表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第三章 定義解体篇
47/75

第八話 揮発する悪意《後編》

 人間は、自分が認められていないと感じた瞬間、急激に焦り始めることがある。


 それは承認欲求などという、軽い言葉で片づけられるものではない。

 もっと根源的な、生存に近い感覚だ。


 ここにいてもいいのだと証明できなければ、いつか排除される。

 その恐怖は、ときに身体の限界よりも優先される。


(認められなければならない)


 沢辺志乃の事件から数日後。


 結城記乃は、官付の廊下を歩いていた。

 紙束を抱えて万年筆を帯へ差し込み、記録蔵へ向かう途中だったが、その足取りは普段よりも明らかに重い。


 睡眠時間は削れている。

 食事量も減っていた。

 だが、記乃はそれを問題だとは認識していなかった。


 否、正確には──

 認識した上で、優先順位を下げていた。


(認められていないから、自分を排除しようとする人間が現れた)


 沢辺の言葉が、未だに脳裏へ残っている。


 ──下賎な出の娘。

 ──特別扱いされている。

 ──偉そう。


 事実として、記乃は異質だ。

 後宮の侍女でありながら頻繁に官付へ出入りし、記録官長補佐として扱われている。


 それを快く思わない人間がいても不思議ではない。

 だからこそ。


(働きで示さなければ)


 自分は役に立つと。

 必要なのだと。

 ここに置く価値が、しっかりあると。

 そう、周囲へ証明し続けなければならない。


 その思考が、ここ数日、妙に強くなっていた。

 廊下の角を曲がった瞬間、視界がわずかに揺れる。

 床板の境界が、ほんの少しだけ滲んだ。


(……立ちくらみ?)


 睡眠不足。疲労。食事不足。

 原因候補はいくつか浮かぶ。


 だが、足は止めない。

 止める理由がない。


 そう判断した瞬間だった。

 身体が、ぐらりと傾く。


「おい」


 低い声と同時に、腕を掴まれた。

 強い力だが、引き戻す動作は決して乱暴ではない。

 記乃の身体が完全に倒れる前に、そのまま支えられる。


 見上げると、偵記がいた。


 外交官としての仕事を終えた帰りなのだろう。

 きっちりと着込まれた洋装は乱れておらず、ただ、その眉間だけが、ひどく深く寄っていた。


「……兄さん」

「立てるか」

「はい」

「嘘をつくんじゃねえよ」


 即答だった。

 偵記は記乃の腕を離さない。

 その視線は鋭い。

 だが怒っているというより、苛立ちと焦燥が混ざっているように見えた。


「顔色が悪い。ちゃんと寝てんのか」

「睡眠は取っています」

「何時間」

「……」

「……はあ。答えられねえ時点で終わってんだよ」


 記乃は反論しようとして、言葉が止まった。

 実際、睡眠時間はかなり削れている。

 相良に知られれば、確実に説教される程度には。


「食事は」

「最低限」

「最低限ってなんだ」

「生きるために必要な量です」

「お前なあ……」


 偵記は深く息を吐いた。

 その呼吸音に、抑えきれない疲労が混ざっている。


「自分が壊れない前提で動きすぎなんだよ」


 その言葉に、記乃は目を瞬かせた。


 壊れる。

 その発想が、そもそも薄い。

 倒れる可能性は理解している。

 だが、自分自身を〝壊れる物体〟として認識する感覚が、記乃にはあまり存在していなかった。


「ですが」


 記乃は静かに言う。


「壊れるからやめる、では、成長はできません」

「だからって、そんなに無茶頑張ったって」


 その瞬間、別の声が廊下へ落ちた。


「それは、少々違うと思うが?」


 久世恒一だった。

 隣には、いつものように従者の三浦伊織が控えている。


 久世は足を止めたまま、偵記と記乃を見ていた。

 その視線は穏やかだ。

 だが、内容は穏やかではない。


「彼女は努力して上へ行こうとしている」


 久世は続ける。


「壊れる可能性があるからやめろ、というのは、努力そのものを止める理由にはならないだろう」


 偵記の眉が、ぴくりと動いた。


「……努力を否定してるわけじゃねえ」

「なら、なんだ?」

「限度があるって話だ」


 声が低くなる。


「こいつ、自分を道具みてえに使うんだよ。壊れたら替えが利くみたいに」


 記乃は、その言葉を聞きながら考える。


(替え)


 替えが利くかどうか。

 その観点では考えていなかった。

 自分が動けるなら、動く。

 それだけだった。


「兄さん」


 記乃は口を開く。


「先日の沢辺志乃さんの件で、私はまだ、周囲から充分に認められていないことが分かりました」


 二人の視線が、同時に記乃へ向く。


「彼女は、私を〝特別扱いされている下女〟として認識していました。つまり、働きが評価されているのではなく、贔屓されているように見えていたということです」


 言葉は冷静だった。

 だが、その奥には焦燥がある。

 本人だけが気づいていない種類の焦りだった。


「だから、もっと結果を出さなければなりません」

「記乃」


 偵記が低く呼ぶ。


「それでも、急ぎすぎだ」

「急がなければ、間に合わない可能性があります」

「なににだよ」

「……」


 記乃は答えなかった。答えられなかった。

 自分でも、正確には分かっていない。

 ただ、いま止まれば、ここから落ちてゆく。

 そんな感覚だけがある。


 久世は、その様子を静かに見ていた。

 そして、ゆっくりと言う。


「焦る気持ちは理解できる。しかし、その努力は、少なくとも私は認めている」


 穏やかな声音だった。

 そして、偵記はそれに被せるように言い放つ。


「自分を消耗品扱いするのと努力は別だろ」


 その言葉に、記乃は少しだけ目を伏せた。


 理解はできる。

 偵記の言い分も、久世の言い分も。

 どちらも間違っていない。


 だからこそ、困る。


(どちらも正しい)


 偵記は、自分を心配している。

 久世は、自分の努力を認めている。


 どちらも理解できる。

 だが──


(それでも、私は、早く認められなければならない)


 その感覚は、一朝一夕には、消えてくれない。


 廊下に沈黙が落ちる。

 夏の湿った空気が、じわりと肌へまとわりつく。


 遠くで、誰かの足音と紙の擦れる音が聴こえる。

 いつも通りの官付の空気。

 しかし、その中でなにかが、少しずつ狂い、ずれ始めていた。


 偵記は、記乃を守ろうとする。

 久世は、記乃を上へ進めようとする。


 その方向は似ているようでいて、決定的に違う。


 私がすべきことは、いち早く認められること。

 でも、それと同時並行で自分の体を大切にしなくてはならない。

 その両立は、少し難しい。

 元々、白か黒、零か百という性格をしていることは自覚している。


(……焦りが、膨らむ)


 行き場のない焦燥感が、記乃の心を蝕む。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ