第四話 確認
人間は、ときに、なにかを選ぶという行為を、なにかを捨てることと同義だと思い込む。
仕事を選べば私生活を諦めるべきであり、家族を優先するなら出世を諦めるべきであり、責任を負うなら感情を抑えるべきだ、と。
実際、この国の制度も、長いあいだ、そういう考え方を前提として組み上げられてきた。
とくに後宮などという場所は、その傾向が強い。
なにを優先し、なにを切り捨てるのか。そこを間違えた人間から、順番に壊れてゆく。
だからこそ記乃の中では、ある価値観が凝り固まっていた。
人間は、本来、ひとつしか選べない生き物なのだ、と。
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朝の後宮は、まだ夜の冷気を少しだけ引きずっていた。
とはいえ、夏の空気はすでに湿り気を含み始めており、日が高くなるころには、また昨日のような暑さになるのだろうと予感させる。
官付の廊下を歩きながら、記乃は腕に抱えた報告書へ視線を落とした。
昨夜、結城家で夕餉を囲んだあとも、結局、寝る前まで細部を見直していたものだ。紙の端には、夜更けに書き足した補足まで残っている。
いつも通りの仕事。いつも通りの報告書。
だが、今日は、そのあとに控えている話が、いつもとは違った。
真壁の執務室へ着き、襖を叩く。
「入れ」
短い声。
記乃は襖を開けた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
真壁は机へ向かったまま、書類へ目を通していた。積み上がった紙束の量からして、朝から相当忙しいのだろう。
「先日の報告書ができたのか」
「はい。こちらに」
記乃は、まとめた書類を差し出す。
真壁は受け取ると、その場ですぐに目を通し始めた。
室内へ、紙を捲る音だけが響く。
記乃は静かに立ったまま待っていた。
真壁は、必要以上に感想を口にする人間ではない。
評価があるとすれば、それは極めて短い。
「よし」
やはり、それだけだった。
だが、記乃にとっては充分だった。
真壁の「よし」は、最低限の確認ではない。 内容に問題なし、という意味だ。
「ありがとうございます」
礼を述べたあと、記乃は少しだけ間を置いた。
そして、静かに言う。
「ひとつ、確認したいことがあるのですが」
真壁が顔を上げた。
その視線は、わずかに警戒を含んでいる。
記乃が、仕事以外の相談を持ち込むときは、大抵、面倒事だからだ。
「なんだ」
「後宮から籍を抜いた場合、通いで記録官補佐を続けることは可能でしょうか」
真壁の眉が、ぴくりと動く。
沈黙。
次いで、深く椅子へ背を預けた。
「……どういった経緯で、そんな話が出たんだ」
まず、そこからだった。
当然である。
記乃も、それは理解していた。
「私の出生は不明瞭なものですが」
記乃は、できるだけ順序立てて説明する。
「先日、養父とは、やはり血が繋がっていないことが正式に証明されました。遺伝子検査の結果で、そう出ました」
真壁は黙って聞いている。
「それから、訳あって、化野さんの実子ということにする話が出まして」
「待て」
真壁が即座に遮った。
「その〝訳あって〟の部分が、一番濁してはならないところだろう」
記乃は口を閉ざす。
真壁は、机へ肘をつきながら言った。
「なにがどうなって、あの女の実子になる話になるんだ」
淡々としているが、逃がす気のない声音だった。
記乃は少しだけ視線を落とす。
正直、偵記との話を、どこまで説明すべきか迷っていた。
だが、真壁相手に、曖昧な説明で押し切れるとも思っていない。
しばらく沈黙したあと、観念する。
「……兄さんとの婚姻を叶えるためです」
その瞬間、室内が静かになった。
真壁は、数秒ほど完全に黙ったまま記乃を見ていた。
記乃は、多少なりとも驚かれることを想定していた。
だが──
「……まあ」
真壁は、小さく息を吐く。
「そんなことだろうとは思った」
記乃は、わずかに目を瞬かせた。
案外、反応が薄い。
「驚かれないんですね」
「以前、お前が相談してきただろう」
真壁は事務的に言った。
「兄妹ではない可能性がある、と」
記乃は思い出す。
あのとき、自分はまだ、偵記の感情について確証を持っていなかった。
「その時点で、あいつの態度を見ていれば、大体予想はつく」
真壁は、書類を机へ置いた。
「もともと、結城偵記の視線は、お前に対して妙に重かった」
記乃は、返答に困った。
ばれていないと思っていたわけではない。
だが、真壁にまで完全に見抜かれていたとは思っていなかった。
真壁は続ける。
「それで?」
視線が鋭い。
「通いにしたいという話と、どう繋がる」
「昨日、化野さんから、同居しないかと誘われました」
真壁が、深々とため息を吐いた。
「あの女は本当に……」
呆れ半分。疲労半分。
「奔放にも限度があるだろう」
「ですが、合理性はあるかと」
「あるから余計に厄介なんだ」
真壁は額を押さえた。
しばらく考え込んだあと、やがて静かに口を開く。
「結論から述べる。後宮を抜けること自体は、可能だ」
記乃は、顔を上げた。
「ただし」
真壁の声音が、少し低くなる。
「それで記録官補佐を続けるなら、今より風当たりは強くなる可能性が高い」
記乃は黙って聞く。
「後宮内の人間だからこそ許されている部分もある。だが、外の人間になれば話は別だ」
真壁は淡々と続けた。
「女であること。まだ若いこと。出自が不明瞭なこと。さらに、後宮を出たあとも官付へ出入りすること」
ひとつひとつ、指折り確認するように並べる。
「気に食わない人間は、確実に増えるだろう」
それは脅しではなく、単なる事実だった。
記乃もそれは理解している。
制度は、例外を嫌う。
特に、自分のような存在を。
しばらく沈黙が落ちる。
窓の外では、蝉が鳴き始めていた。
夏の光が障子を白く透かし、室内へぼんやりした熱を落としている。
記乃は、静かに考えた。
仕事。後宮。記録官補佐という立場。
それらは、自分がようやく掴み始めた場所だ。
一方で、結城家。偵記。化野の家。
これから変わるかもしれない生活。
どちらかを選べと言われたら、自分はどうするのか。
昔の自分なら、おそらく即答していただろう。
仕事を取る。役割を優先する。
私生活など、切り捨てるべきものだと。
だが、いまは少し、違う。
「……私は」
記乃は、ゆっくり口を開いた。
「仕事も、私生活も、どちらも大切にしたいと思っています」
真壁は黙っている。
「もちろん、これは甘い考えであると思います。ですが、どちらかだけを選んで、どちらかを捨てるべきだとも、いまはどうしても、思えません」
言葉にしてみて、初めて、自分の中の欲が輪郭を持った気がした。
欲張りだ。
記乃は、内心そう思う。
ひとつでは足りないと思っている。
仕事も欲しい。家族も欲しい。
生活も、未来も、ぜんぶ。
それは、自分が思っていた以上に、人間らしい欲望だった。
真壁は、しばらく記乃を見ていた。
そして。
「そうか。わかった」
短い返答。
そして、記乃が頭を下げようとしたときだった。
真壁が、少しだけ口元を緩める。
「荒波に揉まれた方が、大人になるのは早いものだ」
その声音は、いつもの事務的なものより、わずかに柔らかかった。
「励めよ」
記乃は、一瞬だけ目を見開いた。
それから、静かに頭を下げる。
「……はい。ありがとうございます」
執務室を出たあと、記乃は廊下をゆっくり歩いた。
窓から差し込む夏の光が、床板へ白く伸びている。
(……私は)
自覚していたより、ずっと強欲な人間なのかもしれない。
これまでは、なにごとも、ひとつしか選べないのだと思っていた。
家族か、仕事か。
責任か、感情か。
だが今回、選択してしまった。
仕事と私生活、すべてほしい、と。
たくさんのものを抱えたまま、それでも生きていこうとする。
記乃には、まだ、その感覚が完全には分からない。
だからこそ、罪悪感もある。
ほんの少しの迷いもある。
それでも──
廊下の向こう側から吹いてきた夏の風は、以前より少しだけ、遠くまで続いているような気がした。




