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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第三章 定義解体篇
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第八話 揮発する悪意《前編》

 空気は、見えないからこそ扱いづらい。


 水であれば濡れる。

 火であれば熱を持つ。

 刃であれば、触れるよりも前から、肉が切れるので危険だ、と理解できる。


 だが、空気に混じったものは、目に映らないまま人間の身体へ入り込み、息をするという当たり前の行為を、そのまま危険へ変えてしまうことがある。


(部屋に、なにかがある)


 結城記乃が最初にそう判断したのは、澄子妃の棟にある自室の襖を開ける直前だった。


 日中の業務を終え、紙片(メモ)の束を胸元に収め、部屋へ戻ってきただけのことである。


 本来ならば、そこには自分が朝に残したままの空間があるはずだった。

 畳、机、筆記具、紙束、最低限の衣類。

 記乃の部屋は、生活の場というよりも、記録作業のために整えられた小さな保管室に近い。

 余計な装飾はなく、香も焚かない。


 それなのに、襖の隙間から、わずかにツンと鼻を刺すような匂いが漏れている。


(……これは、薬品臭……? 油、ではない。まして、香でもない)


 記乃は、襖にかけていた手を止めた。

 その瞬間、内側から微かな物音がした。

 物が落ちた音ではない。

 人間の身体が、畳へ沈むような、鈍く柔らかい音だった。


 人が倒れた。

 直感的に、そして、これまでの経験則により、そう理解する。


「大丈夫ですか!」


 半ば反射的に声をかけて、襖を開ける。


 部屋の中は、暗くはなかった。

 障子越しに夕陽が差し込み、机の輪郭も、畳の目も、床に落ちた影も見える。

 だが、その中に、倒れている人間がいた。


 同じ棟に住まう、澄子妃付きの侍女のひとりだった。

 年は記乃より少し上の、たしか、笠原さんといったはずだ。普段から掃除や衣類の整理をよく手伝っている女性である。


 彼女は畳の上に横倒しになり、片手を胸元に置いたまま、浅く息をしていた。


「……」


 記乃は、部屋に踏み込むことを、一瞬躊躇した。

 漂う刺激臭から、踏み込めば、自分も同じ状態になる可能性があると予測できる。


 まずは呼吸。

 次に空気。

 原因は部屋の中にある。

 そう判断するまでに、時間はかからなかった。


 ならば、どうするのが、もっとも合理的な判断が?

 正しい行動の順序は──


「誰か、相良さんを呼んでください! できれば、すぐに」


 廊下の向こうにいた侍女が、記乃の声に気づいて振り返る。

 記乃の声は普段と変わらない。

 だが、内容だけで異常は伝わったらしい。


「え……」

「部屋には入らないでください。中で人が倒れています。医局へひとを向かわせて、相良要一さんを」

「は、はい!」


 侍女が走る。

 記乃はその間に、懐から手巾(ハンカチ)を取り出し、鼻と口元を覆った。

 この空気を、吸い込んではいけない。


 次に、近くに置かれていた長い掃除用具の柄を、室内の障子を押しつけて、窓を開ける。

 障子が開いた途端、外気が入ってくる。

 かすかな風が、室内の空気を動かした。

 薬品のような匂いが、よりはっきりと鼻を刺す。


(揮発性物質)


 香ではない。木炭でもない。

 以前扱った一酸化炭素のような、無臭に近いものではなく、明らかな刺激臭がある。


 だが、低濃度であれば、すぐには気づかない者もいるだろう。

 密閉された部屋で濃度が上がれば、めまい、意識混濁、意識消失を引き起こすのは当然のことだろう。


(気体毒、もしくは麻酔性のある有機溶剤)


 記乃は、紙片を取り出しかけて、やめた。

 いまは記録より、二次被害の防止が先である。

 倒れた侍女はまだ息をしている。

 だが、浅い。


 このままにするべきではない。

 自分はどうなってもいい、などと、そんなことは決して思わない。

 しかし、いまなによりも大切なのは、人命。

 命は失われてしまえば元には戻らない。


(人を呼ぶ。空気を入れ替える。そして、このひとを部屋から連れ出す)


 記乃はその場に膝をつき、口元に手巾を当てたまま、身体をできるだけ低くして、倒れている侍女の元へ近寄る。

 足首に触れると、布越しに体温があることが確認できる。


「失礼します」


 短く告げ、掴んだ足首を引く。

 女の身体が、畳の上をわずかに滑る。


 重い。が、それは当然だ。

 人間の身体は、意識を失うと、本人が思っているよりずっと重くなる。


 記乃は息を止め、もう一度引いた。

 肩が襖の敷居を越えたところで、廊下側から手が伸びた。


「結城さん!」


 別の侍女だった。


「口元を袖で覆ってください。部屋には入らないで、廊下側から引くのを手伝ってください」

「は、はいっ」


 侍女が手伝ってくれたおかげで、倒れていた彼女の身体を廊下へ完全に出すことができた。


 室内から完全に離したところで、記乃は手巾を口元から下ろした。

 そして、状態を確認する。


 呼吸と脈はある。

 しかし顔色は悪い。

 唇はわずかな青みを帯びている。


(……刺激物質の吸入による、意識消失)


 そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。

 速い。が、乱れてはいない。


「記乃!」


 相良要一だった。

 医局から薬箱を抱え、足早にこちらへ来る。

 その顔には、普段の皮肉げな色はない。

 医官としての目だった。


「状況は」

「私の部屋で侍女が倒れていました。入室時、薬品に似た刺激臭あり。部屋は密閉されていたため、現在、襖と障子を開放しています。この方が患者です。まずは、廊下へ引き出しました。呼吸は浅いです」

「わかった。お前は? 部屋に入ったか」

「はい、少しだけ。ただ、手巾で口元を押さえて息を止めていました」

「ならいい。念のため、お前もあとで診る」


 相良は膝をつき、倒れた侍女の瞼を上げ、呼吸と脈を確認した。

 首元へ手を当てる。

 次に、口元へ耳を近づける。


「呼吸はある。だが、意識がない時点で異常だ。医局へ運ぶ」

「担架を呼びますか」

「いや、待ってる時間が惜しい。だれか、人手を貸してもらえないか」


 周囲にいた侍女たちが、顔を強張らせながらも動く。

 相良は短く指示を出した。


「頭を揺らさず、口を閉めさせないように。外気に触れさせたまま運ぶのを手伝ってほしい」


 患者は医局へ運ばれていく。

 記乃はそれを見送り、それから部屋の入口へ向き直った。


「結城さんも、医局へ」


 近くの侍女が言う。


「私は現場の保持をします」

「でも」

「中には入らないでください。物にも触らないで。だれもここに近づけないように、お願いします」


 記乃は声を荒げない。

 だが、言い切った。

 侍女は何か言いかけ、記乃の顔を見て、口を閉じた。


「……わかりました」


 廊下に立つ人間の配置を確認する。


 襖も障子も開けたまま。

 風はしっかり通っている。

 それでも、部屋の奥には、まだ薬品臭が残っていた。


(発生源を確認する必要がある)


 記乃は部屋の外から視線を走らせた。


 机の上。紙束。衣類。畳。窓際。

 そして、棚の下。

 そこに、小さな布包みが落ちていた。


 これは、朝には置いていなかったものだ。

 置いた覚えも、見覚えもない。


(異物発見)


 ひとが倒れているのだ。

 すぐに確認したいところだが、充分に換気し、その上で口元を覆い、できれば相良の確認を得てから入らなくてはならない。


 記乃は紙片を取り出し、ようやく書き始めた。


 ──澄子妃棟、記乃自室。

 ──侍女一名、意識消失。

 ──室内、薬品様刺激臭。

 ──密閉環境。

 ──揮発性物質の疑い。

 ──棚下、異物あり。


 書きながら、指先が一瞬だけ止まった。


(私の、部屋)


 ここは自分の部屋である。

 そして、本来、最初に戻るはずだったのは自分だった。

 たまたま、別の侍女が気を利かせて掃除に入った。

 その結果、倒れた。


(……本来の対象は、私だった可能性がある)


 さすがの記乃も、困惑した。


 これまで、自分が死ぬ、あるいは殺される可能性を計算したことがないわけではない。

 上田千恵の件で、暴力に巻き込まれる可能性を理解したためだ。


 だが、自室に仕掛けられる、自分の生活空間に見えない毒物を置かれる、とは──

 その事実は、想定よりも不快なものだった。


 身体の内側に、冷たいものが落ちる。


(なぜ)


 記乃はその問いを、いったん切り離した。

 理由より先に、証拠である。

 しばらくして、相良が戻ってきた。

 額にうっすら汗がある。


「患者は」

「意識はまだ戻らないが、呼吸は安定してきた。命に関わる段階ではない。他の医官に預けてきた」

「よかったです」

「お前は」


 相良も、記乃が狙われたという本質には気がついているのだろう。

 焦ったような様子で、短く確認される。


「現時点で自覚症状はありません」

「頭痛は」

「ありません」

「吐き気」

「いいえ」

「目の違和感」

「いえ」


 そこまで答えて、ようやく相良は少々安堵の表情を見せた。


「ならあとで診る。今は現場か」

「はい。棚の下に異物があります」


 相良は部屋の入口に立ち、顔をしかめた。


「まだ匂うな」

「はい」

「口元を覆え。長居するな。あと、これに触れるなら直接ではなく、念のため、布越しに」

「承知しました」


 二人は口元を覆い、短時間だけ部屋へ入った。

 相良は入口付近で空気を確認し、記乃は棚の下の布包みを、手巾越しに摘み上げる。

 かなり水気を含み、湿っている。

 開いてみると、中に綿のようなものが詰められており、そこへなにかが染み込ませてある。

 鼻を近づけるまでもなく、刺激臭が強い。


「それだな」

「はい」

「絶対に吸うなよ」

「はい」


 記乃は布包みを別の厚手の紙に包み、さらに手巾で覆った。

 すぐに部屋を出る。

 廊下へ戻ると、空気がいくらか軽く感じられた。


 相良は低く言う。


「麻酔か、溶剤か……詳しくは調べないと分からないが、閉じた部屋で揮発すれば、倒れてもおかしくない」

「故意に置かれたものと見てよいでしょうか」

「お前の部屋に、勝手にこんなものが湧くなら、それこそ怪異(オカルト)だろ」

「つまり、故意ですね」

「……ああ、そうだよ」


 相良の声には、わずかな苛立ちが混じっていた。

 医官としての苛立ち。

 患者を出したものへの苛立ち。

 そして、記乃が狙われた可能性への、別種の苛立ちだった。


「真壁さんへ報告します」

「その前に、お前も医局に来い」

「ですが」

「倒れた女と同じ空気を吸った。短時間でも診る」

「……承知しました」


 記乃は従った。

 医局で簡単な確認を受け、異常なしと判断された後、真壁の執務室へ向かう。

 相良も同行した。

 真壁は報告を聞くなり、眉間に深い皺を刻んだ。


「……お前の部屋で?」

「はい」

「倒れたのは」

「澄子妃付きの侍女です。私の部屋を掃除しようとして入室したようです」

「本来は、お前が戻るべき場所だな」

「はい」


 真壁は、しばらく黙った。

 机の上に置かれた筆の先が、紙に触れないまま止まっている。


「……狙いはお前か」

「その可能性は高いと判断しています」


 その言葉を口に出した瞬間、記乃の喉の奥が少しだけ固くなった。

 真壁はそれを見逃さなかったが、あえて指摘はしなかった。


「証拠は」

「棚下にあった布包みです。揮発性物質が染み込んでいました。私が朝に部屋を出た時点では、見当たりませんでした」

「出入りできる人間は」

「澄子妃の棟の侍女、下女、ならびに一部の出入りを許された者です」


 真壁は相良を見る。


「患者の状態は」

「命に別状はない。だが、濃度や時間次第では危なかった」

「そうか」


 真壁の声が低くなる。


「調査する」

「私が行います」

「お前が狙われた可能性があるのに、か」

「だからこそです。私の部屋に置かれた以上、私が普段と異なる点に最も気づけます」

「……護衛をつける」

「承知しました」


 拒否はしない。

 否、拒否できる状況ではなかった。


 最初の聞き取りは、澄子妃の棟から始めた。

 倒れた侍女は、ただ善意で部屋へ入っただけだった。

 記乃が近頃忙しそうだったから、部屋の掃除をしておこうと思ったのだという。


 その言葉を聞いたとき、記乃は一瞬だけ目を伏せた。


(善意が、被害につながった)


 その構造は少々、扱いづらい。

 自分が狙われた可能性よりも、その事実の方が重く感じられた。


 次に、出入りした人間の確認。

 澄子妃の侍女たちに不審な動きはない。

 下女たちも、記乃の部屋へ入った者はいないと言う。

 だが、ひとりの証言で、線が繋がった。


沢辺(さわべ)様が、いらしていました」

「沢辺様」

「はい。貴妃様付きの侍女の、沢辺志乃(しの)様です。澄子様の棟へ書状を届けに」


 記乃は紙片に名を書いた。


 ──沢辺志乃。

 ──貴妃付き侍女。

 ──事件前、澄子妃棟へ来訪。

 ──記乃自室付近を通過した可能性。


 沢辺志乃。見覚えはあった。

 官付に何度か出入りしているのを、数度、見たことがある。

 出入りの要件は、貴妃の申し伝えなどで文書を届けるためと聞いている。


 そのたびに、記乃の仕事ぶりをどこか冷ややかに見ていた女だった。


(疎まれている認識は、あった)


 だが、殺意に近い行動へ移るほどとは考えていなかった。


 記乃は、真壁と護衛を伴って沢辺志乃を呼び出した。

 沢辺は整った侍女だった。

 年は二十代後半。姿勢も、衣の乱れもなく、顔立ちも落ち着いている。


 だが、記乃を見るその視線には、明確な硬さがあった。


「なんでしょうか」


 声は冷静だった。

 しかし、指先が袖の内側を握っている。


「本日、澄子妃の棟へいらっしゃいましたね」

「はい。書状を届けに」

「私の部屋の前を通りましたか」

「覚えておりません」


 早い。

 そして否定ではなく、不記憶という反応。

 逃げ道を残した答えだった。


「では、こちらに見覚えはありますか」


 記乃は、包まれた布片を見せた。

 沢辺の顔色がわずかに変わるも、彼女の表情はすぐに冷たいものに戻った。


「ありません」

「これは私の部屋に置かれていました。中には揮発性物質を含ませた綿が入っており、それによって侍女が一名倒れています」


 沢辺は、まるで汚らわしいものを見るかのように眉をひそめて、明らかな不機嫌を表に出した。


「それが、私となんの関係が」

「あなたは今日、私の部屋の近くを通ることができる位置にいました」

「それだけで?」


 沢辺の声が鋭くなる。


「それだけで、私を疑うのですか。ずいぶん偉くなられたのですね? 結城さん」


 言葉に、感情が混じった。

 記乃は、それを聞き逃さなかった。


(偉くなった)


 その語彙。

 そこに、沢辺の認識が出ている。


「私は偉くなったわけではありません」

「では、なぜ官付の方々に重用されているのです」


 沢辺の声がわずかに震える。


「後宮の侍女でしかないのに。下賎な出の娘だと聞いています。あなたは結城家の名前を持っているだけで、血筋の者ではないって、噂になってるもの」


 そんな噂が流れているのか。

 もっとも、どこからでも流れる可能性のある話であるし、少しでも注目されれば、身の上を流布されることはわかっていたが。

 それでも少しばかり、不快ではある。


「それなのに、そんななのに……まるで、自分だけが特別な役目を持っているような顔をして」


 周囲の空気が冷えていくのがわかる。

 真壁の眉が動いたのを、見逃さない。


 記乃は、沢辺の言葉を受け止めた。

 胸のどこかが、少しだけ鈍く痛む。

 だが、痛みは証拠にならない。


「つまり、私を疎ましく思っていたのですね」

「……」

「本来、倒れるはずだったのは私だと考えていましたか」


 沢辺の顔が、目に見えて青ざめた。

 沈黙。

 それが、答えだった。


「倒れたのは、私ではありませんでした」


 記乃は言った。


「善意で、掃除のために入った、他の侍女です」


 沢辺の唇が震える。

 ようやく、そこに衝撃が浮かんだ。

 自分が狙った相手ではない人間が倒れた。

 その事実が、いまさら彼女の中へ届いたのだろう。


「私に、そんなつもりはありませんでした」

「では、どのようなつもりでしたか」

「少し……少し、懲らしめてやろうと」

「揮発性物質を密閉した部屋に置けば、命に関わる可能性があります」

「知らなかったのよ!」


 沢辺の声が崩れた。


「あなたが……あなたが少し、倒れて怪我でもすればいいって、思っただけで……!」


 そこまで言って、彼女は自分の言葉の危うさに気づいたらしい。

 口を噤む。


 その瞬間、真壁が小さく、低く言い放った。


「拘束しろ」


 護衛が拘束のために動く。

 沢辺は抵抗しなかった。


 ただ、顔を青ざめさせたまま、記乃を見ていた。

 その目には怒りも、恐怖もある。

 そして、ほんのわずかな後悔もあった。

 だが、その後悔は、倒れた侍女に向けられたものなのか、自分が捕まったことに対するものなのか、判別できなかった。


 記乃は、紙片に書く。


 ──沢辺志乃。

 ──貴妃付き侍女。

 ──記乃への反感。

 ──揮発性物質設置、自供。

 ──本来の対象、記乃。

 ──被害者、別人。


 書き終えたあと、万年筆の先が止まった。


(本来の対象、記乃(わたし)


 もう一度、その文字を見る。

 奇妙だった。


 自分が狙われたという事実は理解できる。

 構造も分かる。

 理由も、おそらく分かる。

 だが、処理が追いつかない。


(認められていないから)


 その言葉が、ふと浮かぶ。


 ──偉そう。

 ──特別扱いされている。

 ──下賎な出のくせに。

 そのように見られる程度には、自分の立場は不安定なのだ。


 倒れた侍女は医局で眠っている。

 沢辺は拘束され、事件は解決した。


 それでも、記乃の内側には、解決していないものが残った。

 自分がここにいることを、誰もが認めているわけではない。


 その事実だけが、あの鼻を突く薬品の匂いのように、いつまでも残っていた。

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