第九話 光明
人間という生き物は、ときに〝知りたくなかった事実〟ではなく〝記録として不自然な事実〟によって、過去を疑い始める。
感情は誤魔化せる。
記憶も、曖昧にできる。
だが、時系列だけは、整合性を要求する。
ひとつの証言。ひとつの年月日。ひとつの記録──
それらがほんの僅かでも噛み合わなかったとき、人間の認識は、静かに崩れ始める。
(……記録として、不自然)
夜も更け、澄子妃の棟はすでに静まり返っていた。
障子の向こうでは、夏の虫が一定の間隔でりんりんと鳴き続けている。
湿気を含んだ夜気は重く、閉じた部屋の中には、紙と墨、それから畳の乾ききらない匂いが淡く滞留していた。
結城記乃は、自室の文机に向かったまま、長い時間、ほとんど姿勢を変えていなかった。
机の上には、数え切れないほどの紙片が整列されている。
過去記録。出生日。時系列。証言。
そして、拾われた当時の状況。
それらを整理するように、紙の位置を少しずつ動かしながら、記乃は紙の上で万年筆を走らせていた。
──拾得時期:十一月十日。
──拾得時刻:丑の刻。
──発見場所:遊郭裏手。
──発見時天候:雨天。
──医師所見:生後一ヶ月。
──戸籍登録:十月十日。
書きながら、視線が止まる。
(……違和感が消えない)
医師が言ったという「生後一ヶ月」の言葉。
それ自体は、充分あり得る診断だ。
当時の医療水準を考えれば、発育状態や骨格、皮膚の状態から、大まかな月齢を推定するしかない。
だが、遊郭では赤子が荷物扱いだということは常識だ。
昔、下町で聞いた話を思い出す。
遊女が産んだ子どもは、充分な栄養を与えられない場合がある。泣けば客の邪魔になる。病にかかっても、まともな薬が与えられるとは限らない。
つまり──
(実際の月齢より、身体の発育が遅れていても不思議ではない)
記乃は、そこで万年筆を止めた。
紙へ落ちた沈黙が、じわりと広がる。
本来の誕生日が、戸籍に登録された十月十日よりも以前だった可能性はないだろうか?
その仮説が、一度頭へ浮かんだ瞬間から、他の情報までもが、少しずつ噛み合わなくなり始めていた。
記乃は、新しい紙を引き寄せる。
──養父、遊郭へ逃走。
──証言、正月以後の交わり。
──三月、実母が妊娠を告知。
そこから、計算する。
一般的に、妊娠期間は十月十日と言われてはいる。
しかしそれは、月経周期も含めた計算上の日数であり、まして、行為から出産までを十ヶ月とした概念の話ではない。
ならば──
(正月の行為によりできた子どもが、十月十日生まれになるのは、明らかに不自然)
紙へ、ゆっくりと書く。
──推定出生時期:八月下旬〜九月上旬
記乃は、その文字を見下ろした。
喉の奥が、僅かに冷える。
もし、本当にそうだとしたら。
(私は、本当に父上の実子なのだろうか)
その瞬間、さらに別の違和感が繋がる。
養父である密記は、会いした遊女と自分の瞳の色が同じだったために拾った、と言っていた。
だがそれ自体が、父上との血縁を証明する理由にならない。
あまりにも単純なことだった。
なぜ、いままで気づかなかったのか。
否、気づかなかったのではない。
気づく必要がなかったのだ。
血縁がなくとも家族であると、幼いころから養父に言われてきたから。
義兄が優しくしてくれたから。
義妹が慕ってくれたから。
もう、充分〝家族〟を得ていたから、気づく必要がなかった。
記乃は、紙へ次々と情報を書き足していく。
──虹彩色、実子根拠として不充分。
──発育状態、栄養不足の考慮必須。
──出生推定時期、不整合。
──証言間、微細差異。
(記録として、不自然)
感情ではない。これは、違和感だ。
記録官としての、自分の中の警鐘だった。
記乃は紙片を束ねると灯りを落とし、布団に寝転ぶ。
いまいち寝付けないのは、蒸し暑さのせいだろうか。
──────────
翌日。
官付の廊下を歩く記乃の足取りは、普段よりもわずかに速かった。
隣には義兄である偵記がいる。
当の偵記本人は、記乃に呼び出された理由を聞かされていない。
ただ、妹が妙に真剣な顔をして「父上の執務室へ同行してください」と言うものだから、半ば押し切られる形でついてきただけだった。
「……で、なんの話なんだよ」
歩きながら、偵記が低く訊ねる。
記乃は前を向いたまま答えた。
「少し待ってほしいのです」
「……」
「確認が取れていないので」
「……わかった」
偵記は納得こそしていないが、記乃の意思を尊重することにした。
そして、記乃は密記の執務室の前で立ち止まった。
襖を叩く。
「父上。記乃です」
「入りなさい」
穏やかな声だった。
室内へ入ると、密記は机に向かったまま、眼鏡越しにこちらを見た。
そして、記乃の表情を見た瞬間、僅かに空気を変える。
「……どうしたんだい」
記乃は、持っていた紙束を机へ置いた。
「確認したいことがあります」
「確認?」
「はい」
記乃は整理した紙を広げて、丁寧に説明する。
時系列。出生推定。証言。記録。
密記は最初こそ穏やかな顔で見ていたが、途中から、徐々に表情を失っていった。
「……待ちなさい」
静かな声だった。
「お前、まさか」
「はい」
記乃は頷く。
「私は、本当に父上の実子なのでしょうか」
沈黙が落ちた。
偵記が、隣で息を止める気配がした。
「待ってくれ。それは……」
「記録上、不整合があります」
記乃は淡々と言う。
「発育状態、出生推定時期、証言内容。それぞれに微妙な齟齬が存在しています」
「だからって、そんな」
「疑わしいのです」
断定ではない。
だが、充分すぎるほど重い言葉だった。
密記は、しばらく黙っていた。
怒るでもなく、否定するでもなく、ただ静かに紙を見ている。
「……仮に、そうだとしよう。そうだとしても、確かめる方法なんて、ないだろう? 彼女はもうこの世にいないんだから」
死人に口なしだ、と、密記は言う。
その声には、少しの戸惑いが混ざっていた。
だが、記乃は首を横へ振る。
「あります」
ふたりの視線が向く。
「最近、軍部や警察で使用され始めたという、遺伝子検査です」
密記の眉が、僅かに動いた。
「それを使わせてもらいます」
「……本気か?」
感情の整理が済んでいない偵記は、少しばかりの光明が差したような気分だった。
密記は、黙っている。
「はい」
記乃は続ける。
「ただし、私と父上だけでは、実子の場合に、どの程度一致するのか比較対象が不足しています」
そこで、偵記を見る。
「兄さんにも検査を受けてもらいます」
「おれもか?」
「紛れもない実子である兄さんの結果と比較すれば、より正確に、私が父上の子かどうか、判断できますから」
偵記は、完全に言葉を失っていた。
密記は、逆に、ゆっくりと息を吐く。
その表情には、不思議と動揺が少なかった。
むしろ──
(……納得している?)
記乃は、そう感じた。
「好きにしなさい」
密記は穏やかに言った。
「お前が納得できる形にするのが、一番だろうからね」
「父上」
「軍部への依頼はこちらで通しておくよ」
その声音には、迷いがない。
まるで、結果を疑っていない人間の態度だった。
執務室を出たあと。
並んで廊下を歩きながら、偵記が低く言う。
「……おまえ、なんでこんな話したんだ」
「兄さんがいけないんですよ」
「おれが?」
「私は、〝あの日〟の責任を取ろうと思って、この方法を考えたんです」
偵記が足を止める。
「……いや」
低い声だった。
「あの日のことなら、責任取るのは、お前じゃなくて、おれだろ」
記乃は、少しだけ首を傾げた。
「拒まなかった私に責任があります」
「おまえなあ……」
「黙って協力してください」
言い切る。
偵記は、しばらく記乃を見ていた。
その顔には、困惑と、理解不能なものを見るような表情が混ざっている。
当然といえば当然だろう。
記乃自身も、自分がなにをしているのか、完全には理解していない。
ただ、記録として不自然。
その違和感だけは、どうしても放置できない。
記乃の起こした行動は、恋愛を成立させるための行動ではない。
それはもっと、単純な──
記録官として、異常を見つけてしまった人間の行動だった。




