第十二話 法の抜け穴《後編》
人間は、不確定な希望ほど扱いづらいと感じるものだ。
絶望ならば、まだ整理ができる。諦めるという形で、感情に終わりを与えられるからだ。
だが、「もしかしたら」という可能性だけは違う。
それは、人間の心へ妙に熱を残す。
期待してはいけないと思うほど、胸の奥で勝手に膨らみ続ける。
そして厄介なことに、人間は、ときにその熱を隠したまま平静を装わなければならない。
官僚という立場にあるならば、なおさらのことだった。
結城偵記は、外交局の棟から出たあと、ほとんど早足と言ってもいい速さで、官付内の廊下を進んでいた。
手には、まとめたばかりの紙片。
指先には汗が滲んでいる。
汗の原因は、今日ばかりは、真夏の熱気のせいだけでなかった。
(落ち着け)
まだ確定したわけではない。これは、あくまで制度上の可能性だ。
(……それでも、通る可能性はある)
そう考えた瞬間、胸の内側が熱くなる。
記乃と、自分。
戸籍という、たった一枚の紙に阻まれていたものを、もし、本当に動かせるのだとしたら──
偵記は、小さく舌打ちした。
浮かれるな。まだ早い。
まして、記乃相手に、不確定な話を嬉々として持ち込むなんて論外だ。
あいつは、曖昧な情報を嫌う。
よく知っているはずだろ。
可能性だけで期待させるようなことは、本来ならしたくない。
それでも、足は自然と速くなる。
記乃がいるとすれば、記録蔵だろう。
あいつは、紙と記録が積まれている場所へ、吸い寄せられるように向かう。
真夏だろうが、睡眠不足だろうが、そんなことは関係ない。
加えて、集中すると周囲の環境を忘れる悪癖がある。
(……倒れてなきゃいいが)
そう思ったころには、記録蔵の前へ着いていた。
偵記は、眉を寄せた。
蔵の扉が閉まっていたためだ。
夏の蔵は言わずもがな暑く、普通なら、少しは換気をする。
「……あいつ、まさか」
偵記は、嫌な予感を覚えながら扉へ手をかけた。
ぎ、と重い音を立てて扉が開く。
途端、むわりとした熱気が顔へぶつかった。
「うわっ……」
思わず声が漏れる。
蔵の中は蒸し風呂のようだった。
内部の空間が熱を抱え込み、空気そのものが重く淀んでいる。
薄暗い室内の奥。
積み上げられた書物の間で、記乃が机へ向かっていた。
「おまえ、こんな暑いのに扉閉めるやつがあるか!」
「あ」
ようやくこちらへ気づいたらしい。
記乃は顔を上げた。
額には汗が滲んでいる。頬も少し赤い。
明らかに暑さを感じているにもかかわらず、無理にこの場に留まっているかのように見える。
「あっつ……おまえなあ、こんなところに籠ってたら倒れるぞ」
「書物だらけの蔵に、光を入れ続けるわけにはいかないので」
「はあ……」
理屈はわかる。
わかるが、極端すぎる。
偵記が呆れていると、不意に、別方向から気怠げな声が落ちた。
「おーい。仲良さそうなのは結構だけど、記乃ちゃん取られたら妬けるんだけどー」
偵記は、ぴたりと動きを止めた。
声の方向に視線を向ける。
すると、記乃の少し後ろ。
床へござを敷き、その上でぐったり寝転がっている女がいた。
長い髪を派手な簪でまとめているが、暑さにやられているのか、着崩した和装の袖でぱたぱたと顔に向けて風を送っている。
初対面だった。
偵記は率直に思う。
(なんだこの女)
記乃が、短く説明する。
「ああ。この方は、知り合いの民俗学者です」
「ここには新聞記者として来てるんだけどねえ」
女は、けらけら笑った。
しかし記乃は、淡々と返す。
「記事より小説にされていることの方が、余程多い気がしますが」
「いやあ、創作意欲って止まらなくってさあ」
偵記は、内心で眉を寄せた。
新聞記者。民俗学者。さらに、どうやら作家でもあるらしい。
肩書きが多すぎる。
というか、いで立ちからして怪しさしかない。
「君、記乃ちゃんのお兄さん?」
まだ名乗ってもいないのに、女は当然のようにそう言った。
偵記は、少しだけ警戒を強めた。
「……おう」
「そっか。ふうん」
女は、じっと偵記を見る。
観察されている。
そんな感覚があった。
「あ、名乗り遅れたね」
女は、寝転がったまま手を振った。
「私は化野幽。面白いものを書く人って認識しておいてくれればいいよ」
(余計わかんねえ)
偵記は、率直にそう思った。
そして小声で記乃へ訊ねる。
「……事実か?」
「事実です」
即答だった。
ならば、そうなのだろう。
記乃は余計な嘘などつかない。
「こいつと、どういう関係だ」
「え? うーん……恩人?」
化野が勝手に答える。
「そこまでの認識ではありません」
「じゃあ、助っ人」
「ああ。それくらいです」
化野は、けらけら笑った。
とりあえず、そこそこ親しい人間なのだろうということは理解できる。
この蒸し暑い蔵に、平然と一緒に籠もっている時点で、充分異常だった。
「それで、どうしたんですか」
記乃が言う。
「急いでいるように見えます」
「ああ、いや……ここじゃ、ちょっと」
偵記は言葉を濁した。
しかし記乃は、ほとんど迷わず答える。
「ここで大丈夫だと思います」
(……この女、どこまで知ってんだ)
偵記が警戒すると、化野は吹き出した。
「あははっ! だってさ? お兄さん」
「まず、扉を閉めてください」
記乃が真顔で言う。
「光や虫が入ると困ります」
「……本気で言ってんのか?」
「私は冗談が得意じゃありません」
「それは知ってる」
偵記は、諦めて扉を閉めた。
途端に、蔵の熱気が完全に密閉される。
「っ、あっつ……!」
「そりゃ、夏ですし。暑いですよ」
「平気そうに言ってんじゃねえ」
しかし、その蒸し暑さにも関わらず、化野は記乃のそばに居続けている。
つまり、この女は、本当に記乃と親しいのだろう。
偵記は、少しだけ警戒を下げた。
ひとまず、持ってきた紙片を机へ置く。
「……これ」
記乃が目を落とす。
その横から、化野も覗き込んだ。
「へえ」
にやり、と笑う。
「ふーん」
(……なんだこいつ)
「一応確認なんだけど」
化野は、偵記を見た。
「血縁はないんだよね? 記乃ちゃんが拾われてきた子、ってことは」
「ああ。そうなる」
「なるほどねえ」
化野は、面白そうに目を細めた。
完全に理解した顔だった。
以前、記乃が相談していた相手は、この兄である。
そして、この兄は記乃を好いている。
その情報を、一瞬で読み取ったのだろう。
なんだか嫌な女だ、と偵記は思った。
同時に、頭は切れるとも感じる。
「これさ」
化野が、紙片を指先で叩く。
「戸籍変えられますよって言っても、新しく作ることはできないはずだよ」
「え……」
偵記の胸が、一瞬で冷えた。
確かに。
そこまでは、まだ詰め切れていない。
訂正はできる。
だが、そのあと記乃を、どこの戸籍へ入れるのか。
よくよく考えてみれば、新しく戸籍を作れるかどうかは、また別の話になってくるだろう。
「……だよな」
偵記は、小さく吐き出した。
やはり現実は甘くない。
しかし──
化野は、予想外のことを言った。
「あ、じゃあさ、じゃあさ。私の子ってことにしちゃえば?」
沈黙が落ちた。
記乃ですら、珍しく目を見開いている。
「……いや」
偵記は、ゆっくり言う。
「たしかに、実母が違うって話を作りゃ可能だろうけどよ」
「うん」
「あんたが、そんなことする義理ねえだろ」
「ないよ?」
「じゃあ」
「でも、面白そうだし」
「面白いって……」
化野は、ころころ笑った。
「私なら母親でもおかしくない年齢だし。それに、記乃ちゃんが娘になったら、毎日楽しそうじゃん」
年齢については、たしかにそうだ。
化野は見た目こそ若いが、年齢を聞けば不自然ではない。
「でも」
「下手に助平爺がいるかもしれない家にもらわれて、一瞬で傷物にされるよりも、よっぽどいいと思うけど?」
その瞬間だけ、化野の声音から笑いが消えた。
偵記は、わずかに目を細める。
この女の過去になにがあるのだろう。
そう考えたとき、化野が自ら話し出した。
「私ね」
化野は、天井を見ながら言った。
「幼いころに嫁がされたんだ」
軽い口調だった。
だが、軽く流していい内容ではなかった。
「ああ、いまの記乃ちゃんより若いころに、子どもも産んだよ。でも病気で死んじゃった。旦那も、そのあとすぐ死んだし。だから、いまは独り身」
記乃が、静かに化野を見ている。
おそらく、この話を初めて聞いたわけではない。
「それに」
化野は、にやりと笑った。
「化野の家は、一応華族だからねえ。結城家と縁談が生まれたって、ちゃんと釣り合いが取れるよ」
あまりにも、都合がよすぎる話だった。
偵記は、簡単には信じられなかった。
それでも、藁にも縋りたい気持ちが、たしかにある。
「……記乃が、嫌かどうかで決める」
結局、そこへ戻る。
偵記にとって、基準はずっと同じだった。
記乃がどう思うか。
それだけだ。
蔵の中へ、沈黙が落ちる。
熱気が重い。
汗が、首筋を流れる。
しばらく考え込んでいた記乃は、やがて静かに口を開いた。
「……あの」
偵記は、覚悟した。
記乃は真顔で、言った。
「化野記乃って名前、音にしたときに違和感がありませんか?」
一拍。
そして。
「あっはっはっは!」
化野が腹を抱えて笑い始めた。
「そうきたかあ!」
「……待て」
偵記は、思わず言う。
「問題はそれだけじゃ……」
「それくらいだと思います」
記乃は、淡々と答えた。
化野は、まだ笑っている。
「じゃあ決定だねえ」
面白くなってきた、と、心底楽しそうに言った。
偵記は、頭を抱えたくなった。
「君たちのお父上、密記さんにも話さなきゃ」
「そうですね」
ただひたすらに法の抜け穴を探していたはずが、気づけば肩書きが多すぎるおかしな女が、記乃の母親候補になっている。
まったくもって、意味が分からない。
それでも、止まっていたものが、少しずつ動き始めている感覚はあった。




