第十一話 家族の再定義《前編》
家族という言葉は、不思議なものだ。
血が繋がっているから家族なのだと言う人間もいれば、共に過ごした時間こそが家族を作るのだと言う人間もいる。
そして実際には、そのどちらも間違いではないのだろう。
ただ、問題は──
人間が、その定義をひとつしか選べないと思い込みやすいことだ。
血縁でなければ偽物。戸籍がなければ他人。
そう切り分けてしまえば、確かに世界はわかりやすくなる。
けれど、人間の感情というものは、書類に記された情報ほど、単純な構造ではない。
妓楼を出たころには、空は薄く茜色へ染まり始めていた。
夏の夕方特有の、熱を残した空気が町全体へ滲んでいる。石畳はまだ昼の熱を抱え込んだままで、歩くたび、じわりと熱気が足元から立ち上ってくるようだった。
記乃は、密記と偵記の少し後ろを歩いていた。
だれも、しばらく口を開かなかった。
四葉から聞かされた話。
桔梗という女の人生。
自分の出生。
そして、密記へ託された理由。
それらが、三人の間で、まだ整理しきれないまま沈殿している。
記乃は歩きながら、自分の指先を見ていた。
桔梗は、自分を遊郭から逃がした。密記は、自分を拾った。そして、十八年間、娘として育てた。
そこまでは理解している。
理解は、しているのだ。
だが──
(私は、結局、だれの子どもなのだろう)
その問いだけが、まだ胸の奥に残っていた。
不意に、前を歩いていた密記が立ち止まった。
夕陽が、その背中を赤く照らしている。
振り返った顔は、まだ疲れていた。だが、妓楼へ入る前とは違う種類の顔だった。
なにかを失った人間の顔ではなく、なにかを、ようやく受け止め始めた人間の顔。
「記乃」
呼ばれる。
記乃は顔を上げた。
密記は、少しだけ困ったように笑った。
「たとえ血縁でないとしても、お前は、俺の娘だよ」
その声音は、穏やかだった。
言い聞かせるようでもなく。無理に明るく振る舞うでもなく。
ただ、長い時間をかけて辿り着いた結論を、そのまま差し出すような声だった。
「育てた時間まで、偽物になるわけじゃないんだ」
密記は続ける。
「一緒に過ごした時間は、家族のそれだと、俺は考えている」
記乃は、その言葉を聞いた瞬間、なにかが止まった。
否、正確には──
ずっと張り詰めていたものが、切れた。
町を歩く人間たちの声。遠くの風鈴。荷車の軋む音。
そういうものが、一瞬だけ遠のいてゆく。
(……あ)
視界が、滲んだ。
記乃は最初、それが汗だと思った。
夏だ。暑い。妓楼からここまで歩いてきたのだから、汗をかくのは当然だろう。
だが、頬へ触れた指先が、濡れていた。
加えて、目頭が酷く熱い。
(……涙?)
そこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。
そう理解した瞬間、歯止めが利かなくなる。
呼吸が乱れる。喉が痛く、苦しい。視界がぼやけて、景色が歪む。
涙が、次から次へ溢れて止まらない。
「っおい」
真っ先に反応したのは偵記だった。
明らかに焦っている声だった。
「記乃! おい、どうした!?」
「……だ、いじょうぶ、です」
まったく大丈夫そうではなかった。
記乃は顔を両手で覆った。そうしなければ、自分がどんな顔をしているのか分からなかったからだ。
私は昔から、あまり泣く子どもではなかった。
養母に暴言を吐かれても、理不尽に叩かれても。
ひとり布団の中で息を殺して泣くことはあっても、人前で取り乱すことはしなかった。
我慢がきく人間なのだ、と、そう自分を評価していた。
だからこそ。
こんなふうに、町中で立ち止まり、息が苦しくなるほど泣いている自分に、記乃自身が一番戸惑っていた。
密記がゆっくり近づいていく。
そしてためらうように手を伸ばし、一度は止めた。
それでも、こんな風に娘が泣きじゃくる姿を初めて見た父親が、どうして放ってなどおけようか。
密記は、記乃を抱き寄せた。
抱きしめられたその瞬間、記乃の目からは、さらに涙が溢れた。
「ごめんなあ」
密記の声が、震えている。
「父さんが、変な期待を抱かせたせいで」
実子だと。本当の親子だと。そう伝えてしまったせいだ。
密記は、おそらくそんな理由で謝っている。
しかし、違う。
記乃はぼんやりと思った。
泣いている理由は、それではない。
それでも、思考して正確な言葉を吐けるほどの余力は、いまの記乃には、なかった。
血縁でない疎外感を一度も抱かなかったわけではない。
養母から〝他人の子〟と言われ続けた。
結城家の人間ではない、と吐き捨てられて育った。
そのたび、割り切っていた。
私は拾われた子どもなのだから、どんなに酷く言われても仕方がないことなのだ、と。
そう思うようにしていた。
けれど、本当は。
本当は、ずっと──
(……本物の家族になれたら、と)
思わなかったわけではなかった。
だからこそ、いま。
密記の言葉が、胸の奥へ深く落ちてくる。
血縁ではない。
それでも私を、家族だと。
その言葉が、慰めでも、義務でもなく、心からのものだと分かってしまったから、安心してしまった。
だから、泣いている。
偵記は、少し離れた場所で立ち尽くしていた。
その表情は複雑だった。
安堵している。それは確かだ。
記乃と血が繋がっていないという事実は、彼の恋慕という感情を救っている。
だが同時に──
(……本当に血が繋がっていた方が、記乃のためだった)
そうとも考えていた。
血縁関係にあれば、こんなふうに傷つかずに済んだ。戸籍上の問題も、出生の不安定さも、余計に抱えずに済んだ。
だから、嬉しいだけではない。
妹でなくてよかった、という感情と、妹であってほしかった、という感情が、偵記の中で矛盾したまま並んでいる。
それでも、偵記の基準は、己の気持ちではない。
紛れもない、記乃だった。
密記は未だ泣き続ける記乃の背を、ゆっくり擦っていた。
愛しい我が子をあやすように。
「……帰ろうか」
小さく言う。
「久しぶりに、家へ」
家。
その言葉へ、記乃は弱く頷いた。
密記が歩き出す。偵記も、その後ろについていく。
夕暮れの町を、三人で歩く。
血縁関係ではなかった。
だが、それでも──
十八年もの間、一緒に過ごしてきた時間だけは、だれにも否定できないものとしてそこに残っていた。




