第十一話 家族の再定義《後編》
家へ着いたころには、空はすっかり群青へ沈み始めていた。
結城家の門をくぐると、昼間の熱を含んだ空気の中へ、どこか懐かしい匂いが混ざる。
庭の土の匂い。水を撒いたあとの湿った石畳。
それから、夕餉の支度をする台所から流れてくる、醤油と出汁の香り。
記乃は、その匂いを吸い込んだ瞬間、胸の奥がまた少しだけ熱くなるのを感じた。
帰ってきた。
その感覚が、思った以上に強く身体へ落ちてくる。
門を開けた使用人が、驚いたように目を丸くした。おそらく、記乃が泣いていた痕跡に気づいたのだろう。
だが、何も言わない。
長年この家に仕えてきた人間らしい沈黙だった。
そして、廊下の向こうから、ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。
「お姉様!」
義妹の記子だった。
十歳の少女は、ぱっと顔を輝かせて駆け寄ってきたが、その直後、ぴたりと足を止めた。
記乃の目元を見たからだ。
いまは泣き止んだとはいえ、泣き腫らした痕跡は、完全には消えていない。
記子は一瞬だけ黙る。その沈黙は、空気を読めなかったからではない。
むしろ逆だった。
この家の空気が、いま、少し違うことを、すぐに理解したのだ。
「もう!」
次の瞬間、記子はきっと眉を吊り上げた。
「父上とお兄様がついていながら、お姉様が泣くようなことがあるなんて!」
密記が「いや、それはだな……」と口ごもる。
だが、記子は止まらない。
「記子が連れていきますっ」
そう言うと、記乃の手を取った。
まだ小さな手だった。
けれど、その掴み方には迷いがない。
「記子?」
「お姉様、こちらです」
半ば引っ張るようにして連れていかれた先は、昔、記乃が使っていた部屋だった。
襖を開けた瞬間、懐かしい匂いがした。
畳。木製の文机。窓際に置かれた小さな棚。
実家を出るとき片したとは言え、そのままにされている部屋は、官付で使っている部屋よりもずっと生活感がある。
記乃は部屋へ入ると、ぼんやり周囲を見回した。
「少し待っていてくださいね」
記子はそう言い残し、またぱたぱたと出ていく。
記乃は、その後ろ姿を見送りながら、小さく息を吐いた。
まだ胸の奥が熱い。
泣き止んだつもりでも、油断するとまた涙が出そうだった。
少しして、記子が戻ってくる。
両手には、よく冷えた麦茶と、水で濡らした手ぬぐい。
「お姉様、おかえりなさい」
記子は、にこりと笑った。
「あいさつが遅れちゃった」
そう言って、冷茶を差し出してくる。
記乃は受け取り、静かに口をつけた。
冷たい。
喉を通った瞬間、熱を持っていた身体の内側が、少しだけ落ち着いていく。
「外、暑かったでしょう?」
記子は濡れた手ぬぐいを差し出した。
「どうぞ!」
言葉にはしない。
だが、目元を冷やせという意味なのだろう。
記乃は、それを理解した。
「……ありがとう」
受け取り、そっと目元へ当てる。
ひんやりとした感触が、熱を帯びた瞼へ沁みた。
その間、記子は背後へ回り込み、記乃の髪へ櫛を通し始める。
驚くほど手慣れていた。
絡まりを無理に引っ張らず、少しずつ解いていく。
やがて、髪をまとめ、簪で留め直した。
「はい、できましたっ」
得意げな声。
記乃は少しだけ目を瞬かせる。
(……まだ、十歳なのに)
本当に気立てのよい子だ、と改めて思う。
この子は昔から、人間の空気を読むのが上手かった。
だれが疲れているのか。だれが無理をしているのか。
子ども特有の無邪気さのまま、妙に鋭く見抜いてしまう。
「落ち着いた。ありがとうね、記子」
記乃が言うと、記子は満足そうに頷いた。
「よかった! では、居間へ行きましょう!」
また手を引かれる。
居間へ入ると、密記と偵記がすでに座っていた。
密記は、先ほどより少しだけ落ち着いた顔をしている。
偵記は相変わらず気まずそうだった。
「もう少しで食事ができると、サトさんが言っていたからね」
密記が言う。
「みんなで待とうか」
サト。
幼いころから、この家を支えてきた使用人だった。
厳しいが面倒見がよく、記乃のことも、実子である偵記や記子と変わらず気にかけてくれていた人間。
その名前を聞くだけで、記乃の肩から少し力が抜ける。
そのとき、密記が、恐る恐るという様子で記子を見る。
「記子。この前、話したろう?」
「はい?」
「記乃が、父さんの本当の子だって……あれな……」
言いづらそうだった。
だが、記子は一瞬で察した。
「あ、違うのでしょう?」
ぴしゃりと言う。
「様子を見ればわかります」
密記が苦笑する。
「記子はやはり、只者ではないな……」
「はい!」
記子は胸を張った。
「わたしは、お兄様とお姉様の妹なので。すごいんですっ」
その言い方が、妙に場を和ませた。
密記が吹き出し、偵記も小さく息を吐く。
そこへ、サトが夕餉を運んできた。
「急ごしらえですがね」
そう言いながら並べられた料理は、急ごしらえとは思えない。
魚の塩焼き、大根の煮物、ほうれん草の味噌汁、しば漬け……その他の酒肴まである。
さすが長年この家を支えてきた人間だ、と記乃は思った。
向かい合って卓へついていた結城家の食事が始まる。
記子は上座に座る密記のもとへ寄って酌をし、記乃は隣の偵記へ酒を注ぐ。
密記も偵記も、酒を飲むと、少しだけ顔が緩む。
(本当に好きなんだな)
記乃は、ぼんやり観察した。
そのときだった。
「でも」
記子が、あっさりと言った。
「これでやっと、お兄様がお姉様をお嫁さんにできるんですよね?」
時間が止まった。
次の瞬間。
ブッ、と、偵記が酒を噴き出した。
そしてすぐに、激しく咳き込み始める。
同時に、記乃の手から徳利が滑り落ちた。
ごとり、と畳へ転がる。
記乃は真顔だった。
完全に処理が止まっている顔だった。
一方、密記だけが状況を理解できていない。
「え?」
ぽかんとする。
「どういうことだ? 嫁……? 記乃、偵記? おい、記子?」
記子は、そんな密記を見て、呆れたように言った。
「お父様ったら、鈍いんですね」
「いや、待て。なんの話なんだ?」
「記子、あの、そういう話は……」
偵記が必死に止めようとする。
だが記子は、不思議そうに首を傾げた。
「え? でも、お姉様は昔から気づいていましたよね?」
記乃の動きが止まる。
(……つい最近まで気づいていなかったと言える空気ではない)
記乃は視線を逸らした。
「おい、記子!」
「本当に、お兄様はじれったいんです。よかったですねっ」
にこにこと笑う記子。
だが、それは空気が読めない無邪気さではなかった。
むしろ逆だ。
記子は、空気が変わったことを理解している。
妓楼から帰ってきたあと、記乃と偵記の間にあった、あの妙な緊張感。互いに視線を避けながら、それでも気にしている空気。
それを見たうえで、「ようやく進めるのだ」と判断している。
だからこそ、わざと背中を押している。
記乃は、半ば混乱しながら口を開いた。
「戸籍上は、父上の実子なのだから、私と兄さんは結婚できないんだよ」
その説明に、今度は記子が固まった。
「……えっ」
心底ショックを受けた顔だった。
「できないんですか……?」
「制度上、不可能」
記乃は、混乱した頭のまま淡々と答える。
偵記は顔を覆っている。
父親に恋情が完全に露見した。
その事実が、あまりにも気まずいのだろう。
密記はいまだ状況整理が追いついていない。
「え、待て、本当に? 偵記、お前、記乃を……?」
「父上は、いいから! 黙ってろ!」
偵記が珍しく本気で焦っていた。
その様子を見て、記子は少しだけ満足そうに笑う。
結城家の夜は、どうやら、まだ静かには終わらないらしかった。




