第八話 揮発する悪意《前編》
空気は、見えないからこそ扱いづらい。
水であれば濡れる。
火であれば熱を持つ。
刃であれば、触れるよりも前から、肉が切れるので危険だ、と理解できる。
だが、空気に混じったものは、目に映らないまま人間の身体へ入り込み、息をするという当たり前の行為を、そのまま危険へ変えてしまうことがある。
(部屋に、なにかがある)
結城記乃が最初にそう判断したのは、澄子妃の棟にある自室の襖を開ける直前だった。
日中の業務を終え、紙片の束を胸元に収め、部屋へ戻ってきただけのことである。
本来ならば、そこには自分が朝に残したままの空間があるはずだった。
畳、机、筆記具、紙束、最低限の衣類。
記乃の部屋は、生活の場というよりも、記録作業のために整えられた小さな保管室に近い。
余計な装飾はなく、香も焚かない。
それなのに、襖の隙間から、わずかにツンと鼻を刺すような匂いが漏れている。
(……これは、薬品臭……? 油、ではない。まして、香でもない)
記乃は、襖にかけていた手を止めた。
その瞬間、内側から微かな物音がした。
物が落ちた音ではない。
人間の身体が、畳へ沈むような、鈍く柔らかい音だった。
人が倒れた。
直感的に、そして、これまでの経験則により、そう理解する。
「大丈夫ですか!」
半ば反射的に声をかけて、襖を開ける。
部屋の中は、暗くはなかった。
障子越しに夕陽が差し込み、机の輪郭も、畳の目も、床に落ちた影も見える。
だが、その中に、倒れている人間がいた。
同じ棟に住まう、澄子妃付きの侍女のひとりだった。
年は記乃より少し上の、たしか、笠原さんといったはずだ。普段から掃除や衣類の整理をよく手伝っている女性である。
彼女は畳の上に横倒しになり、片手を胸元に置いたまま、浅く息をしていた。
「……」
記乃は、部屋に踏み込むことを、一瞬躊躇した。
漂う刺激臭から、踏み込めば、自分も同じ状態になる可能性があると予測できる。
まずは呼吸。
次に空気。
原因は部屋の中にある。
そう判断するまでに、時間はかからなかった。
ならば、どうするのが、もっとも合理的な判断が?
正しい行動の順序は──
「誰か、相良さんを呼んでください! できれば、すぐに」
廊下の向こうにいた侍女が、記乃の声に気づいて振り返る。
記乃の声は普段と変わらない。
だが、内容だけで異常は伝わったらしい。
「え……」
「部屋には入らないでください。中で人が倒れています。医局へひとを向かわせて、相良要一さんを」
「は、はい!」
侍女が走る。
記乃はその間に、懐から手巾を取り出し、鼻と口元を覆った。
この空気を、吸い込んではいけない。
次に、近くに置かれていた長い掃除用具の柄を、室内の障子を押しつけて、窓を開ける。
障子が開いた途端、外気が入ってくる。
かすかな風が、室内の空気を動かした。
薬品のような匂いが、よりはっきりと鼻を刺す。
(揮発性物質)
香ではない。木炭でもない。
以前扱った一酸化炭素のような、無臭に近いものではなく、明らかな刺激臭がある。
だが、低濃度であれば、すぐには気づかない者もいるだろう。
密閉された部屋で濃度が上がれば、めまい、意識混濁、意識消失を引き起こすのは当然のことだろう。
(気体毒、もしくは麻酔性のある有機溶剤)
記乃は、紙片を取り出しかけて、やめた。
いまは記録より、二次被害の防止が先である。
倒れた侍女はまだ息をしている。
だが、浅い。
このままにするべきではない。
自分はどうなってもいい、などと、そんなことは決して思わない。
しかし、いまなによりも大切なのは、人命。
命は失われてしまえば元には戻らない。
(人を呼ぶ。空気を入れ替える。そして、このひとを部屋から連れ出す)
記乃はその場に膝をつき、口元に手巾を当てたまま、身体をできるだけ低くして、倒れている侍女の元へ近寄る。
足首に触れると、布越しに体温があることが確認できる。
「失礼します」
短く告げ、掴んだ足首を引く。
女の身体が、畳の上をわずかに滑る。
重い。が、それは当然だ。
人間の身体は、意識を失うと、本人が思っているよりずっと重くなる。
記乃は息を止め、もう一度引いた。
肩が襖の敷居を越えたところで、廊下側から手が伸びた。
「結城さん!」
別の侍女だった。
「口元を袖で覆ってください。部屋には入らないで、廊下側から引くのを手伝ってください」
「は、はいっ」
侍女が手伝ってくれたおかげで、倒れていた彼女の身体を廊下へ完全に出すことができた。
室内から完全に離したところで、記乃は手巾を口元から下ろした。
そして、状態を確認する。
呼吸と脈はある。
しかし顔色は悪い。
唇はわずかな青みを帯びている。
(……刺激物質の吸入による、意識消失)
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
速い。が、乱れてはいない。
「記乃!」
相良要一だった。
医局から薬箱を抱え、足早にこちらへ来る。
その顔には、普段の皮肉げな色はない。
医官としての目だった。
「状況は」
「私の部屋で侍女が倒れていました。入室時、薬品に似た刺激臭あり。部屋は密閉されていたため、現在、襖と障子を開放しています。この方が患者です。まずは、廊下へ引き出しました。呼吸は浅いです」
「わかった。お前は? 部屋に入ったか」
「はい、少しだけ。ただ、手巾で口元を押さえて息を止めていました」
「ならいい。念のため、お前もあとで診る」
相良は膝をつき、倒れた侍女の瞼を上げ、呼吸と脈を確認した。
首元へ手を当てる。
次に、口元へ耳を近づける。
「呼吸はある。だが、意識がない時点で異常だ。医局へ運ぶ」
「担架を呼びますか」
「いや、待ってる時間が惜しい。だれか、人手を貸してもらえないか」
周囲にいた侍女たちが、顔を強張らせながらも動く。
相良は短く指示を出した。
「頭を揺らさず、口を閉めさせないように。外気に触れさせたまま運ぶのを手伝ってほしい」
患者は医局へ運ばれていく。
記乃はそれを見送り、それから部屋の入口へ向き直った。
「結城さんも、医局へ」
近くの侍女が言う。
「私は現場の保持をします」
「でも」
「中には入らないでください。物にも触らないで。だれもここに近づけないように、お願いします」
記乃は声を荒げない。
だが、言い切った。
侍女は何か言いかけ、記乃の顔を見て、口を閉じた。
「……わかりました」
廊下に立つ人間の配置を確認する。
襖も障子も開けたまま。
風はしっかり通っている。
それでも、部屋の奥には、まだ薬品臭が残っていた。
(発生源を確認する必要がある)
記乃は部屋の外から視線を走らせた。
机の上。紙束。衣類。畳。窓際。
そして、棚の下。
そこに、小さな布包みが落ちていた。
これは、朝には置いていなかったものだ。
置いた覚えも、見覚えもない。
(異物発見)
ひとが倒れているのだ。
すぐに確認したいところだが、充分に換気し、その上で口元を覆い、できれば相良の確認を得てから入らなくてはならない。
記乃は紙片を取り出し、ようやく書き始めた。
──澄子妃棟、記乃自室。
──侍女一名、意識消失。
──室内、薬品様刺激臭。
──密閉環境。
──揮発性物質の疑い。
──棚下、異物あり。
書きながら、指先が一瞬だけ止まった。
(私の、部屋)
ここは自分の部屋である。
そして、本来、最初に戻るはずだったのは自分だった。
たまたま、別の侍女が気を利かせて掃除に入った。
その結果、倒れた。
(……本来の対象は、私だった可能性がある)
さすがの記乃も、困惑した。
これまで、自分が死ぬ、あるいは殺される可能性を計算したことがないわけではない。
上田千恵の件で、暴力に巻き込まれる可能性を理解したためだ。
だが、自室に仕掛けられる、自分の生活空間に見えない毒物を置かれる、とは──
その事実は、想定よりも不快なものだった。
身体の内側に、冷たいものが落ちる。
(なぜ)
記乃はその問いを、いったん切り離した。
理由より先に、証拠である。
しばらくして、相良が戻ってきた。
額にうっすら汗がある。
「患者は」
「意識はまだ戻らないが、呼吸は安定してきた。命に関わる段階ではない。他の医官に預けてきた」
「よかったです」
「お前は」
相良も、記乃が狙われたという本質には気がついているのだろう。
焦ったような様子で、短く確認される。
「現時点で自覚症状はありません」
「頭痛は」
「ありません」
「吐き気」
「いいえ」
「目の違和感」
「いえ」
そこまで答えて、ようやく相良は少々安堵の表情を見せた。
「ならあとで診る。今は現場か」
「はい。棚の下に異物があります」
相良は部屋の入口に立ち、顔をしかめた。
「まだ匂うな」
「はい」
「口元を覆え。長居するな。あと、これに触れるなら直接ではなく、念のため、布越しに」
「承知しました」
二人は口元を覆い、短時間だけ部屋へ入った。
相良は入口付近で空気を確認し、記乃は棚の下の布包みを、手巾越しに摘み上げる。
かなり水気を含み、湿っている。
開いてみると、中に綿のようなものが詰められており、そこへなにかが染み込ませてある。
鼻を近づけるまでもなく、刺激臭が強い。
「それだな」
「はい」
「絶対に吸うなよ」
「はい」
記乃は布包みを別の厚手の紙に包み、さらに手巾で覆った。
すぐに部屋を出る。
廊下へ戻ると、空気がいくらか軽く感じられた。
相良は低く言う。
「麻酔か、溶剤か……詳しくは調べないと分からないが、閉じた部屋で揮発すれば、倒れてもおかしくない」
「故意に置かれたものと見てよいでしょうか」
「お前の部屋に、勝手にこんなものが湧くなら、それこそ怪異だろ」
「つまり、故意ですね」
「……ああ、そうだよ」
相良の声には、わずかな苛立ちが混じっていた。
医官としての苛立ち。
患者を出したものへの苛立ち。
そして、記乃が狙われた可能性への、別種の苛立ちだった。
「真壁さんへ報告します」
「その前に、お前も医局に来い」
「ですが」
「倒れた女と同じ空気を吸った。短時間でも診る」
「……承知しました」
記乃は従った。
医局で簡単な確認を受け、異常なしと判断された後、真壁の執務室へ向かう。
相良も同行した。
真壁は報告を聞くなり、眉間に深い皺を刻んだ。
「……お前の部屋で?」
「はい」
「倒れたのは」
「澄子妃付きの侍女です。私の部屋を掃除しようとして入室したようです」
「本来は、お前が戻るべき場所だな」
「はい」
真壁は、しばらく黙った。
机の上に置かれた筆の先が、紙に触れないまま止まっている。
「……狙いはお前か」
「その可能性は高いと判断しています」
その言葉を口に出した瞬間、記乃の喉の奥が少しだけ固くなった。
真壁はそれを見逃さなかったが、あえて指摘はしなかった。
「証拠は」
「棚下にあった布包みです。揮発性物質が染み込んでいました。私が朝に部屋を出た時点では、見当たりませんでした」
「出入りできる人間は」
「澄子妃の棟の侍女、下女、ならびに一部の出入りを許された者です」
真壁は相良を見る。
「患者の状態は」
「命に別状はない。だが、濃度や時間次第では危なかった」
「そうか」
真壁の声が低くなる。
「調査する」
「私が行います」
「お前が狙われた可能性があるのに、か」
「だからこそです。私の部屋に置かれた以上、私が普段と異なる点に最も気づけます」
「……護衛をつける」
「承知しました」
拒否はしない。
否、拒否できる状況ではなかった。
最初の聞き取りは、澄子妃の棟から始めた。
倒れた侍女は、ただ善意で部屋へ入っただけだった。
記乃が近頃忙しそうだったから、部屋の掃除をしておこうと思ったのだという。
その言葉を聞いたとき、記乃は一瞬だけ目を伏せた。
(善意が、被害につながった)
その構造は少々、扱いづらい。
自分が狙われた可能性よりも、その事実の方が重く感じられた。
次に、出入りした人間の確認。
澄子妃の侍女たちに不審な動きはない。
下女たちも、記乃の部屋へ入った者はいないと言う。
だが、ひとりの証言で、線が繋がった。
「沢辺様が、いらしていました」
「沢辺様」
「はい。貴妃様付きの侍女の、沢辺志乃様です。澄子様の棟へ書状を届けに」
記乃は紙片に名を書いた。
──沢辺志乃。
──貴妃付き侍女。
──事件前、澄子妃棟へ来訪。
──記乃自室付近を通過した可能性。
沢辺志乃。見覚えはあった。
官付に何度か出入りしているのを、数度、見たことがある。
出入りの要件は、貴妃の申し伝えなどで文書を届けるためと聞いている。
そのたびに、記乃の仕事ぶりをどこか冷ややかに見ていた女だった。
(疎まれている認識は、あった)
だが、殺意に近い行動へ移るほどとは考えていなかった。
記乃は、真壁と護衛を伴って沢辺志乃を呼び出した。
沢辺は整った侍女だった。
年は二十代後半。姿勢も、衣の乱れもなく、顔立ちも落ち着いている。
だが、記乃を見るその視線には、明確な硬さがあった。
「なんでしょうか」
声は冷静だった。
しかし、指先が袖の内側を握っている。
「本日、澄子妃の棟へいらっしゃいましたね」
「はい。書状を届けに」
「私の部屋の前を通りましたか」
「覚えておりません」
早い。
そして否定ではなく、不記憶という反応。
逃げ道を残した答えだった。
「では、こちらに見覚えはありますか」
記乃は、包まれた布片を見せた。
沢辺の顔色がわずかに変わるも、彼女の表情はすぐに冷たいものに戻った。
「ありません」
「これは私の部屋に置かれていました。中には揮発性物質を含ませた綿が入っており、それによって侍女が一名倒れています」
沢辺は、まるで汚らわしいものを見るかのように眉をひそめて、明らかな不機嫌を表に出した。
「それが、私となんの関係が」
「あなたは今日、私の部屋の近くを通ることができる位置にいました」
「それだけで?」
沢辺の声が鋭くなる。
「それだけで、私を疑うのですか。ずいぶん偉くなられたのですね? 結城さん」
言葉に、感情が混じった。
記乃は、それを聞き逃さなかった。
(偉くなった)
その語彙。
そこに、沢辺の認識が出ている。
「私は偉くなったわけではありません」
「では、なぜ官付の方々に重用されているのです」
沢辺の声がわずかに震える。
「後宮の侍女でしかないのに。下賎な出の娘だと聞いています。あなたは結城家の名前を持っているだけで、血筋の者ではないって、噂になってるもの」
そんな噂が流れているのか。
もっとも、どこからでも流れる可能性のある話であるし、少しでも注目されれば、身の上を流布されることはわかっていたが。
それでも少しばかり、不快ではある。
「それなのに、そんななのに……まるで、自分だけが特別な役目を持っているような顔をして」
周囲の空気が冷えていくのがわかる。
真壁の眉が動いたのを、見逃さない。
記乃は、沢辺の言葉を受け止めた。
胸のどこかが、少しだけ鈍く痛む。
だが、痛みは証拠にならない。
「つまり、私を疎ましく思っていたのですね」
「……」
「本来、倒れるはずだったのは私だと考えていましたか」
沢辺の顔が、目に見えて青ざめた。
沈黙。
それが、答えだった。
「倒れたのは、私ではありませんでした」
記乃は言った。
「善意で、掃除のために入った、他の侍女です」
沢辺の唇が震える。
ようやく、そこに衝撃が浮かんだ。
自分が狙った相手ではない人間が倒れた。
その事実が、いまさら彼女の中へ届いたのだろう。
「私に、そんなつもりはありませんでした」
「では、どのようなつもりでしたか」
「少し……少し、懲らしめてやろうと」
「揮発性物質を密閉した部屋に置けば、命に関わる可能性があります」
「知らなかったのよ!」
沢辺の声が崩れた。
「あなたが……あなたが少し、倒れて怪我でもすればいいって、思っただけで……!」
そこまで言って、彼女は自分の言葉の危うさに気づいたらしい。
口を噤む。
その瞬間、真壁が小さく、低く言い放った。
「拘束しろ」
護衛が拘束のために動く。
沢辺は抵抗しなかった。
ただ、顔を青ざめさせたまま、記乃を見ていた。
その目には怒りも、恐怖もある。
そして、ほんのわずかな後悔もあった。
だが、その後悔は、倒れた侍女に向けられたものなのか、自分が捕まったことに対するものなのか、判別できなかった。
記乃は、紙片に書く。
──沢辺志乃。
──貴妃付き侍女。
──記乃への反感。
──揮発性物質設置、自供。
──本来の対象、記乃。
──被害者、別人。
書き終えたあと、万年筆の先が止まった。
(本来の対象、記乃)
もう一度、その文字を見る。
奇妙だった。
自分が狙われたという事実は理解できる。
構造も分かる。
理由も、おそらく分かる。
だが、処理が追いつかない。
(認められていないから)
その言葉が、ふと浮かぶ。
──偉そう。
──特別扱いされている。
──下賎な出のくせに。
そのように見られる程度には、自分の立場は不安定なのだ。
倒れた侍女は医局で眠っている。
沢辺は拘束され、事件は解決した。
それでも、記乃の内側には、解決していないものが残った。
自分がここにいることを、誰もが認めているわけではない。
その事実だけが、あの鼻を突く薬品の匂いのように、いつまでも残っていた。




