第十話 血縁という記録《中編》
人の歴史というものは、残された記録だけで構成されているわけではない。
むしろ実際には、記録されなかった人間たちの方が、遥かに多い。
名前を残されない女、生まれたことにされなかった子ども。戸籍へ載らず、だれかの記憶の中だけで存在していた人生。
そして遊郭という場所は、そうした〝消された記録〟が、幾重にも積み重なってできている。
夏の日差しは、容赦なく強かった。
町の空気は熱を持ち、石畳の上では陽炎が揺れている。
湿気を含んだ風は重く、遠くから流れてくる三味線の音と、甘ったるい香の匂いが混ざり合い、この辺り一帯だけが、別の世界のように歪んで見えた。
記乃は、目の前に建つ妓楼を見上げる。
赤く塗られた格子。擦り切れた木の階段。昼だというのに閉じきらない障子。
そして、奥から漂ってくる、人間の生活と香料と酒と汗が混ざった匂い。
(ここが、母の生きていた場所)
感傷は、なかった。
だが、胸の内側に、説明しづらい圧迫感がある。
隣では、密記が黙ったまま建物を見上げていた。偵記も、口を開かない。
親子三人で並んでいるはずなのに、その関係性は、数日前までとは明らかに違っていた。
血縁がない。
その事実は、三人の関係を壊したわけではない。
しかし、十八年もの間、無意識に前提としていたものを根底から揺るがしていた。
「……入るぞ」
最初に動いたのは密記だった。
暖簾をくぐる。昼間の妓楼は、夜ほど騒がしくない。
廊下には静けさがあり、奥から女たちの笑い声や、水を流す音がぼんやり聞こえてくる程度だった。
しばらくすると、奥から女が現れる。
年齢は三十代半ば、ほどだろうか。薄紫の着物をきっちり着込み、髪を高く結い上げている。
派手さはない。だが、立ち居振る舞いには、この場所を取り仕切る人間特有の落ち着きがあった。
「……あら」
女は、記乃を見た瞬間、目を止めた。
ほんの一瞬。だが、その視線の揺れを、記乃は見逃さない。
相手は、勘づいたのだ。
記乃の瞳を見て。
「お客様、でしょうか」
女はすぐに表情を整えた。
だが、声色がわずかに硬い。
密記が口を開く。
「少し、話を聞きたくて来た」
女は密記を見た。次に、記乃を見る。そして、ゆっくりと息を吐いた。
「……奥へどうぞ」
案内された部屋は、表の座敷よりずっと静かだった。
障子越しに柔らかい光が差し込み、風鈴の音が小さく鳴っている。卓へ茶が置かれる。
女は、自分も腰を下ろしてから名乗った。
「四葉、と申します」
穏やかな声だった。
「先代女将の息子に嫁いで、いまは私がこの店を預かっています」
記乃は、その言葉を頭の中へ置く。
つまり、この女は、当時の遊郭を直接知る立場ではない。だが、完全な部外者でもない。
四葉は三人の前に茶を置いたあと、しばらく記乃を見つめていた。
まるで、遠い昔の面影を確認するように。
「……その目」
ぽつりと呟く。
「桔梗姉さんに、そっくりだわ」
姉さん。
その呼び方に、記乃はわずかに引っかかった。
(血縁ではない)
だが、その響きは、単なる妓女同士の呼称以上のものを含んでいた。
四葉は、静かに続ける。
「桔梗姉さんが若いころ、一度、隠れて出産したのは、一部の人間だけが知ってるの」
密記の肩が、小さく揺れた。
偵記も、表情を硬くする。
「反対に、ほとんどの人間は知らないことよ」
四葉は言う。
「だって、この妓楼の人間たちが、必死になって隠してきたから」
記乃は、その言葉を静かに受け止める。
(隠蔽)
つまり、出生記録自体が意図的に消されていた。
遊郭という場では、特段珍しくないのだろう。
遊女が子どもを産めば、商品価値は落ちる。 私生児が生まれれば、厄介事になる。それでも、遊女の職務上、子どもなどいくらでも生まれる。
そして、その多くは、最初から〝存在しなかったこと〟にされる。
記乃は、胸の内側へ、冷たい理解が落ちていくのを感じていた。
この国の制度は、最初から、記録されない人間を前提として作られている。
戸籍が存在する人間だけを、人間として扱う構造。
その外側にいる女たちは、最初から、数へ含まれていない。
「この子は、桔梗の娘なんだ」
密記が、掠れた声で言った。
「彼女が産んだ子どもは、姿を消したんだろう?」
四葉は、ゆっくりと記乃を見る。
その視線には、驚きと、確認と、それから、どうしようもない懐かしさが混ざっていた。
「娘……うん、そうだろうね」
小さく頷く。
「だって、その瞳の色……おんなじだもの」
密記は、懐から古びた紙を取り出した。
十八年間、大切に保管されてきた文。
桔梗が残した、最後の手紙。
四葉は、それを見た瞬間、息を止めた。
「……これ」
指先が震えている。
「姉さんの字だ……」
紙へ触れる。まるで、壊れ物へ触れるみたいに、恐る恐る。
「赤ん坊がいなくなった時は、大騒ぎだったんだよ」
四葉は呟いた。
「だれかに川にでも捨てられて、殺されたんじゃないかって……まさか、生きてたなんて……」
目元へ、じわりと涙が浮かぶ。
記乃は、その反応を見て、ようやく理解した。
この女は、本当に桔梗を慕っていたのだ。
「私はね」
四葉は、小さく笑う。
「昔、この店の禿だったの。いっつも、桔梗姉さんの手伝いや世話をしていた」
禿。
遊女見習いの少女。
「でも、どうも遊女には向いてなかったみたいでねえ。気立てだけはいいって、変わり者の先代女将が気に入っちゃって」
少し照れたように笑う。
「そのまま、息子の嫁にされて、店を継ぐことになったの」
そして、視線を落とした。
「姉さんは、ずっと不思議だった」
「……不思議?」
偵記が訊ねる。
四葉は頷いた。
「娘が消えたっていうのに、桔梗姉さん、泣かなかったの」
室内が静まる。
「しゃんとしてた。凛々しくて……まるで、最初から覚悟してたみたいに」
四葉は、手紙を見つめる。
「でも、いまわかった」
涙が、ぽたりと落ちた。
「愛した人に託したから、姉さんも安心してたんだわ」
密記の指先が、微かに震える。
「だから、あんな風に、最期まで……」
四葉は、とうとう声を詰まらせた。
沈黙が落ちる。
風鈴の音だけが、小さく鳴った。
「……愛した人?」
意外にも、訊ねたのは偵記だった。
記乃は少しだけ目を見開く。偵記が、自分から会話へ踏み込むとは思っていなかったからだ。
四葉は涙を拭いながら頷く。
「姉さん、ずっと〝好いた男がいるんだ〟って言ってたのよ」
密記の呼吸が止まる。
「でも、もう二度と会わないって」
「なんでだよ」
偵記が訊ねる。
「迷惑をかけるから、って」
四葉は静かに答えた。
「立派な武家の殿方だから、自分の存在が知れるだけで騒ぎになるって」
密記の顔色が、さらに悪くなる。
「……でもね」
四葉は続ける。
「最期まで、文は出してた」
その声は、優しかった。
「愛していたから、文を出していた。私はそれをわかってた……わかってたんだ」
密記は、そこで初めて、深く息を呑んだ。
まるで、頭を鈍器で殴られたみたいな顔だった。
愛されていた。
守られていた。
迷惑をかける、と言われた覚えはある。会えない、とも言われた。
だが、それは、自分を拒絶するための言葉ではなかったのかもしれない。
もし、愛していたのなら。
もし、本当に、最後まで愛していたのなら。
(……だったら)
密記の喉が、ひどく苦しそうに上下する。
(最期くらい、会ってくれたってよかっただろうに……)




