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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第三章 定義解体篇
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第十二話 法の抜け穴《後編》

 人間は、不確定な希望ほど扱いづらいと感じるものだ。


 絶望ならば、まだ整理ができる。諦めるという形で、感情に終わりを与えられるからだ。


 だが、「もしかしたら」という可能性だけは違う。

 それは、人間の心へ妙に熱を残す。

 期待してはいけないと思うほど、胸の奥で勝手に膨らみ続ける。


 そして厄介なことに、人間は、ときにその熱を隠したまま平静を装わなければならない。


 官僚という立場にあるならば、なおさらのことだった。

 結城偵記は、外交局の棟から出たあと、ほとんど早足と言ってもいい速さで、官付内の廊下を進んでいた。

 手には、まとめたばかりの紙片(メモ)

 指先には汗が滲んでいる。

 汗の原因は、今日ばかりは、真夏の熱気のせいだけでなかった。


(落ち着け)


 まだ確定したわけではない。これは、あくまで制度上の可能性だ。


(……それでも、通る可能性はある)


 そう考えた瞬間、胸の内側が熱くなる。


 記乃と、自分。

 戸籍という、たった一枚の紙に阻まれていたものを、もし、本当に動かせるのだとしたら──


 偵記は、小さく舌打ちした。


 浮かれるな。まだ早い。

 まして、記乃相手に、不確定な話を嬉々として持ち込むなんて論外だ。

 あいつは、曖昧な情報を嫌う。

 よく知っているはずだろ。

 可能性だけで期待させるようなことは、本来ならしたくない。


 それでも、足は自然と速くなる。

 記乃がいるとすれば、記録蔵だろう。


 あいつは、紙と記録が積まれている場所へ、吸い寄せられるように向かう。

 真夏だろうが、睡眠不足だろうが、そんなことは関係ない。

 加えて、集中すると周囲の環境を忘れる悪癖がある。


(……倒れてなきゃいいが)


 そう思ったころには、記録蔵の前へ着いていた。


 偵記は、眉を寄せた。

 蔵の扉が閉まっていたためだ。

 夏の蔵は言わずもがな暑く、普通なら、少しは換気をする。


「……あいつ、まさか」


 偵記は、嫌な予感を覚えながら扉へ手をかけた。

 ぎ、と重い音を立てて扉が開く。

 途端、むわりとした熱気が顔へぶつかった。


「うわっ……」


 思わず声が漏れる。

 蔵の中は蒸し風呂のようだった。

 内部の空間が熱を抱え込み、空気そのものが重く淀んでいる。


 薄暗い室内の奥。

 積み上げられた書物の間で、記乃が机へ向かっていた。


「おまえ、こんな暑いのに扉閉めるやつがあるか!」

「あ」


 ようやくこちらへ気づいたらしい。

 記乃は顔を上げた。

 額には汗が滲んでいる。頬も少し赤い。

 明らかに暑さを感じているにもかかわらず、無理にこの場に留まっているかのように見える。


「あっつ……おまえなあ、こんなところに籠ってたら倒れるぞ」

「書物だらけの蔵に、光を入れ続けるわけにはいかないので」

「はあ……」


 理屈はわかる。

 わかるが、極端すぎる。


 偵記が呆れていると、不意に、別方向から気怠げな声が落ちた。


「おーい。仲良さそうなのは結構だけど、記乃ちゃん取られたら妬けるんだけどー」


 偵記は、ぴたりと動きを止めた。


 声の方向に視線を向ける。

 すると、記乃の少し後ろ。

 床へござを敷き、その上でぐったり寝転がっている女がいた。

 長い髪を派手な簪でまとめているが、暑さにやられているのか、着崩した和装の袖でぱたぱたと顔に向けて風を送っている。


 初対面だった。

 偵記は率直に思う。


(なんだこの女)


 記乃が、短く説明する。


「ああ。この方は、知り合いの民俗学者です」

「ここには新聞記者として来てるんだけどねえ」


 女は、けらけら笑った。

 しかし記乃は、淡々と返す。


「記事より小説にされていることの方が、余程多い気がしますが」

「いやあ、創作意欲って止まらなくってさあ」


 偵記は、内心で眉を寄せた。

 新聞記者。民俗学者。さらに、どうやら作家でもあるらしい。

 肩書きが多すぎる。


 というか、いで立ちからして怪しさしかない。


「君、記乃ちゃんのお兄さん?」


 まだ名乗ってもいないのに、女は当然のようにそう言った。

 偵記は、少しだけ警戒を強めた。


「……おう」

「そっか。ふうん」


 女は、じっと偵記を見る。

 観察されている。

 そんな感覚があった。


「あ、名乗り遅れたね」


 女は、寝転がったまま手を振った。


「私は化野(あだしの)(かすか)。面白いものを書く人って認識しておいてくれればいいよ」


(余計わかんねえ)


 偵記は、率直にそう思った。

 そして小声で記乃へ訊ねる。


「……事実か?」

「事実です」


 即答だった。

 ならば、そうなのだろう。

 記乃は余計な嘘などつかない。


「こいつと、どういう関係だ」

「え? うーん……恩人?」


 化野が勝手に答える。


「そこまでの認識ではありません」

「じゃあ、助っ人」

「ああ。それくらいです」


 化野は、けらけら笑った。

 とりあえず、そこそこ親しい人間なのだろうということは理解できる。

 この蒸し暑い蔵に、平然と一緒に籠もっている時点で、充分異常だった。


「それで、どうしたんですか」


 記乃が言う。


「急いでいるように見えます」

「ああ、いや……ここじゃ、ちょっと」


 偵記は言葉を濁した。

 しかし記乃は、ほとんど迷わず答える。


「ここで大丈夫だと思います」


(……この女、どこまで知ってんだ)


 偵記が警戒すると、化野は吹き出した。


「あははっ! だってさ? お兄さん」

「まず、扉を閉めてください」


 記乃が真顔で言う。


「光や虫が入ると困ります」

「……本気で言ってんのか?」

「私は冗談が得意じゃありません」

「それは知ってる」


 偵記は、諦めて扉を閉めた。

 途端に、蔵の熱気が完全に密閉される。


「っ、あっつ……!」

「そりゃ、夏ですし。暑いですよ」

「平気そうに言ってんじゃねえ」


 しかし、その蒸し暑さにも関わらず、化野は記乃のそばに居続けている。

 つまり、この女は、本当に記乃と親しいのだろう。


 偵記は、少しだけ警戒を下げた。

 ひとまず、持ってきた紙片を机へ置く。


「……これ」


 記乃が目を落とす。

 その横から、化野も覗き込んだ。


「へえ」


 にやり、と笑う。


「ふーん」


(……なんだこいつ)


「一応確認なんだけど」


 化野は、偵記を見た。


「血縁はないんだよね? 記乃ちゃんが拾われてきた子、ってことは」

「ああ。そうなる」

「なるほどねえ」


 化野は、面白そうに目を細めた。

 完全に理解した顔だった。


 以前、記乃が相談していた相手は、この兄である。

 そして、この兄は記乃を好いている。

 その情報を、一瞬で読み取ったのだろう。


 なんだか嫌な女だ、と偵記は思った。

 同時に、頭は切れるとも感じる。


「これさ」


 化野が、紙片を指先で叩く。


「戸籍変えられますよって言っても、新しく作ることはできないはずだよ」

「え……」


 偵記の胸が、一瞬で冷えた。

 確かに。

 そこまでは、まだ詰め切れていない。


 訂正はできる。

 だが、そのあと記乃を、どこの戸籍へ入れるのか。

 よくよく考えてみれば、新しく戸籍を作れるかどうかは、また別の話になってくるだろう。


「……だよな」


 偵記は、小さく吐き出した。

 やはり現実は甘くない。


 しかし──

 化野は、予想外のことを言った。


「あ、じゃあさ、じゃあさ。私の子ってことにしちゃえば?」


 沈黙が落ちた。

 記乃ですら、珍しく目を見開いている。


「……いや」


 偵記は、ゆっくり言う。


「たしかに、実母が違うって話を作りゃ可能だろうけどよ」

「うん」

「あんたが、そんなことする義理ねえだろ」

「ないよ?」

「じゃあ」

「でも、面白そうだし」

「面白いって……」


 化野は、ころころ笑った。


「私なら母親でもおかしくない年齢だし。それに、記乃ちゃんが娘になったら、毎日楽しそうじゃん」


 年齢については、たしかにそうだ。

 化野は見た目こそ若いが、年齢を聞けば不自然ではない。


「でも」

「下手に助平(すけべ)(じじい)がいるかもしれない家にもらわれて、一瞬で傷物にされるよりも、よっぽどいいと思うけど?」


 その瞬間だけ、化野の声音から笑いが消えた。

 偵記は、わずかに目を細める。


 この女の過去になにがあるのだろう。

 そう考えたとき、化野が自ら話し出した。


「私ね」


 化野は、天井を見ながら言った。


「幼いころに嫁がされたんだ」


 軽い口調だった。

 だが、軽く流していい内容ではなかった。


「ああ、いまの記乃ちゃんより若いころに、子どもも産んだよ。でも病気で死んじゃった。旦那も、そのあとすぐ死んだし。だから、いまは独り身」


 記乃が、静かに化野を見ている。

 おそらく、この話を初めて聞いたわけではない。


「それに」


 化野は、にやりと笑った。


「化野の家は、一応華族だからねえ。結城家と縁談が生まれたって、ちゃんと釣り合いが取れるよ」


 あまりにも、都合がよすぎる話だった。

 偵記は、簡単には信じられなかった。


 それでも、藁にも縋りたい気持ちが、たしかにある。


「……記乃が、嫌かどうかで決める」


 結局、そこへ戻る。


 偵記にとって、基準はずっと同じだった。

 記乃がどう思うか。

 それだけだ。


 蔵の中へ、沈黙が落ちる。

 熱気が重い。

 汗が、首筋を流れる。


 しばらく考え込んでいた記乃は、やがて静かに口を開いた。


「……あの」


 偵記は、覚悟した。

 記乃は真顔で、言った。


化野(あだしの)記乃(きの)って名前、音にしたときに違和感がありませんか?」


 一拍。

 そして。


「あっはっはっは!」


 化野が腹を抱えて笑い始めた。


「そうきたかあ!」

「……待て」


 偵記は、思わず言う。


「問題はそれだけじゃ……」

「それくらいだと思います」


 記乃は、淡々と答えた。

 化野は、まだ笑っている。


「じゃあ決定だねえ」


 面白くなってきた、と、心底楽しそうに言った。

 偵記は、頭を抱えたくなった。


「君たちのお父上、密記さんにも話さなきゃ」

「そうですね」


 ただひたすらに法の抜け穴を探していたはずが、気づけば肩書きが多すぎるおかしな女が、記乃の母親候補になっている。

 まったくもって、意味が分からない。


 それでも、止まっていたものが、少しずつ動き始めている感覚はあった。


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