第一話 快諾
人間というものは、なにかを失ったあとほど、次に掴めるかもしれない希望へ異様な執着を見せる。
それは欲深さというより、むしろ、生き延びるための本能に近い。
絶望だけを見つめ続けていれば、人間の心は簡単に折れてしまう。
だからこそ、人は小さな可能性を見つけると、それがどれほど危うい綱であっても、手放すまいと指先へ力を込める。
法の抜け穴など、見つけたとて本来誇るべきものではない。
だが、その穴の向こう側に、大切な人間の人生があるのなら──
(おれは、正道から少し外れた場所に平然と足を踏み入れることも、厭わない)
記録蔵を出たあと、記乃たち三人は、そのまま暗号局の棟へ向かっていた。
外は相変わらず暑い。
夏の日差しは西へ傾き始めているというのに、石畳は昼間の熱を抱え込んだままで、歩くたびにじわりと熱気が立ち上ってくる。
官付の棟とは違い、暗号局周辺はどこか空気が張り詰めていた。
廊下を行き交う局員たちは極端に口数が少なく、抱えた書類を落とさぬよう慎重に歩いている。行き交うそのだれもが、忙しそうにしている。
その緊張感の中を、化野だけが妙に気楽そうな顔で歩いていた。
「いやあ、官付より空気が重いねえ。私はこういう胃が痛くなる雰囲気、あんまり向いてないんだけど」
「向いていない人間は、普通、暗号局長の執務室へ乗り込もうとはしません」
「そこはほら、記乃ちゃんがいるから」
化野は、けろりとして答える。
一方偵記は、横目で化野を見た。
この女は、本当に調子が狂う。
軽薄そうに笑っているくせに、肝心なところでは妙に本質へ触れてくる。
(……まあ、そういう性質の人なんだろう。そう考えた方が、わかりやすい)
少なくとも、記乃が信頼している。その一点だけは、もう疑っていなかった。
やがて、暗号局長執務室の前へ辿り着く。扉を叩くと、すぐに内側から声が返ってきた。
「どうぞー」
偵記が扉を開ける。
室内では、密記が机へ向かったまま書類へ目を通していた。だが、顔を上げた瞬間、その表情がぱっと明るくなる。
「おお、どうした?」
そして、化野の姿を認めると、さらに目を丸くした。
「ああ、化野さん! 久しぶりだなあ!」
「なになに、こちらこそ。密記殿は、相変わらずお元気そうだ」
「いやなに、最近いいことがたくさんありましてなあ」
密記は、実に晴れやかな顔で笑う。
少し前まで、妓楼で泣き崩れていた男と同一人物とは思えないほど、その表情は明るい。
「それはいい。いいことは、多いに尽きる」
「本当にその通りだ。はっはっは!」
軽快な会話。
持ってきた話題は、それに似つかわしくない。
そして、密記がなんとなしに訊ねる。
「ところで、うちの子らと一緒に訪ねてくるだなんて、いったいどうしたんだ?」
偵記の顔が強ばる。
「ああ、それはねえ」
化野が会話のままの軽い調子で、口を開こうとした瞬間だった。
偵記が、一歩前へ出る。
そのまま化野の前へ立ち、自然な動作で密記との間へ身体を差し込んだ。
「おれから話す」
密記の笑みが、少しだけ薄れる。
息子の声音がいつもより低く、真面目なものに思えたためだろう。
「……わかった」
密記は静かに頷いた。
「じゃあ、部屋を変えようか」
そう言うと立ち上がり、書類を閉じる。
そして執務室を出ると、廊下を歩きながら、近くにいた局員へ声をかけた。
「悪いが、応接間へ茶を四つ頼む。それから、しばらく人払いをしておいてくれ」
「承知いたしました」
局員は即座に頭を下げる。
密記はさらに、
「だれも近づけなくていい。急ぎ以外は全部あとだ」
と付け加えた。
その声音には、暗号局長としての重さがあった。普段は柔らかい男だが、命令を出すときだけは、空気が変わる。
やがて、暗号局の応接間へ辿り着く。
洋式の部屋だった。板張りの床に赤茶色の絨毯が敷かれ、壁際には本棚と飾り棚が置かれている。
窓辺には重厚な深緑色のカーテンがかけられており、部屋の中央には、長椅子がふたつ。上座には、同じ材質の一人掛けの椅子が置かれていた。
「私は立ってるよ」
化野が気楽に言う。
しかし密記は、すぐに首を振った。
「いやいや、座りなさい。そんなところに立たれたまんまじゃあ、こっちが気を遣う」
その言葉に、化野が少しだけ目を細める。
おそらく密記は読んでいる。
化野がここへ来た時点で、この話は記乃だけでなく、化野自身も絡む重要事項なのだと。
結局、密記が上座の一人用椅子へ座り、向かいの長椅子へ偵記と記乃、そのさらに向かいへ化野が腰を下ろした。
しばらくして、局員が茶を運んでくる。
密記は自ら入口まで行き、盆を受け取った。
「ありがとう」
笑顔で礼を言う。局員は一礼し、静かに去っていった。
その背中を確認してから、密記は扉を閉める。 さらに、鍵まで掛けた。
かちり、という乾いた音が室内へ響く。
「さて」
密記は再び椅子へ腰掛けた。
「人払いも済んだぞ」
偵記は、一度息を吐いた。
ここから先は、言葉を間違えたくなかった。
だから、少しだけ沈黙してから、静かに切り出す。
「……法の抜け穴、見つけたぜ」
密記の目が、はっきり見開かれた。
「まだ、一週間しか経っていないぞ?」
本気で驚いている顔だった。
「……え、本当か?」
「探せっつったのは、あんただろ」
偵記がぶっきらぼうに返す。
密記は、呆気に取られたように瞬きを繰り返した。
おそらく、本当に見つけてくるとは思っていなかったのだ。
偵記は紙片を取り出し、机の上へ置く。
密記はそれを手に取り、真剣な顔で読み始めた。
室内が静まる。
紙を捲る音だけが、小さく響いた。
やがて──
「……っ、でかしたなあ!」
密記が、ぱっと顔を輝かせた。
「こんな制度があったのか!」
完全に喜んでいる。
だが、その横から、化野が気楽な口調で言った。
「でもそれ、完全に新しく独立した戸籍を作れるわけじゃないんですよ」
密記の動きが止まる。
「えっ」
「そう、親役は必要でしてね」
間抜けな声だった。
法周りに関しては、密記は案外ざっくりしている。
「だから、私が着いてきた」
化野がそう言った瞬間、密記は、はっと顔を上げた。
「その〝親役〟を、化野さんがやるってことか?」
「さっすが、柔軟な思考をお持ちだ。暗号局長の肩書きは伊達じゃない。実に、その通り」
「いやいや、しかし化野さんは、記乃の親と言うには若いでしょうに」
「私はこう見えて三十六ですよ。あ、今年で三十七」
「はっ!?」
密記が、本気で絶句した。
「そんなにいってたのか……」
化野が腹を抱えて笑う。
「あっははは! やだなあ、密記殿。女相手に、それ言っちゃ駄目だって!」
「父上、女性に対して、失礼です」
記乃が淡々と指摘した。
「ああ、すまない、化野さん」
「いやいや。おばさんなんですよ、もう。ああ、気持ちはまだまだ若いんですがね」
「でも、それなら確かに、親役としては問題ない年齢だなあ」
密記は、納得したように頷く。
すると化野は、今度は少しだけ真面目な声音になって、自分の過去について語り始めた。
華族の家に生まれたこと。
事情があって、年若いころに嫁いだこと。
子を産み、その子を病で失ったこと。
さらに夫も亡くし、いまは独りでいること。
室内の空気が、少し変わる。
化野は軽く話していが、その内容は、決して軽いものではなかった。
「……子を亡くしている方に、子ども役を作らせるのは」
密記が、複雑そうに眉を寄せた。
「親としては、少々、共感できませんなあ」
化野は、少しだけ肩を竦めた。
「私は記乃ちゃんを気に入っていてね。ちょうど、さっきも彼女が暑い蔵に籠ってるって医官から聞いて、心配で顔を出していたところですよ」
答えのようで、答えになっていない。
だが、記乃にはひとつ、思い当たる節があった。
化野は以前から、自分へ妙に構ってきた。
旅へ出ると言えば土産を寄越し、倒れれば見舞いに来る。悩み事を話せば、軽薄そうな顔をしながらも、最後まで聞いてくれた。
その積み重ねを思い返しながら、記乃は静かに口を開く。
「父上。私は、化野さんを母と思えるかはわかりません」
化野が、ちらりと記乃を見る。
「ですが、少なくとも、信頼できる大人だと考えています。思い返せば、いつも心配したり、教えを施してくれていましたから」
密記は、その言葉を聞いて、しばらく黙っていた。
偵記の目に映っている化野は、記乃の言葉の影響か、どこか満足気な表情に見える。
「……そうか」
小さく呟く。
一方、偵記は落ち着かなかった。
もしここで、父に拒否されたら?
また、一からだ。
あるかどうかもわからない抜け穴とやらを、再び探さなければならない。
そんな偵記を見たのか、密記は、ゆっくり化野へ視線を向けた。
「化野さんは、本心から承諾しているのか?」
「え? ああ、承諾もなにも──」
化野は、けろりとして言う。
「私から提案した話ですからねえ」
その一言に、密記は安堵の顔を見せた。
「……おれからも」
偵記が、静かに声を上げた。
「おれは最初、っていうか、さっきのことだけど。この人に会ったとき、怪しい人だと思った」
「おや、率直」
「けど」
偵記は、記乃をちらりと見る。
「用心深いこいつが、怪しいやつに懐くわけねえ」
記乃が少しだけ目を瞬かせる。
「こいつがここまで懐く大人なら、頭下げて頼みたいと思ってる。だから……」
言葉が少しずつ早くなる。
正直、焦っていた。
密記は、それを見て、苦笑する。
「わかった、わかった」
静かに宥めるような声だった。
「わかったから、そんなに焦って話さなくていい。落ち着きなさい」
そして改めて、密記は化野の方へ身体を向けた。
深く、頭を下げる。
「うちの娘を、よろしくお願いいたします」
それに続いて、偵記と記乃も頭を下げた。
すると、化野が珍しく露骨に焦った。
「や、やだなあ! そんなことしてもらいたくて提案したんじゃないからさ!」
慌てて手を振る。
「頭上げてよ、三人とも!」
その様子を見て、記乃は少しだけ驚いた。
化野がここまで取り乱すのは、珍しい。
「と、とにかく!」
化野は、咳払いして仕切り直す。
「これから詰めるべき点がある」
三人が顔を上げる。
化野は指を立てた。
「一。記乃ちゃんを、私とだれの間の子ということにするのか」
さらに、二本目。
「二。どれくらいの期間、私の子として扱うべきか。つまり、怪しまれないように婚姻までの期間を空ける必要がある。その塩梅だね」
そして、三本目。
「最後に。密記殿と記乃ちゃんの間に血縁関係がないって証拠を用意しなきゃいけない」
「証拠はある」
偵記が即座に答える。
「遺伝子検査の結果用紙だ」
「ふむ。なら、それについては問題なし」
化野は頷いた。
室内へ、再び沈黙が落ちる。
だが、今度の沈黙は重苦しいものではない。
むしろ、なにかが動き始める前の静けさだった。
「あとは……」
密記が呟く。
そして四人は、これから先のことを話し合い始めた。
戸籍、証言、期間などの辻褄。
そして、制度の利用について。
法の隙間を縫うように、ひとが集って未来を作ろうとしている。
窓の外では、夏の終わりを知らない蝉が、まだ激しく鳴き続けていた。




