第六話 憂鬱
人間の感情というものは、名前を与えた瞬間に扱いやすくなる場合もあれば、逆に、その名前によって逃げ場を失う場合もある。
好意、親愛、憧憬、恋慕……
それらは似ているようでいて、決して同じものではない。
けれど境界は、紙に引いた線のように明瞭ではなく、光の薄い水面に映る影のように、角度を変えるだけで形を変えてしまう。
(……いったい、兄さんはどんな気持ちで)
結城記乃は、布団の上で、ぼんやりと天井を見上げていた。
久しぶりの休暇だった。
本来であれば、休暇とは身体を休めるために存在する制度であり、与えられた以上は、効率よく消費すべきものだ。だが、今日の記乃は、朝から起き上がることすらできずにいた。
体が重い。
熱があるわけではない。頭痛もない。吐き気も、めまいも、明確な症状として分類できるほどではない。
それでも、身体の芯に湿った布を巻きつけられたような重さがあり、動こうとするたび、内側から制止されるような感覚があった。
(単なる身体疲労、だろうか)
そう分類することはできる。
だが、それだけでは説明が足りなかった。
昨日の出来事が、頭の中で何度も形を変えて浮かび上がる。
休憩室、湯気、茶の匂い。
背後から落ちた影。
壁に追いやられた自分。
そして、偵記の顔。
いつも不機嫌そうで、口が悪く、けれど根はひどく不器用なほど優しい義兄の顔が、あのときだけは、苦しげに歪んでいた。
怒っていたわけではない。
ただ欲していたわけでもない。
悔しさと、苦しさと、諦めと、それでも手放せない何かが混ざったような顔だった。
(兄さんが私に恋情を抱いていることは、充分すぎるほど理解した)
その理解自体は難しくない。
言葉も、態度も、距離も、すべてがひとつの方向を示していた。
問題は、その先だった。
(私は、あのとき、なぜ拒まなかったんだろう)
拒めなかったわけではない。
首を振ることも、押し返すことも、距離を取ることもできた。偵記は記乃を傷つけるような人間ではない。
明確に拒めば、必ず止まっただろう。
それなのに、記乃は拒まなかった。
その事実が、もっとも扱いづらかった。
障子越しに射し込む日光が、部屋の中をじんわりと照らしている。
夏の空気は重く、畳の匂いに湿気が混じっていた。風はほとんど動かず、室内は静かで、静かすぎるがゆえに、自分の思考だけがやけに大きく響いている。
(……拒もうと思えば、そうもできた。それなのに)
記乃は寝返りを打った。
髪が頬にかかる。
そこで初めて、今朝から髪を梳かしていないことに気づいた。
(……だらしない)
自分でも珍しいと思う。
日ごろは、起床後すぐに身支度を整える。記録を扱う人間が、自分の状態管理すらできないのは効率が悪い。そう考えているからだ。
だが、今日は違う。
布団から起き上がる気力すらない。
眠ってしまえれば、考えなくて済む。
そう思うのに、日中に眠る習慣がないためか、意識は妙に冴えていた。
そのとき、襖を叩く音がした。
「どなたですか?」
「私だよ。私」
軽薄で、妙に間延びした声。
化野幽だった。
「着替えますので、待っていてください」
「記乃ちゃんでも、こんな時間まで寝巻きのことあるんだ? いいよ。そのままで」
「そういうわけにはいきません」
記乃は重い身体を起こし、近くに畳んでいた絽の着物を羽織った。帯は半幅帯で簡単に締める。
最低限、人前に出られる程度には身だしなみを戻してから、襖を開ける。
化野は、案の定、煙管を片手に立っていた。火は入っていない。ただ指先で弄んでいるだけだ。
「今日は休日だって聞いたんだけどねえ。医局に顔を出すでもなく、官付をうろつくでもなく、部屋にいるって言うから、心配で来たんだよ」
「心配、ですか」
「そうそう。心配」
化野はにこにこと笑う。
記乃はそれをそのまま信じることはしなかった。
(心配というより、面白半分の見物では)
ただ、本心は分からない。
そして、いまの記乃には、他人の本心を細かく推測する余力がなかった。
化野は部屋に入るなり、記乃を上から下まで眺める。
「髪を結うことも忘れるくらい、思い悩んでいるのかな」
その言葉で、記乃は改めて自分の髪に触れた。
梳かしてすらいない。
「……失念していました」
「なんだか、弱っているようにも見えるね」
化野は遠慮なく言った。
ずけずけと、人の内側に踏み込んでくる。
だが、不思議と不快ではなかった。
むしろ、いまの記乃にとっては、その踏み込み方がありがたかった。遠回しに気遣われるより、状態をそのまま指摘される方が、処理しやすい。
「……詳しくは、話せないんですが」
「うん?」
「異性から、思いもよらぬ好意を抱かれていたと分かったとき、一般的に、どう振る舞うものでしょうか」
化野は一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、煙管の先を顎に当て、意外なほど真面目な顔をした。
「そのひとを、自分も好きかどうかで決めるんじゃないかな」
「好きかどうか」
「うん。まずはそこだろうねえ」
記乃は、化野の言葉を自分の状況に当てはめる。
偵記のことは好きだ。
それは疑う必要がない。
だが、それが偵記の望む種類の好意なのかと問われると、判断が止まる。
私は、兄さんが望む意味で兄さんを好きなのだろうか?
少し考えただけでは分からない。
しかし、行動の上では、受け入れているから、厄介だ。
「では、自分がそのひとに恋情を抱いているかどうか、確かめる方法はありますか」
「……要するに、なにも分からないってことで合ってる?」
「そうなります」
「不器用だねえ。まったく」
化野は呆れたように笑ったが、その声には突き放す響きはなかった。
「そうだね……そのひとと触れ合いたい、とかは、わかりやすい指標だとされているかな。特別に扱われたい、みたいな、そういうものは恋情と結びつきやすい」
「特別、ですか?」
「たとえば、そうだなあ。口付けされたい、とか、夜を共にしたい、とか」
「……それは、性愛とはまた違うのですか」
「恋情の中に、性愛が含まれる場合が多い、とされているんだよ。ただ、性愛を伴わない恋情というものもあるから、一概には言えない」
「では、どうやって」
記乃は困った。
化野はその顔を見て、今度こそ少しだけ面白そうに目を細めた。
「まず、記乃ちゃんにそういう欲の類が存在するのか、という問題じゃない?」
化野は、一寸の意地悪を込めた問い方をした。
「おそらくあります」
しかし、記乃は即答した。
化野が、珍しく呆気に取られる。
「……へえ」
「性欲は、人間の基本的な欲のひとつとされています。私は、食欲も睡眠欲も存在しますし、それらの欲のうち、ひとつも欠けていないという自覚があります」
記乃は、極めて淡白で、欲のない人間だと思っていたが、どうも違うらしい。
「なんだか意外だねえ」
「そうでしょうか」
「うん。君、そういうものを全部、観察対象みたいに扱ってそうだから」
「自分の身体機能も、観察対象にはなります」
「そういうところだよ」
化野はくつくつと笑い、それから少しだけ声を落とした。
「じゃあ次は、その欲や感情が、そのひとに向くのかどうかだ」
記乃は考える。
偵記の、きりりとした顔立ち。
骨ばった手。
低い声。
怒ったように見えて、いつも記乃の不調を見落とさない目線。
昨日の苦しそうな表情。
そして、それを拒まなかった自分。
言葉にしようとすると、胸の奥が少しだけ詰まる。
「……傍にいたい、とは思います」
化野は、静かに頷いた。
「それは、かなり大きいと思うけれどね」
「そうなんですか」
「少なくとも、どうでもいい相手には思わないことだよ」
記乃は、その言葉を内部へ置いた。
どうでもよくない。
それはわかる。わかっていた。
最後に、もうひとつだけ訊ねる。
「これで最後なのですが」
「うん」
「その相手が、本来、恋情を抱くこと自体を禁忌とされている立場の方だったら、どうすべきでしょうか」
化野の目が、わずかに鋭くなった。
「そんな危ない恋なのかい?」
「危ないといえば、危ないかもしれません」
「……ひとは見かけによらないねえ」
化野はしばらく黙った。
ふざけるかと思ったが、すぐには言葉を返さない。
やがて、ふっと笑う。
「規則を、ぶっ壊したらいいんじゃないかな」
「ふざけている場合ではないのですが」
「ふざけてないよ」
化野は笑っている。
だが、その目は笑っていなかった。
「禁忌っていうのはね、人間が作った線だ。もちろん、全部壊していいとは言わない。壊したら人間が死ぬ線もある。けれど、だれかを守るためじゃなく、だれかを縛るためだけに残っている線なら、疑う価値はある」
記乃は黙った。
「まあ、君がどうするかは君が決めることだよ。けれど、線があるから諦める、という結論だけは、少々もったいないんじゃない?」
その言葉は、妙に残った。
記乃は小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
「少し元気出たみたいだねえ」
「そう見えますか」
「見えるよ」
化野は立ち上がり、懐から包みを取り出した。
「見舞いの品。下町で買ったみたらし団子」
「なぜ団子を」
「甘いものは、だいたいの憂鬱に効く」
「医学的根拠は」
「知らないねえ。ほら、私、医者じゃなくて民俗学者だから」
化野はけらけら笑い、部屋を出ていった。
残された記乃は、包みを見下ろす。
みたらしの甘辛い匂いが、紙越しにわずかに漂っている。
(暫定的に、この気持ちを恋慕としよう)
そう分類することにした。
偵記には、時が来たら伝えればいい。
ただし、周囲に悟られてはいけない。
周囲から見れば、自分たちはただの兄妹である。それらしい動きをすれば、悪く言われるのはおそらく偵記の方だ。
(それは、避けるべき)
兄さんが悪く言われるのは、嫌だ。
記乃は団子の包みを脇へ置き、ゆっくりと障子の方を見る。
日光はまだ、部屋をじんわりと照らしていた。
規則を、ぶっ壊したらいい。
化野の言葉が、胸の内側で静かに燃えている。
炎なんて大層なものではない。
けれど、消えない熱だった。




