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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第三章 定義解体篇
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第十一話 家族の再定義《前編》

 家族という言葉は、不思議なものだ。

 血が繋がっているから家族なのだと言う人間もいれば、共に過ごした時間こそが家族を作るのだと言う人間もいる。


 そして実際には、そのどちらも間違いではないのだろう。


 ただ、問題は──

 人間が、その定義をひとつしか選べないと思い込みやすいことだ。


 血縁でなければ偽物。戸籍がなければ他人。

 そう切り分けてしまえば、確かに世界はわかりやすくなる。

 けれど、人間の感情というものは、書類に記された情報ほど、単純な構造ではない。


 妓楼を出たころには、空は薄く茜色へ染まり始めていた。

 夏の夕方特有の、熱を残した空気が町全体へ滲んでいる。石畳はまだ昼の熱を抱え込んだままで、歩くたび、じわりと熱気が足元から立ち上ってくるようだった。


 記乃は、密記と偵記の少し後ろを歩いていた。

 だれも、しばらく口を開かなかった。


 四葉から聞かされた話。

 桔梗という女の人生。

 自分の出生。

 そして、密記へ託された理由。

 それらが、三人の間で、まだ整理しきれないまま沈殿している。


 記乃は歩きながら、自分の指先を見ていた。

 桔梗は、自分を遊郭から逃がした。密記は、自分を拾った。そして、十八年間、娘として育てた。

 そこまでは理解している。

 理解は、しているのだ。

 だが──


(私は、結局、だれの子どもなのだろう)


 その問いだけが、まだ胸の奥に残っていた。


 不意に、前を歩いていた密記が立ち止まった。

 夕陽が、その背中を赤く照らしている。

 振り返った顔は、まだ疲れていた。だが、妓楼へ入る前とは違う種類の顔だった。

 なにかを失った人間の顔ではなく、なにかを、ようやく受け止め始めた人間の顔。


「記乃」


 呼ばれる。

 記乃は顔を上げた。

 密記は、少しだけ困ったように笑った。


「たとえ血縁でないとしても、お前は、俺の娘だよ」


 その声音は、穏やかだった。

 言い聞かせるようでもなく。無理に明るく振る舞うでもなく。

 ただ、長い時間をかけて辿り着いた結論を、そのまま差し出すような声だった。


「育てた時間まで、偽物になるわけじゃないんだ」


 密記は続ける。


「一緒に過ごした時間は、家族のそれだと、俺は考えている」


 記乃は、その言葉を聞いた瞬間、なにかが止まった。


 否、正確には──

 ずっと張り詰めていたものが、切れた。


 町を歩く人間たちの声。遠くの風鈴。荷車の軋む音。

 そういうものが、一瞬だけ遠のいてゆく。


(……あ)


 視界が、滲んだ。


 記乃は最初、それが汗だと思った。

 夏だ。暑い。妓楼からここまで歩いてきたのだから、汗をかくのは当然だろう。


 だが、頬へ触れた指先が、濡れていた。


 加えて、目頭が酷く熱い。


(……涙?)


 そこで初めて、自分が泣いていることに気づいた。


 そう理解した瞬間、歯止めが利かなくなる。

 呼吸が乱れる。喉が痛く、苦しい。視界がぼやけて、景色が歪む。


 涙が、次から次へ溢れて止まらない。


「っおい」


 真っ先に反応したのは偵記だった。

 明らかに焦っている声だった。


「記乃! おい、どうした!?」

「……だ、いじょうぶ、です」


 まったく大丈夫そうではなかった。

 記乃は顔を両手で覆った。そうしなければ、自分がどんな顔をしているのか分からなかったからだ。


 私は昔から、あまり泣く子どもではなかった。

 養母に暴言を吐かれても、理不尽に叩かれても。

 ひとり布団の中で息を殺して泣くことはあっても、人前で取り乱すことはしなかった。

 我慢がきく人間なのだ、と、そう自分を評価していた。


 だからこそ。

 こんなふうに、町中で立ち止まり、息が苦しくなるほど泣いている自分に、記乃自身が一番戸惑っていた。


 密記がゆっくり近づいていく。

 そしてためらうように手を伸ばし、一度は止めた。

 それでも、こんな風に娘が泣きじゃくる姿を初めて見た父親が、どうして放ってなどおけようか。

 密記は、記乃を抱き寄せた。


 抱きしめられたその瞬間、記乃の目からは、さらに涙が溢れた。


「ごめんなあ」


 密記の声が、震えている。


「父さんが、変な期待を抱かせたせいで」


 実子だと。本当の親子だと。そう伝えてしまったせいだ。

 密記は、おそらくそんな理由で謝っている。


 しかし、違う。

 記乃はぼんやりと思った。

 泣いている理由は、それではない。

 それでも、思考して正確な言葉を吐けるほどの余力は、いまの記乃には、なかった。


 血縁でない疎外感を一度も抱かなかったわけではない。

 養母から〝他人の子〟と言われ続けた。

 結城家の人間ではない、と吐き捨てられて育った。

 そのたび、割り切っていた。

 私は拾われた子どもなのだから、どんなに酷く言われても仕方がないことなのだ、と。


 そう思うようにしていた。

 けれど、本当は。

 本当は、ずっと──


(……本物の家族になれたら、と)


 思わなかったわけではなかった。


 だからこそ、いま。

 密記の言葉が、胸の奥へ深く落ちてくる。


 血縁ではない。

 それでも私を、家族だと。

 その言葉が、慰めでも、義務でもなく、心からのものだと分かってしまったから、安心してしまった。

 だから、泣いている。


 偵記は、少し離れた場所で立ち尽くしていた。

 その表情は複雑だった。

 安堵している。それは確かだ。

 記乃と血が繋がっていないという事実は、彼の恋慕という感情を救っている。

 だが同時に──


(……本当に血が繋がっていた方が、記乃のためだった)


 そうとも考えていた。

 血縁関係にあれば、こんなふうに傷つかずに済んだ。戸籍上の問題も、出生の不安定さも、余計に抱えずに済んだ。


 だから、嬉しいだけではない。

 妹でなくてよかった、という感情と、妹であってほしかった、という感情が、偵記の中で矛盾したまま並んでいる。


 それでも、偵記の基準は、己の気持ちではない。

 紛れもない、記乃だった。


 密記は未だ泣き続ける記乃の背を、ゆっくり擦っていた。

 愛しい我が子をあやすように。


「……帰ろうか」


 小さく言う。


「久しぶりに、家へ」


 家。

 その言葉へ、記乃は弱く頷いた。

 密記が歩き出す。偵記も、その後ろについていく。


 夕暮れの町を、三人で歩く。

 血縁関係ではなかった。


 だが、それでも──


 十八年もの間、一緒に過ごしてきた時間だけは、だれにも否定できないものとしてそこに残っていた。


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