第十二話 法の抜け穴《前編》
法というものは本来、人間の営みを整理するために存在している。
血縁、婚姻、相続、戸籍。
それらは個人の感情とは別の場所で、だれがだれの子であり、だれとだれが夫婦となり、どの家に属し、どの責任を負うのかを決める。
だが、人間の関係というものは、法が想定しているほど単純ではない。
拾われた子どもが娘となり、血の繋がらない兄妹が家族となり、家族として過ごした時間の中で、別の感情が育ってしまうこともある。
そして、そうした関係は、ときに、法の線の上で立ち往生する。
(やるからには、徹底的にやってやる)
結城偵記は、暗号局の一角で、積み上げられた資料を前にしていた。
外は暑く、真夏日と呼ぶに相応しい日だった。
開け放した窓から入る風は、風と呼ぶにはあまりにも重く、紙の端を持ち上げる力すらない。
室内には乾いた墨の匂いと、古い書類特有の埃っぽさが沈んでいる。
普段なら、偵記は必要な報告書を必要最低限で済ませ、余計な文章など書かない。
むしろ、冗長な説明は嫌いだった。
しかし、いま机の上に広げられている紙片には、いつもの雑な筆致からは想像できないほど細かい字が並んでいた。
婚姻法。
戸籍法。
養子縁組。
親等計算。
どれも、偵記が本来なら好んで読むものではない。
それでも、読まなければならなかった。
戸籍上は父の実子となっている記乃と、自分が結ばれてもよいとされる理由を探す。
そんなもの、通常の兄妹であれば考えもしない、馬鹿げたことだ。
だが、我が家の場合は普通とは違う。
記乃とおれは、血が繋がっていない。
おれはその前提のもとに生きてきて、記乃との十八年という時間のほとんどを、恋という感情を抱き続けてきた。
そして、いま、記乃が望むなら──
(……待ってろ)
その一点だけで、偵記に迷うことをやめた。
──────────
ことの発端は、あの夜だった。
記子が、何食わぬ顔で放り込んだ一言によって、偵記の恋情は、父である密記にまで完全に露見した。
あの瞬間、偵記は本気で終わった、と思った。
父は驚き、怒り、あるいは困惑し、少なくとも一悶着は起きるだろうと予測した。
ところが、実際の密記の反応は、偵記の想定から大きく外れていた。
「えっ……血が繋がっていないのに、結婚できないのか……!?」
密記は、心底から驚いた顔でそう言った。
偵記は、酒を噴き出した直後の喉の痛みを抱えたまま、父親の顔を見た。
「……いや、なんでそうなるんだよ」
「だって、血が繋がっていないんだぞ?」
密記は真顔だった。
冗談ではない。
本気で考えている顔だった。
「それなら、初めから俺ではなく親戚に養子に出していれば……いや、そうなると俺の娘ではなくなっていたし……それはそれで、うーん……嫌だなあ……」
「なにを本気で悩んでんだ、あんた」
「血が繋がっていないって前提があったんだから、お前にとっては歳の近い女の子だったってことだろう?」
密記は、やけに理解の早い顔で頷いた。
「なんだ、まったく。父さんに言ってくれればよかったのに」
「言えるわけねえだろ!」
偵記は、頭を抱えた。
さすが暗号局の局長と言うべきか。
読解力と理解力が、変な方向に高すぎる。
しかも、怒るどころか、納得している。
納得されても、こちらとしては困る。
「そうだ」
密記は、ぽんと手を打った。
「偵記、お前、官付に帰ったら司法について調べなさい」
「は?」
「法の抜け穴を探せばいいじゃないか」
「仮にも高級官僚だろ、あんた……いいのかよ、そんなこと言っちまって」
「ここは自分の家だ。なにを言ってもお偉方には届かないさ。ははは! それになあ、自分の手で掴んだ勝利の後の酒がな、これが美味いんだ」
父は、すっかり以前のように明るくなっていた。
妓楼で桔梗の真実を聞き、泣き、崩れた男と同じ人物とは思えないほど前向きな笑顔だった。
偵記はその明るさに、少しだけ救われた。
同時に、ものすごく疲れた。
「そもそも、おれだけの問題じゃねえんだ」
偵記は、低く言った。
「父上も記子も、少しは記乃の気持ちを……」
「私の小さいころの夢は、兄さんのお嫁さんになることでしたよ」
静かな声が、横から差し込んだ。
記乃だった。
偵記は、手に持っていた杯を落としかけた。
「……いや、それ、小さいころの話だろ。そんなの、よくある話だろうが」
「いえ」
記乃は、真面目な顔で偵記をその視線に捕らえた。
「最近また、目指そうかと思っていたところです」
その日、偵記は二度目の酒を噴き出した。
記子は「やっぱりね」と言い、密記は笑顔のまま感心している。
そして記乃は、なぜ偵記がそれほど動揺しているのか分からないといった顔で、畳に落としてしまった徳利の位置を確認していた。
あまりにも奇妙な空間だった。
当の偵記以外が、すべて肯定的。
むしろ、一番動揺しているのは、恋慕を抱いていたはずの偵記本人である。
その夜の酒は、まったく美味くなかった。
──────────
そして、現在。
偵記は、山のような資料と向き合っていた。
(記乃が望むなら)
その一点だけが、偵記を動かしている。
あいつが、本気で嫌がっているなら、絶対に手なんか出さない。
自分の感情など、いくらでも押し殺してやる。
だが、記乃は拒まなかった。
あの日も、そしてあの夜も。
さらに、最近また目指そうかと思っていた、などと、あまりにも淡々と言い放った。
あれを冗談と受け取るほど、偵記は鈍くない。
そもそも記乃は、冗談が得意な方ではない。
あいつは、そういう女だ。
(なら、やるしかねえだろ)
偵記は、筆を取り直した。
忙しい合間を縫って、国の法律と、現在挙がっている法案を調べ続けた。
単純に養子に出せばいいのではないか、という案はすぐに潰れた。
戸籍上、父の実子として登録された記乃を、いまさらどこかへ養子に出したところで、過去の親族関係が消えるわけではない。
自分と三親等以内であると見なされれば、絶対に婚姻は認められない。
では、戸籍そのものを修正できるのか。
通常なら、ほとんど不可能に近い。
だが、幸運なことに、今回は〝通常〟ではない。
──去年、軍部と警察周辺で導入されたばかりの遺伝子検査に関する扱い。
遺伝子検査という新しい技術が入ってきたことで、戸籍制度は一部、揺らぎ始めている。
偵記は、そこへ目をつけた。
七日七晩。
仕事をこなしながら、夜は資料を読み、朝は眠気を押し殺して文書を漁った。
そして、ついに見つけた。
去年導入されたばかりの、遺伝子検査の普及に伴う不義の子の戸籍訂正に関する暫定規定。
制度自体はまだ広く知られていない。
扱いも複雑で、適用例も少ない。
だが、その規定には、たしかにこうあった。
親子関係が科学的検査によって否定された場合、一度に限り、戸籍上の親子関係を訂正できる。
(これだ)
偵記は、思わず紙へ筆を走らせた。
いつもの雑な報告書とは比べものにならないほど丁寧な字で、条件を書き出していく。
──遺伝子検査により、父子関係否定。
──一度に限り、戸籍訂正可。
──実母側の証明が必要。
──新たな親権者または引受先の明示。
──本人同意。
筆先が止まる。
最後の条件が、重い。
本人同意──
仮に記乃が嫌がれば、そこで終わる。
逆に言えば、記乃が受け入れるなら、道はある。
偵記は、書き留めた紙片を手に取った。
記乃に見せるべきか。
不確定な情報を、嬉々として報告するのはよくない。まして、記乃は曖昧な話を嫌う。
だが、それでも。
これは、可能性だった。
偵記は立ち上がる。
椅子が軋む。
額には汗が滲んでいた。
室内は暑い。
それでも、胸の内側だけは、妙に冷えている。
下手に期待してはいけない。まだ決まったわけではないのだ。
そう自分に言い聞かせる。
それでも足は、自然と速くなった。
記乃がいるとすれば、記録蔵だろう。
あの女は、どれだけ暑くても、紙と記録が集まる場所へ向かう。
偵記は紙片を握りしめ、暗号局の棟を出た。
廊下には、真夏の光が差し込んでおり、眩しさに目を細めながら歩く。
自分でも馬鹿げていると思う。
法の抜け穴を探しているだなんて。
父も妹も、妙に前向きだ。
記乃本人も、こちらを拒まない。
拒めないのではなく、拒まないのだ。
だからこそ──
(掴めるなら、掴む)
偵記は、紙片を握る手へ力を込めた。
勝利の後の酒が美味いかどうかは、まだ分からない。
だが、もし本当にこの線を通せたなら。
そのときはきっと、これまで飲んだどの酒よりも、喉に熱く沁みる気がした。




