その表情を見た瞬間。
久世の胸へ、ひどく鈍い、後悔が落ちた。
(……ああ)
遅かったのだ、と。
記乃はもう、自分の知らない場所で未来を決め始めている。
自分が気づかないうちに。
自分が、まだ、この感情の正体すら理解していないうちに。
記乃は、小さく会釈した。
「では、失礼します」
そして、そのまま荷車を引いて歩き出す。
久世は記乃を呼び止められなかった。
伸ばしかけた指先は、結局、空を掴むこともなく、止まる。
遠ざかってゆく後ろ姿。
夏の日差し。
荷車の軋む音。
そのすべてを見送りながら、久世はようやく理解した。
自分は、記乃を失いたくなかったのだと。
その裏にあるものが恋慕であると気がつくには、あまりにも遅すぎた。




