第八話 揮発する悪意《後編》
人間は、自分が認められていないと感じた瞬間、急激に焦り始めることがある。
それは承認欲求などという、軽い言葉で片づけられるものではない。
もっと根源的な、生存に近い感覚だ。
ここにいてもいいのだと証明できなければ、いつか排除される。
その恐怖は、ときに身体の限界よりも優先される。
(認められなければならない)
沢辺志乃の事件から数日後。
結城記乃は、官付の廊下を歩いていた。
紙束を抱えて万年筆を帯へ差し込み、記録蔵へ向かう途中だったが、その足取りは普段よりも明らかに重い。
睡眠時間は削れている。
食事量も減っていた。
だが、記乃はそれを問題だとは認識していなかった。
否、正確には──
認識した上で、優先順位を下げていた。
(認められていないから、自分を排除しようとする人間が現れた)
沢辺の言葉が、未だに脳裏へ残っている。
──下賎な出の娘。
──特別扱いされている。
──偉そう。
事実として、記乃は異質だ。
後宮の侍女でありながら頻繁に官付へ出入りし、記録官長補佐として扱われている。
それを快く思わない人間がいても不思議ではない。
だからこそ。
(働きで示さなければ)
自分は役に立つと。
必要なのだと。
ここに置く価値が、しっかりあると。
そう、周囲へ証明し続けなければならない。
その思考が、ここ数日、妙に強くなっていた。
廊下の角を曲がった瞬間、視界がわずかに揺れる。
床板の境界が、ほんの少しだけ滲んだ。
(……立ちくらみ?)
睡眠不足。疲労。食事不足。
原因候補はいくつか浮かぶ。
だが、足は止めない。
止める理由がない。
そう判断した瞬間だった。
身体が、ぐらりと傾く。
「おい」
低い声と同時に、腕を掴まれた。
強い力だが、引き戻す動作は決して乱暴ではない。
記乃の身体が完全に倒れる前に、そのまま支えられる。
見上げると、偵記がいた。
外交官としての仕事を終えた帰りなのだろう。
きっちりと着込まれた洋装は乱れておらず、ただ、その眉間だけが、ひどく深く寄っていた。
「……兄さん」
「立てるか」
「はい」
「嘘をつくんじゃねえよ」
即答だった。
偵記は記乃の腕を離さない。
その視線は鋭い。
だが怒っているというより、苛立ちと焦燥が混ざっているように見えた。
「顔色が悪い。ちゃんと寝てんのか」
「睡眠は取っています」
「何時間」
「……」
「……はあ。答えられねえ時点で終わってんだよ」
記乃は反論しようとして、言葉が止まった。
実際、睡眠時間はかなり削れている。
相良に知られれば、確実に説教される程度には。
「食事は」
「最低限」
「最低限ってなんだ」
「生きるために必要な量です」
「お前なあ……」
偵記は深く息を吐いた。
その呼吸音に、抑えきれない疲労が混ざっている。
「自分が壊れない前提で動きすぎなんだよ」
その言葉に、記乃は目を瞬かせた。
壊れる。
その発想が、そもそも薄い。
倒れる可能性は理解している。
だが、自分自身を〝壊れる物体〟として認識する感覚が、記乃にはあまり存在していなかった。
「ですが」
記乃は静かに言う。
「壊れるからやめる、では、成長はできません」
「だからって、そんなに無茶頑張ったって」
その瞬間、別の声が廊下へ落ちた。
「それは、少々違うと思うが?」
久世恒一だった。
隣には、いつものように従者の三浦伊織が控えている。
久世は足を止めたまま、偵記と記乃を見ていた。
その視線は穏やかだ。
だが、内容は穏やかではない。
「彼女は努力して上へ行こうとしている」
久世は続ける。
「壊れる可能性があるからやめろ、というのは、努力そのものを止める理由にはならないだろう」
偵記の眉が、ぴくりと動いた。
「……努力を否定してるわけじゃねえ」
「なら、なんだ?」
「限度があるって話だ」
声が低くなる。
「こいつ、自分を道具みてえに使うんだよ。壊れたら替えが利くみたいに」
記乃は、その言葉を聞きながら考える。
(替え)
替えが利くかどうか。
その観点では考えていなかった。
自分が動けるなら、動く。
それだけだった。
「兄さん」
記乃は口を開く。
「先日の沢辺志乃さんの件で、私はまだ、周囲から充分に認められていないことが分かりました」
二人の視線が、同時に記乃へ向く。
「彼女は、私を〝特別扱いされている下女〟として認識していました。つまり、働きが評価されているのではなく、贔屓されているように見えていたということです」
言葉は冷静だった。
だが、その奥には焦燥がある。
本人だけが気づいていない種類の焦りだった。
「だから、もっと結果を出さなければなりません」
「記乃」
偵記が低く呼ぶ。
「それでも、急ぎすぎだ」
「急がなければ、間に合わない可能性があります」
「なににだよ」
「……」
記乃は答えなかった。答えられなかった。
自分でも、正確には分かっていない。
ただ、いま止まれば、ここから落ちてゆく。
そんな感覚だけがある。
久世は、その様子を静かに見ていた。
そして、ゆっくりと言う。
「焦る気持ちは理解できる。しかし、その努力は、少なくとも私は認めている」
穏やかな声音だった。
そして、偵記はそれに被せるように言い放つ。
「自分を消耗品扱いするのと努力は別だろ」
その言葉に、記乃は少しだけ目を伏せた。
理解はできる。
偵記の言い分も、久世の言い分も。
どちらも間違っていない。
だからこそ、困る。
(どちらも正しい)
偵記は、自分を心配している。
久世は、自分の努力を認めている。
どちらも理解できる。
だが──
(それでも、私は、早く認められなければならない)
その感覚は、一朝一夕には、消えてくれない。
廊下に沈黙が落ちる。
夏の湿った空気が、じわりと肌へまとわりつく。
遠くで、誰かの足音と紙の擦れる音が聴こえる。
いつも通りの官付の空気。
しかし、その中でなにかが、少しずつ狂い、ずれ始めていた。
偵記は、記乃を守ろうとする。
久世は、記乃を上へ進めようとする。
その方向は似ているようでいて、決定的に違う。
私がすべきことは、いち早く認められること。
でも、それと同時並行で自分の体を大切にしなくてはならない。
その両立は、少し難しい。
元々、白か黒、零か百という性格をしていることは自覚している。
(……焦りが、膨らむ)
行き場のない焦燥感が、記乃の心を蝕む。




