第七話 矛盾する記録
人間が同じ出来事を記録したとしても、その内容が一致するとは限らない。
それは記憶の誤差だけでは説明できない場合がある。
むしろ、記録という行為そのものが、観測した事実ではなく、「どの事実を採用するか」という選択の結果である以上、その差異は必然とも言える。
同一の問題に対する四つの報告書。
それらの内容が異なっていると気がついた。
もとより、四人も同一の問題に対する記録をつけていること自体、極めて稀なのだが。
気がついてしまった以上、記乃には、これらの問題をほどく義務があった
(再現できるかどうか)
結城記乃は、問題となっている現場──
後宮内の一角にある井戸の前に立っていた。
石組みの古い井戸は、使用頻度こそ低いものの、完全に放置されているわけではなく、周囲の地面も踏み固められている。
だが、そこにはひとつだけ、明確な違和感があった。
水面が、異様に静かだった。
風が吹いているにもかかわらず、わずかな揺らぎしか生じない。
そして、井戸を覗き込んだ者の中には、「水面に顔が映らなかった」と証言した者がいた。
それが、今回の騒動の発端だった。
──ある者は「自分の顔が消えた」と言い。
──ある者は「知らない顔が浮かんだ」と言い。
──ある者は「何も異常はなかった」と記録している。
(同一現象に対して、観測結果が分岐している)
記乃は井戸の縁に手をかけ、ゆっくりと内部を覗き込んだ。
昼間の光では、特に異常はない。
水面には、自身の顔が問題なく映り込んでいる。
(条件が不足している)
記録の発生時間は、いずれも夜間。
さらに、証言者の多くは「灯りを持っていた」と記されている。
記乃は灯りを用意させた。
揺らぎのある油灯。
周囲に証言者を配置する。
それぞれ、異なる記録を残した者たち。
「まず、同じ条件を再現します」
静かに告げ、灯りを井戸の縁に近づける。
すると、水面に映る像がわずかに歪む。
次に、灯りを少し離す。
今度は、像が暗くなり、輪郭が曖昧になる。
さらに、角度を変える。
その瞬間。
「……っ」
ひとりが息を呑んだ。
「どうしましたか」
「……顔が……」
井戸の中を指差す。
記乃は同じ位置から覗き込む。
水面には、確かに顔が映っている。
だが、それは完全な像ではない。
光の反射が不安定なため、目や口の位置がわずかにずれて見える。
結果として、別人のように見える。
(像の歪み)
記乃は紙片に記す。
──水面反射不安定。
──光源位置依存。
──輪郭崩壊。
別の証言者に位置を変えさせる。
「……見えません」
即答だった。
「顔が、ですか」
「はい。暗くて、映っていないように見えます」
(光量不足による視認不能)
さらに、別の者。
「……顔があります。知らない人です」
声が震えている。
(既知像との差異による異物認識)
記乃は静かに息を吐いた。
(再現成立)
同一の井戸。同一の水面。
だが、光の位置、角度、心理状態によって、見え方は大きく変わる。
それ自体は説明できる。
それでも──
(……記録の差異は、ここでは説明しきれない)
問題は、その先にある。
なぜ、原因の記述が分かれたのか。
それから、記録作成者を順に呼び出す。
「なぜ、異常なしと判断しましたか」
「再現性がなかったためです。私が確認した際には、通常通りの反射しか見られませんでした」
(安定化志向)
次の者にも訊ねる。
「なぜ、精神的要因と記録しましたか」
「証言者が強い恐怖を示していたためです。視覚よりも心理状態を優先しました」
(心理優先)
また、次。
「なぜ、原因不明としましたか」
「……判断を下せる材料が不足していましたので」
(責任回避)
さらに。
もう一人。
記乃はその人物の記録を取り上げる。
「なぜ、あなたは〝異常現象〟と記述したのですか」
その人物は、一瞬だけ視線を逸らした。
「……その方が、通りやすいからです」
「通る?」
「はい。上に報告する際、原因不明よりも〝異常〟とした方が、対応が早くなることがあります」
記乃はわずかに目を細めた。
(……意図的な変換)
紙片に記す。
──処理速度優先。
──誇張表現採用。
(すべてが繋がる)
同一現象。
観測条件による認識差。
そして、その上に重なる。
立場。都合。目的。
記録は、事実の写しではない。
(……選択された、記録の矛盾)
翌日。
「……つまり」
真壁が低く言う。
「事実はひとつだが、記録は複数存在する、ということか」
「はい」
「そして、そのどれもが、完全には正しくない」
「はい」
記乃は頷く。
「さらに」
紙片を一枚差し出す。
「最も現象に近い記録は、採用されていません」
「……なぜだ」
「扱いにくいためです」
即答だった。
「説明が複雑で、責任の所在が曖昧になるため、より単純な記述が優先されたと推測されます」
真壁はしばらく黙り込んだ。
「……正しいものほど、使われない、か」
「はい」
「皮肉な話だな」
「事実です」
廊下を歩く。
夏の乾いた空気が漂っている。
変わらない環境。
だが、記乃の中ではひとつの認識が書き換わっていた。
(記録は、必ずしも正しさだけでは機能しない)
正確であること。再現可能であること。
それだけでは足りない。
(使われる形でなければ、意味を持たない)
紙片を取り出す。
──正確性と採用性は別。
──記録は選択される。
──意図が介在する。
──完全な客観は存在しない。
万年筆を収める。
(……記録において、なにを残すべきか)
問いは残る。
だが、その前提は変わった。
記録とは、事実を固定するものではない。
事実がどのように変形されるかを、追跡するためのものでもある。
記乃は静かに歩き出した。
その足取りは変わらない。
だが、見ているものは、確実にひとつ増えていた。




