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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第三章 定義解体篇
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第十二話 法の抜け穴《前編》

 法というものは本来、人間の営みを整理するために存在している。


 血縁、婚姻、相続、戸籍。

 それらは個人の感情とは別の場所で、だれがだれの子であり、だれとだれが夫婦となり、どの家に属し、どの責任を負うのかを決める。


 だが、人間の関係というものは、法が想定しているほど単純ではない。


 拾われた子どもが娘となり、血の繋がらない兄妹が家族となり、家族として過ごした時間の中で、別の感情が育ってしまうこともある。

 そして、そうした関係は、ときに、法の線の上で立ち往生する。


(やるからには、徹底的にやってやる)


 結城偵記は、暗号局の一角で、積み上げられた資料を前にしていた。


 外は暑く、真夏日と呼ぶに相応しい日だった。

 開け放した窓から入る風は、風と呼ぶにはあまりにも重く、紙の端を持ち上げる力すらない。

 室内には乾いた墨の匂いと、古い書類特有の埃っぽさが沈んでいる。


 普段なら、偵記は必要な報告書を必要最低限で済ませ、余計な文章など書かない。

 むしろ、冗長な説明は嫌いだった。

 しかし、いま机の上に広げられている紙片には、いつもの雑な筆致からは想像できないほど細かい字が並んでいた。


 婚姻法。

 戸籍法。

 養子縁組。

 親等計算。

 どれも、偵記が本来なら好んで読むものではない。


 それでも、読まなければならなかった。

 戸籍上は父の実子となっている記乃と、自分が結ばれてもよいとされる理由を探す。


 そんなもの、通常の兄妹であれば考えもしない、馬鹿げたことだ。


 だが、我が家の場合は普通とは違う。

 記乃とおれは、血が繋がっていない。

 おれはその前提のもとに生きてきて、記乃との十八年という時間のほとんどを、恋という感情を抱き続けてきた。


 そして、いま、記乃が望むなら──


(……待ってろ)


 その一点だけで、偵記に迷うことをやめた。



──────────



 ことの発端は、あの夜だった。


 記子(ふみこ)が、何食わぬ顔で放り込んだ一言によって、偵記の恋情は、父である密記にまで完全に露見した。


 あの瞬間、偵記は本気で終わった、と思った。

 父は驚き、怒り、あるいは困惑し、少なくとも一悶着は起きるだろうと予測した。


 ところが、実際の密記の反応は、偵記の想定から大きく外れていた。


「えっ……血が繋がっていないのに、結婚できないのか……!?」


 密記は、心底から驚いた顔でそう言った。

 偵記は、酒を噴き出した直後の喉の痛みを抱えたまま、父親の顔を見た。


「……いや、なんでそうなるんだよ」

「だって、血が繋がっていないんだぞ?」


 密記は真顔だった。

 冗談ではない。

 本気で考えている顔だった。


「それなら、初めから俺ではなく親戚に養子に出していれば……いや、そうなると俺の娘ではなくなっていたし……それはそれで、うーん……嫌だなあ……」

「なにを本気で悩んでんだ、あんた」

「血が繋がっていないって前提があったんだから、お前にとっては歳の近い女の子だったってことだろう?」


 密記は、やけに理解の早い顔で頷いた。


「なんだ、まったく。父さんに言ってくれればよかったのに」

「言えるわけねえだろ!」


 偵記は、頭を抱えた。

 さすが暗号局の局長と言うべきか。

 読解力と理解力が、変な方向に高すぎる。


 しかも、怒るどころか、納得している。

 納得されても、こちらとしては困る。


「そうだ」


 密記は、ぽんと手を打った。


「偵記、お前、官付に帰ったら司法について調べなさい」

「は?」

「法の抜け穴を探せばいいじゃないか」

「仮にも高級官僚だろ、あんた……いいのかよ、そんなこと言っちまって」

「ここは自分の家だ。なにを言ってもお偉方には届かないさ。ははは! それになあ、自分の手で掴んだ勝利の後の酒がな、これが美味いんだ」


 父は、すっかり以前のように明るくなっていた。

 妓楼で桔梗の真実を聞き、泣き、崩れた男と同じ人物とは思えないほど前向きな笑顔だった。


 偵記はその明るさに、少しだけ救われた。

 同時に、ものすごく疲れた。


「そもそも、おれだけの問題じゃねえんだ」


 偵記は、低く言った。


「父上も記子も、少しは記乃の気持ちを……」

「私の小さいころの夢は、兄さんのお嫁さんになることでしたよ」


 静かな声が、横から差し込んだ。

 記乃だった。

 偵記は、手に持っていた杯を落としかけた。


「……いや、それ、小さいころの話だろ。そんなの、よくある話だろうが」

「いえ」


 記乃は、真面目な顔で偵記をその視線に捕らえた。


「最近また、目指そうかと思っていたところです」


 その日、偵記は二度目の酒を噴き出した。


 記子は「やっぱりね」と言い、密記は笑顔のまま感心している。

 そして記乃は、なぜ偵記がそれほど動揺しているのか分からないといった顔で、畳に落としてしまった徳利の位置を確認していた。


 あまりにも奇妙な空間だった。

 当の偵記以外が、すべて肯定的。


 むしろ、一番動揺しているのは、恋慕を抱いていたはずの偵記本人である。


 その夜の酒は、まったく美味くなかった。



──────────



 そして、現在。

 偵記は、山のような資料と向き合っていた。


(記乃が望むなら)


 その一点だけが、偵記を動かしている。

 あいつが、本気で嫌がっているなら、絶対に手なんか出さない。

 自分の感情など、いくらでも押し殺してやる。


 だが、記乃は拒まなかった。

 あの日も、そしてあの夜も。

 さらに、最近また目指そうかと思っていた、などと、あまりにも淡々と言い放った。

 あれを冗談と受け取るほど、偵記は鈍くない。


 そもそも記乃は、冗談が得意な方ではない。

 あいつは、そういう女だ。


(なら、やるしかねえだろ)


 偵記は、筆を取り直した。

 忙しい合間を縫って、国の法律と、現在挙がっている法案を調べ続けた。


 単純に養子に出せばいいのではないか、という案はすぐに潰れた。

 戸籍上、父の実子として登録された記乃を、いまさらどこかへ養子に出したところで、過去の親族関係が消えるわけではない。

 自分と三親等以内であると見なされれば、絶対に婚姻は認められない。


 では、戸籍そのものを修正できるのか。

 通常なら、ほとんど不可能に近い。

 だが、幸運なことに、今回は〝通常〟ではない。


 ──去年、軍部と警察周辺で導入されたばかりの遺伝子検査に関する扱い。


 遺伝子検査という新しい技術が入ってきたことで、戸籍制度は一部、揺らぎ始めている。

 偵記は、そこへ目をつけた。


 七日七晩。

 仕事をこなしながら、夜は資料を読み、朝は眠気を押し殺して文書を漁った。

 そして、ついに見つけた。


 去年導入されたばかりの、遺伝子検査の普及に伴う不義の子の戸籍訂正に関する暫定規定。

 制度自体はまだ広く知られていない。

 扱いも複雑で、適用例も少ない。


 だが、その規定には、たしかにこうあった。

 親子関係が科学的検査によって否定された場合、一度に限り、戸籍上の親子関係を訂正できる。


(これだ)


 偵記は、思わず紙へ(ペン)を走らせた。

 いつもの雑な報告書とは比べものにならないほど丁寧な字で、条件を書き出していく。


 ──遺伝子検査により、父子関係否定。

 ──一度に限り、戸籍訂正可。

 ──実母側の証明が必要。

 ──新たな親権者または引受先の明示。

 ──本人同意。


 筆先が止まる。


 最後の条件が、重い。

 本人同意──

 仮に記乃が嫌がれば、そこで終わる。

 逆に言えば、記乃が受け入れるなら、道はある。


 偵記は、書き留めた紙片(メモ)を手に取った。

 記乃に見せるべきか。

 不確定な情報を、嬉々として報告するのはよくない。まして、記乃は曖昧な話を嫌う。


 だが、それでも。

 これは、可能性だった。


 偵記は立ち上がる。

 椅子が軋む。

 額には汗が滲んでいた。

 室内は暑い。

 それでも、胸の内側だけは、妙に冷えている。


 下手に期待してはいけない。まだ決まったわけではないのだ。

 そう自分に言い聞かせる。

 それでも足は、自然と速くなった。


 記乃がいるとすれば、記録蔵だろう。

 あの女は、どれだけ暑くても、紙と記録が集まる場所へ向かう。


 偵記は紙片を握りしめ、暗号局の棟を出た。

 廊下には、真夏の光が差し込んでおり、眩しさに目を細めながら歩く。


 自分でも馬鹿げていると思う。

 法の抜け穴を探しているだなんて。

 父も妹も、妙に前向きだ。


 記乃本人も、こちらを拒まない。

 拒めないのではなく、拒まないのだ。


 だからこそ──


(掴めるなら、掴む)


 偵記は、紙片を握る手へ力を込めた。


 勝利の後の酒が美味いかどうかは、まだ分からない。


 だが、もし本当にこの線を通せたなら。

 そのときはきっと、これまで飲んだどの酒よりも、喉に熱く沁みる気がした。


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