第十話 血縁という記録《前編》
人はみな、血が繋がっているという事実に、必要以上の意味を与えたがる。
同じ顔立ち、似た声、受け継がれた色……
そうしたものを見つけるたび、人間はそこへ〝家族〟という言葉を貼りつけ、逆に、それらが存在しないと知った瞬間、今まで積み上げてきた関係性までも崩れてしまったかのように錯覚する。
けれど実際には、血縁とは記録の一種でしかない。
出生。戸籍。系譜。
それらは確かに人間関係を定義するが、同時に、それだけでは説明しきれない感情や時間も、この世には存在している。
だからこそ──
記録によって覆された事実は、ときに、人間の感情そのものを置き去りにしたまま進んでしまう。
八月十日。
夏は、容赦なく暑かった。
官付の廊下には熱を含んだ空気が沈殿しており、障子を開け放していても、風は生温く、湿気を含んだままゆるく流れているだけだった。
遠くでは蝉が鳴いている。
その声は、まるで地面そのものが軋みながら鳴いているかのように、絶え間なく耳へ張りついていた。
結城記乃は、密記の執務室へ向かう廊下を歩きながら、自分の指先へ視線を落としていた。
ひと月。
軍部の医局へ依頼した遺伝子検査から、すでにそれだけの時間が経過している。
結果が出るまでの間、記乃は普段通り働いていた。
記録を整理し、現場を確認し、人間の証言を比較し、再現可能性を検討し、官付の人間として淡々と役割をこなしていた。
だが、その裏側で、頭の片隅だけは常に同じ問いを抱え続けていた。
(結果は、どちらになるのだろう)
自分は、本当に結城密記の娘なのか。
あるいは──
まったく別の、名前も知らない男の子どもなのか。
自分が持ち出した話だ。
だが、落ち着かない気分であることもまた、事実。
しかし不思議なことに、記乃は恐怖を抱いてはいなかった。
怖いというより、確認したい。
ただ、それだけだった。
隣を歩く偵記は、終始無言だった。
数日前から、妙に落ち着きがない。
以前のように露骨に距離を取ることはなくなったが、その代わり、記乃を見るたびに何か言いたげな顔をして、結局なにも言わずに黙り込むことが増えていた。
それはおそらく、先日の件──
休憩室での一件以降、互いの関係性が、曖昧なまま宙吊りになっているせいでもある。
だがいまは、それどころではなかった。
「……父上は、なんて言うと思う」
不意に、偵記が低く呟いた。
記乃は少し考える。
「結果次第かと」
「おまえなあ……」
偵記は呆れたように息を吐いたが、それ以上は言わなかった。
執務室の前へ着く。
記乃は静かに襖を叩いた。
「父上。記乃です」
少しの沈黙。
そのあとで返ってきた声は、以前よりも僅かに掠れていた。
「入りなさい」
襖を開ける。
室内には、紙と墨、それから冷めかけた茶の匂いが漂っており、密記は机に向かったまま座っている。
だが。
その顔を見た瞬間、記乃は理解した。
(結果が出たのだ)
密記の顔色は悪かった。
目の下には薄い隈があり、普段ならきっちり整えられている髪も、今日は少しだけ、乱れている。
手元には、封が切られた封筒と、二枚の紙が置かれていた。
軍部から送られてきた、検査結果。
室内へ入った途端、空気が重く沈む。
偵記も、それを感じ取ったのだろう。
普段よりずっと険しい顔で、机の上の書類を見ていた。
「結果が、出たんですね」
記乃が言う。
密記は、すぐには答えなかった。
眼鏡を外し、深く息を吐き、それからようやく口を開く。
「……ああ」
その声は、妙に乾いていた。
「端的に言えば」
一度、言葉が止まる。
まるで、口に出した瞬間、それが完全な現実として固定されてしまうことを恐れているようだった。
「お前と俺の間に、血縁関係は存在しなかった」
静かだった。
だが、その言葉だけで、部屋の空気が変わる。
蝉の声が、やけに遠く聞こえた。
記乃は、その結果を聞いて、まず最初に思った。
(やはり)
記録上の不整合。時系列。発育状態。証言。
それらを整理した時点で、すでに可能性としては高かった。
「……そうだと思っていました」
記乃は静かに言った。
だが、その瞬間。
密記の顔が、目に見えて歪んだ。
「記乃」
低い声だった。
「そんなふうに、簡単に言わないでくれ」
その声音に含まれていたのは怒りではない。 もっと、どうしようもなく混乱した感情だった。
密記にとって、記乃が実子であるという事実は、疑いようのない前提だった。
十八年前、桔梗から託された赤子。
愛した女と同じ色の瞳。届き続けた文。
それらすべてが、密記の中では、ひとつの答えとして成立していた。
だからこそ、数ヶ月前、子どもたちへ真実として打ち明けたのだ。
記乃は拾ってきた子どもであるが、自分と血が繋がっているのだと。
それは密記にとって、ようやく口にできた秘密だった。
なのに──
いまになって、その前提自体が、崩れた。
偵記は、黙ったまま立っている。
だが、記乃には分かった。
偵記の中では、この結果は、むしろ都合がよいものであると。
偵記は十八年間、記乃を血の繋がらない妹として扱ってきた。
だからこそ、数ヶ月前に父から真実を告げられた時、人生の前提そのものを覆され、どう処理していいのか分からなくなっていた。
その状態で──あの日のことが起きた。
結果として、今回の検査結果は偵記にとって、ある意味では救いだった。
だからといって、素直に喜べる空気でもない。
室内には、誰も処理しきれない沈黙が落ちていた。
記乃は、その空気の中で、ひとつ確認しなければならないことを口にする。
「父上」
密記が視線を上げる。
「実子ではないことで、私を結城家へ置いておく理由が消えたと、お思いですか」
記乃は、半ば肯定される前提で訊ねていた。
合理性だけで考えれば、当然あり得る話だからだ。
血縁関係がない。戸籍上の整合性にも疑義がある。
ならば、自分を家へ置き続ける理由は薄れる。
「そんなわけがないだろう!」
密記が、珍しく声を荒らげた。
机へ手をつく。その音が、室内へ重く響いた。
「そんな……そんなことで、お前を家族じゃないなんて、思うわけがないだろう……!」
声が震えている。
記乃は少し目を見開いた。
密記がここまで感情を露わにすることは珍しい。
それはつまり、いま彼が、どれほど深く動揺しているかという証明でもあった。
偵記が、ぼそりと呟く。
「騙された、とか言い出しそうな顔してるけどな」
記乃は、それには同意だった。
密記の顔には、確かに絶望があった。十八年間、自分が信じていたものが、根底から崩れたのだから当然だ。
戸惑い。混乱。喪失。理解不能。
そういったものが、一度に押し寄せている顔だった。
そして、それがわかるのは──
自分たちにとって、密記が長年共に過ごしてきた〝父親〟だからだった。
記乃は少し考え、それから静かに言う。
「疑問が事実になったところで、まだ調査が終わったとは判断していません」
密記が顔を上げる。
「……つまり?」
その声には、疲労が滲んでいた。
記乃は、ゆっくり答える。
「事件は、現場が語るのですよ」
その言葉に、密記と偵記の視線が止まる。
現場。
それは、桔梗が生きていた場所。
記乃の出生が隠され、女たちが沈黙し、名前も残されずに消えていった場所。
遊郭。
そこへ行くべきだと、記乃は言っていた。
室内へ、重い沈黙が落ちる。
蝉の声だけが、障子の向こうで、絶え間なく鳴き続けていた。




