第十話 血縁という記録《後編》
真実は必ずしも、人間を救うために現れるわけではない。
むしろ多くの場合、真実は遅れてやってくる。
取り返しのつかない時間が過ぎ、言葉を交わす相手が失われ、謝罪も弁明も、抱きしめることもできなくなったあとで、ただ冷たい刃のように差し出される。
だからこそ、人間は真実を知った瞬間、救われるのではなく、かえって深く傷つくことがある。
言えなかった言葉。
聞けなかった理由。
選ばれなかった道。
それらが、いっせいに胸の内側で形を持ち始めるからだ。
四葉はしばらく泣いていた。
声を上げるわけではなく、顔を覆うわけでもない。膝の上で手を握りしめたまま、ただ、静かに己の膝へ涙を落としている。
記乃は、その涙を見ていた。
悲しみの表出というより、長く塞がれていた記憶が、いまになってようやく外へ流れ出しているように見えた。
密記は、ほとんど動かなかった。
先ほどから顔色は悪いままだが、その悪さの質が変わっている。
検査結果を聞いたときのそれが、足元から地面を抜かれたような喪失だとすれば、いまの密記は、過去の言葉を一つひとつ刃物として受け直している人間の顔だった。
「……四葉さん」
記乃は静かに声をかけた。
「まだ、伺いたいことがあります」
四葉は涙を拭い、少しだけ背筋を伸ばした。
「ええ。話せることなら、話すわ」
その声は震えている。
しかし、逃げる気配はなかった。
記乃は視線を落とし、膝の上の紙片を見た。
ここから先は、おそらく桔梗という女の美しい記憶だけでは済まない。それでも、聞かなければならない。
現場が語るものは、都合のよい言葉だけではないからだ。
「桔梗さんが、妊娠した経緯について、知っていることはありますか」
密記の肩が、微かに揺れた。
偵記も、息を止める。
四葉は、すぐには答えなかった。
茶の湯気はすでに薄れている。風鈴の音も、遠くなったように感じられた。
「……言いづらい話よ」
「承知しています」
「お母さんのつらい話なのよ。それでも?」
「はい」
四葉は、唇を軽く噛んだ。
そして、ゆっくりと言葉を置く。
「桔梗姉さんは、密記様が初めてここへ来る少し前に、子を授かったことがわかったところだったの」
密記の目が、はっきりと揺れた。
分かっていた。
検査結果からすれば、それが自然だ。
それでも、他人の口から事実として告げられると、身体は別の反応をする。
「相手は」
偵記が低く訊ねた。
四葉は顔を伏せる。
「好きでもない男……いえ、姉さんは、虫唾が走るほど嫌っていたと思う」
室内の空気が重くなる。
「その男は、姉さんに乱暴をした。姉さんの証言で、妓楼に大金を払った上で、出入り禁止になったけれど……子は、腹に残った」
密記の喉が、苦しそうに上下した。
記乃は、その動きを見ていた。
密記は「騙された」とは思っていない。少なくとも、いまの顔はそうではない。
そこにあるのは、もっと苦いものだった。
知らなかった。
助けられなかった。
そこにいなかった。
その三つが、密記の胸の中で、鈍く重なっている。
「堕胎は」
記乃は問う。
「……ごめんなさい。あなたに言うのも気が引けるけれど、遊女として、試したわ。でも……うまくいかなかった」
四葉の声が細くなる。
「前の女将が言ったの。産んでもいい、隠してやるから、と。あの人は変わり者だったけれど、女をただの商品として見る人ではなかった」
その日。
桔梗が、産むことを許された日。
そこへ密記が来たのだと、四葉は言った。
「姉さんは、最初はただ、少し話すだけのつもりだったと思う」
四葉の目が、どこか遠くを見る。
「でも、密記様と話したあと、顔が違っていた。静かな人だったけれど、あの日だけは、ほんの少し、息がしやすそうな顔をしていたの」
密記は黙っていた。
視線は膝の上に落ちている。
だが、その手は強く握られていた。
「似たもの同士だと、姉さんは言っていたわ。外から見れば整っているのに、内側に逃げ場がない人だと」
記乃は、その言葉を紙片へ書き留めなかった。
記録すべき事実ではある。
だが、今ここで紙に落とすには、この話はあまりにも人間の心に近すぎたのだ。
「その晩、ふたりは一緒に過ごした」
四葉は言う。
「でも、姉さんの腹には、別の男の子どもがいた」
声が震える。
「それを、姉さんはわかっていた。わかっていたのに、わからなくなっていった」
「わからなくなった?」
偵記が眉を寄せる。
「密記様への気持ちが、大きくなりすぎたのだと思う」
四葉は密記を見た。
「姉さんは、自分の腹の子を憎もうとして、憎みきれなかった。憎い男の子だと思えば、吐き気がするほど嫌だったはずなのに、それでも、自分の腹を殴ることはできなかった。自分以外の命が失われることを、姉さんは何より怖がっていたから」
記乃は、無意識に自分の腹部へ視線を落とした。
命……私のことだ。
そこにいたはずの、知らない男。
そして、私を産んだ、桔梗という遊女。
「だから、姉さんは少しずつ、自分を騙したのだと思う」
四葉の声は、責めていなかった。
ただ、悲しんでいた。
「この子は、あの人の子だって。あの夜の、優しい人の子だって。そう思わなければ、きっと産めなかった」
密記の顔が、今度こそ歪んだ。
苦しげに、目を閉じる。
「……三月の、文」
密記が、ようやく声を出した。
「彼女は、子ができたと書いてきた」
「ええ」
「俺は……よく分からなかった。それでも、彼女が言うなら、そうなのだと思った」
密記の声は、ひどく掠れていた。
「会いに行こうとした。だが、会えなかった。店に出ていないと言われて……腹が大きくなっているなら当然だと、勝手に納得した」
四葉は、静かに頷く。
「妓楼が隠したの。決して、姉さんを店に立たせなかった。妊娠が知られれば、騒ぎになるから」
「……産まれたら」
密記は、ほとんど独り言のように言った。
「産まれたら、会えると思っていた。母子ともに無事なら、そのときに話せばいいと」
だが、会えなかった。
記乃は、その続きを口にしなかった。
四葉が代わりに言う。
「出産後、姉さんは、急に冷静になったの。赤子を見て、しばらく黙って、それから言った」
その声は、いままでで、一番痛かった。
「『そうだ、この子は、あの人の子じゃないんだ』って」
室内が、静まり返る。
偵記が奥歯を噛みしめる音が、かすかに聞こえた。
「姉さんは、密記様に顔を合わせる資格がないと言った。騙した、裏切った、会えばきっと全部壊してしまうって」
「……そんな」
密記の声が漏れる。
それは怒りではなく、嘆きだった。
「そんなこと、言ってくれればよかっただろう……」
その声は、四葉に向けたものではなかった。
もう届かない、愛した女に向けたものだった。
「言ってくれれば、俺は……」
そこで言葉が止まる。
自分は、彼女になにができただろう?
それは、密記自身にも分からないのだろう。
妻帯者だった。
武家の男だった。
遊郭の女を、すぐに迎え入れられる立場ではなかった。
それでも──
なにかできたかもしれない。
そう思わずにはいられない顔だった。
四葉は、静かに続けた。
「でも、姉さんは文を捨てられなかった。会えないと言いながら、文だけは出し続けた。愛していたからよ」
密記は、顔を上げない。
ただ、肩が小さく震えている。
「そして、十一月五日」
四葉は、密記の持っていた文へ視線を落とした。
「姉さんは、最後の文を書いた。届いたのは、九日だったのね」
子どもは、このままだと遊女にされる。
貴方に託したい。
十一月十日の丑の刻。
遊郭の裏手に、この子を置く。
四葉は、そこで一度目を閉じた。
「私は、その文のことは知らなかった。知っていたら止めたかもしれない。でも……たぶん、止められなかったと思う」
「なぜ」
記乃が問う。
「姉さんは、決めたことを曲げない人だったから」
四葉は、涙の残る顔で、少しだけ笑った。
「それに、あの子をここに置けば、いずれ遊女にされる。きっと姉さんは、それだけは嫌だったのよ」
記乃は、その言葉を受け止めた。
自分が遊郭に残っていた場合、どうなっていたか?
答えは考えるまでもない。
記録されない子ども。戸籍の外。
母と同じ、あるいは母よりさらに低い場所へ落とされる可能性が高い存在。
(桔梗さんは、私を守るため、外へ出した)
それは母性と呼べるのかもしれない。
罪悪感の処理だったのかもしれない。
あるいは、そのどちらでもあるのだろう。
人間の行動は、ひとつの理由だけで成立しない。
「桔梗さんは」
記乃は静かに言った。
「私を、父上に託したんですね」
父上。
その呼び方に、密記がわずかに顔を上げる。
血縁がないと分かったあとでも、記乃はそう呼んだ。
四葉は頷いた。
「そうだと思うわ。本当のことは言えなくても、でも、それでも信じたんでしょう」
密記を見る。
「あの人なら、この子を外へ連れ出してくれる、って」
その瞬間。
密記の表情が、崩れた。
これまで保っていたものが、音もなく折れるように。
「……そうか」
声が震える。
「真実は、語ってくれなかったが」
密記は、ゆっくりと息を吸った。
だが、その息は途中で詰まった。
「俺を信じて、大切な子どもを託してくれたんだなあ……」
言い終えた瞬間、密記の目から涙が落ちた。
「馬鹿だよなあ……俺も、桔梗も。気持ちに素直になっていれば、嘘なんかつかなかったら……今ごろは……」
静かな涙だった。
大声を上げるわけではない。
机に突っ伏すわけでもない。
ただ、長い時間をかけてようやく辿り着いた事実を、胸の中へ受け入れきれずに、涙だけが先に出ているようだった。
偵記は、何も言わなかった。
いつものような悪態も、父への皮肉もない。
ただ、苦しそうに目を伏せている。
記乃もまた、黙っていた。
自分の母は、不誠実な女だったのかもしれない。
事実を隠し、思い込み、愛した男へ偽りを伝えた。
だが、それだけではない。
暴力の中で妊娠し、愛によって気をおかしくし、出産によって現実へ引き戻された。
それでも、大事に思った子どもを遊郭から逃がすために、もっとも信じられる相手へ託した女だった。
(不誠実、という言葉だけで説明するのは、不適切だ)
記乃はそう判断した。
人間は、ひとつの言葉では分類できない。
桔梗は、嘘をついた女であり、愛を抱いた女であり、母であり、記録されなかった人間だった。
そして、記乃は、その女によって外へ出された子どもだった。
風鈴が鳴る。
夏の熱を含んだ風が、浅く開けられた窓の隙間からわずかに入り込み、畳の上に置かれた文の端を揺らした。
記乃は、その文を見つめる。
紙は古びており、墨の色も褪せている。
だが、そこに書かれた言葉は、十八年を越えて、まだ人間を動かしている。
(記録されなかったものにも、痕跡は残る)
出生は隠された。
実の父親も違った。
母の名は戸籍にない。
それでも、ふたりの間に交わされた文だけは、確かに残っている。
そして、いま、証言が加わった。
記乃はゆっくりと紙片を取り出す。
万年筆を持つ手は、いつもよりわずかに重かった。
けれど、書く。
書かなければ、また消えてしまうから。
いま、自分が──
自分こそが記録しなければ、他のだれがしてくれようか。
──桔梗。
──異国の血を持つ遊女。
──記録外出産。
──実父不明。
──密記へ託児。
──十一月十日、丑の刻。
そこまで書いて、少しだけ止まる。
そして、最後に一行加えた。
──私を産んだ母。
その文字を見た瞬間、胸の奥に、小さな熱が生まれた。
悲しみではない。
怒りでもない。
それはまだ、名前を与えるには曖昧すぎる感情だった。
ただ、ひとつだけ分かる。
自分は、消されるはずだった。
けれど、消されなかった。
誰かが、消さなかった。
その事実だけは、確かに記録できるものだった。




