第二話 下見
人間というものは、不思議なものである。
家という空間を、単なる建築物として扱うことができない。
柱の材質。畳の匂い。廊下へ落ちる光。食事の湯気。だれかの生活音。
そういう無数の小さな情報が積み重なることで、人はそこを〝帰る場所〟として認識してゆく。
だからこそ人は、住む場所を変えるという行為に対して、単なる引っ越し以上の意味を見出すのだろう。
記録蔵での話し合いが終わったあと、化野は、いつもの調子でけらけら笑いながら言った。
「じゃあ今から、私の家に行ってみる?」
唐突だった。
「今後、住むかもしれない家の下見ってことでさ」
記乃は、机の上へ積み上げた紙束を見た。 未整理の記録が残っている。
「いえ、今日はまだ仕事があります」
「あー、真面目」
化野は、わざとらしく肩を落とした。
「じゃあ、明日の予定は?」
「休日です」
「じゃあ決まり」
化野は即答した。
「明日迎えに来るから」
記乃は、一瞬だけ間を置いた。
普通なら、もう少し予定確認や遠慮が挟まる場面なのだろう。だが、化野という人間は、妙なところで距離の詰め方が自然だった。
「……わかりました」
そう返すと、化野は満足そうに笑った。
「よしよし。じゃあ、明日ねえ」
──────────
翌日。
帝都は朝から暑かった。
空は高く晴れているが、風は重く、石畳の上にはすでに陽炎が揺らいでいる。通りには、商人の呼び声と、車輪の音と、夏特有の湿気を含んだ匂いが混ざっていた。
官付の門前で待っていると、低い機械音が近づいてくる。
記乃は、そちらへ視線を向けた。
黒塗りの自動車だった。
世間にも普及してきて、密記も所有しており、以前官付のものを借りて偵記の運転する自動車に乗ったこともある。
見たことがないわけではないのに──
化野が運転席へ座っている光景は、妙に現実感がなかった。
窓が開く。
「おはよう、記乃ちゃん」
化野は片手を上げた。
「乗りなよ」
「……ご自身で運転されるんですか」
「するよ?」
当然のように返される。
「以前は馬車も使ってたんだけどねえ。帝都の中を移動する程度なら、こっちの方が早いし楽なんだ」
記乃は、少しだけ目を瞬かせた。
この時代、自動車を所有しているだけでも珍しい。 加えて、自ら運転までしている。
(本当に、分類が難しい人だ)
そう思いながら、助手席へ乗り込んだ。
扉が閉まる。車内には、革と機械油が混ざった独特の匂いが漂っていた。
化野が発進させる。
車体が静かに揺れ、帝都の町並みが流れてゆく。
「酔わない?」
「大丈夫です」
「ならよかった」
化野は、軽く笑った。
「記乃ちゃんは乗り物酔いしても、倒れるまで黙ってそうだからさ」
「それは否定はできません」
「あははっ」
車窓の外を、人力車が横切る。白い日傘を差した女学生たちが歩いている。電柱の並ぶ通りには、新しい時代と古い時代が、まだ不格好なまま混ざり合っていた。
やがて車は、華族街から少し外れた住宅地へ入っていく。
記乃は、少し意外に思った。
もっと大きな屋敷街を想像していたからだ。
「着いたよ」
化野が車を止めた。
記乃は降りて、目の前の家を見上げる。
木造二階建て。庭付きではあるが、極端に広いわけではない。 外壁も落ち着いた色味で、華美な装飾はほとんどなかった。
想像より、ずっと質素だった。
「……意外でした」
「ん?」
「もっと豪華な家へ住んでいると思っていました」
化野は、声を上げて笑った。
「あっはは! それね、よく言われる」
鍵を開けながら続ける。
「ここ、生家じゃないんだ。自分で建てた家なんだよねえ」
中へ入る。
玄関も、思ったより普通だった。下駄箱があり、傘立てがあり、壁際へ脱ぎ散らかした草履が寄せられている。
生活感がある。
「どうぞー」
案内されて上がる。
室内は清潔だったが、完璧に整頓されているわけではなかった。本が積まれ、書類が置かれ、机の上には万年筆や新聞が広がっている。
人が暮らしている家だ、という印象が強い。
「着物とか、もっと大量に持ってるのかと思ってました」
記乃が何気なく言うと、化野は振り返った。
「そんな持ってないよ」
衣桁に掛けられている着物も、数えるほどしかない。
「ほとんど一張羅みたいなもん」
「意外です」
「記乃ちゃん、私をなんだと思ってるの」
「たくさんお金を使う人」
「使ってるよ?」
化野は、にやりと笑った。
「ただ、使い道が違うだけで」
そう言って案内された先で、記乃は少し目を見開く。
風呂場だった。
「……これ」
「ガスだよ」
化野は得意げだった。
「わざわざ薪で沸かすの面倒じゃない?」
さらに台所へ案内される。
そこにも、釜戸ではなくガス台が置かれていた。
「全部屋、電気も通してるしねえ」
化野は、まるで新しい玩具を自慢する子どものようだった。
「使用人もいないし、一人暮らしだし。楽できるところは、楽したい主義でね」
たしかに、合理的ではある。
「かなり暮らしやすいよ」
家の中を回る。
庭はある。ただ、凝った造りではない。
「植物とか、育てないんですか」
「手入れ面倒でしょ。庭師に使うお金はない」
即答だった。
書斎は洋室だった。
棚という棚に本が詰め込まれ、床にまで資料が積み上がっている。新聞、原稿、海外書籍、民俗資料。
完全に仕事部屋だった。
「……すごいですね」
「片付けても増えるんだよねえ」
一方、寝室は和室だった。
他にも空きの和室がふたつあるらしい。
「人を招くことがほとんどないから、応接間とかはないよ。来客は居間に通す」
合理的だ、と記乃は思った。
豪奢ではない。だが、生活の快適さに金が使われている。
実際、かなり住みやすそうだった。
一通り見終えたあと、化野が訊ねる。
「どう?」
記乃は、少し考えてから答えた。
「利便性が高そうです」
化野が吹き出す。
「あっはは! 評価が完全に実務目線!」
だが、そのあと。
化野は、少しだけ声音を落とした。
「ね。これを機にさ」
記乃は、視線を向ける。
「後宮から籍を抜いて、この家に住むってのは、どう?」
空気が、少し静かになった。
窓の外では、蝉が鳴いている。
記乃は、室内を見回した。
散らかった書斎。実用的な台所。電気。ガス風呂。人の生活がきちんと存在している家。
それから、化野を見る。
この人は、おそらく本気なのだろう。
軽薄そうに笑うくせに、こういう提案だけは、冗談みたいな顔で本気を言う。
「……可能なら」
記乃は、静かに言った。
「それも悪くないと思います」
化野が、少しだけ目を細める。
「仮にそうなったら、化野さんの仕事のお手伝いをしますね」
「そりゃあいいや」
化野は、楽しそうに笑った。
「期待してるね」
その声音は軽い。
けれど、どこか嬉しそうでもあった。
記乃は、その横顔を見ながら思う。
家族というものは、最初から完成された形で存在しているわけではないのかもしれない。
血縁でもなく。戸籍だけでもなく。
人間は、ときに、時間をかけて関係を作っていく。
この家の空気は、まだ他人同士の匂いがしていた。
けれど、それは同時に──
これから、なにかが始まる余白でもあるように、記乃には思えた。




