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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第三章 定義解体篇
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第六話 憂鬱

 人間の感情というものは、名前を与えた瞬間に扱いやすくなる場合もあれば、逆に、その名前によって逃げ場を失う場合もある。


 好意、親愛、憧憬、恋慕……

 それらは似ているようでいて、決して同じものではない。


 けれど境界は、紙に引いた線のように明瞭ではなく、光の薄い水面に映る影のように、角度を変えるだけで形を変えてしまう。


(……いったい、兄さんはどんな気持ちで)


 結城記乃は、布団の上で、ぼんやりと天井を見上げていた。


 久しぶりの休暇だった。

 本来であれば、休暇とは身体を休めるために存在する制度であり、与えられた以上は、効率よく消費すべきものだ。だが、今日の記乃は、朝から起き上がることすらできずにいた。


 体が重い。

 熱があるわけではない。頭痛もない。吐き気も、めまいも、明確な症状として分類できるほどではない。

 それでも、身体の芯に湿った布を巻きつけられたような重さがあり、動こうとするたび、内側から制止されるような感覚があった。


(単なる身体疲労、だろうか)


 そう分類することはできる。

 だが、それだけでは説明が足りなかった。

 昨日の出来事が、頭の中で何度も形を変えて浮かび上がる。


 休憩室、湯気、茶の匂い。

 背後から落ちた影。

 壁に追いやられた自分。

 そして、偵記の顔。


 いつも不機嫌そうで、口が悪く、けれど根はひどく不器用なほど優しい義兄(あに)の顔が、あのときだけは、苦しげに歪んでいた。


 怒っていたわけではない。

 ただ欲していたわけでもない。

 悔しさと、苦しさと、諦めと、それでも手放せない何かが混ざったような顔だった。


(兄さんが私に恋情を抱いていることは、充分すぎるほど理解した)


 その理解自体は難しくない。

 言葉も、態度も、距離も、すべてがひとつの方向を示していた。


 問題は、その先だった。


(私は、あのとき、なぜ拒まなかったんだろう)


 拒めなかったわけではない。

 首を振ることも、押し返すことも、距離を取ることもできた。偵記は記乃を傷つけるような人間ではない。

 明確に拒めば、必ず止まっただろう。


 それなのに、記乃は拒まなかった。

 その事実が、もっとも扱いづらかった。


 障子越しに射し込む日光が、部屋の中をじんわりと照らしている。

 夏の空気は重く、畳の匂いに湿気が混じっていた。風はほとんど動かず、室内は静かで、静かすぎるがゆえに、自分の思考だけがやけに大きく響いている。


(……拒もうと思えば、そうもできた。それなのに)


 記乃は寝返りを打った。

 髪が頬にかかる。

 そこで初めて、今朝から髪を梳かしていないことに気づいた。


(……だらしない)


 自分でも珍しいと思う。

 日ごろは、起床後すぐに身支度を整える。記録を扱う人間が、自分の状態管理すらできないのは効率が悪い。そう考えているからだ。


 だが、今日は違う。

 布団から起き上がる気力すらない。

 眠ってしまえれば、考えなくて済む。

 そう思うのに、日中に眠る習慣がないためか、意識は妙に冴えていた。


 そのとき、襖を叩く音がした。


「どなたですか?」

「私だよ。私」


 軽薄で、妙に間延びした声。

 化野幽だった。


「着替えますので、待っていてください」

「記乃ちゃんでも、こんな時間まで寝巻きのことあるんだ? いいよ。そのままで」

「そういうわけにはいきません」


 記乃は重い身体を起こし、近くに畳んでいた絽の着物を羽織った。帯は半幅帯で簡単に締める。

 最低限、人前に出られる程度には身だしなみを戻してから、襖を開ける。


 化野は、案の定、煙管を片手に立っていた。火は入っていない。ただ指先で弄んでいるだけだ。


「今日は休日だって聞いたんだけどねえ。医局に顔を出すでもなく、官付をうろつくでもなく、部屋にいるって言うから、心配で来たんだよ」

「心配、ですか」

「そうそう。心配」


 化野はにこにこと笑う。

 記乃はそれをそのまま信じることはしなかった。


(心配というより、面白半分の見物では)


 ただ、本心は分からない。

 そして、いまの記乃には、他人の本心を細かく推測する余力がなかった。

 化野は部屋に入るなり、記乃を上から下まで眺める。


「髪を結うことも忘れるくらい、思い悩んでいるのかな」


 その言葉で、記乃は改めて自分の髪に触れた。

 梳かしてすらいない。


「……失念していました」

「なんだか、弱っているようにも見えるね」


 化野は遠慮なく言った。

 ずけずけと、人の内側に踏み込んでくる。

 だが、不思議と不快ではなかった。

 むしろ、いまの記乃にとっては、その踏み込み方がありがたかった。遠回しに気遣われるより、状態をそのまま指摘される方が、処理しやすい。


「……詳しくは、話せないんですが」

「うん?」

「異性から、思いもよらぬ好意を抱かれていたと分かったとき、一般的に、どう振る舞うものでしょうか」


 化野は一瞬だけ目を瞬かせた。

 それから、煙管の先を顎に当て、意外なほど真面目な顔をした。


「そのひとを、自分も好きかどうかで決めるんじゃないかな」

「好きかどうか」

「うん。まずはそこだろうねえ」


 記乃は、化野の言葉を自分の状況に当てはめる。

 偵記のことは好きだ。

 それは疑う必要がない。

 だが、それが偵記の望む種類の好意なのかと問われると、判断が止まる。


 私は、兄さんが望む意味で兄さんを好きなのだろうか?

 少し考えただけでは分からない。

 しかし、行動の上では、受け入れているから、厄介だ。


「では、自分がそのひとに恋情を抱いているかどうか、確かめる方法はありますか」

「……要するに、なにも分からないってことで合ってる?」

「そうなります」

「不器用だねえ。まったく」


 化野は呆れたように笑ったが、その声には突き放す響きはなかった。


「そうだね……そのひとと触れ合いたい、とかは、わかりやすい指標だとされているかな。特別に扱われたい、みたいな、そういうものは恋情と結びつきやすい」

「特別、ですか?」

「たとえば、そうだなあ。口付けされたい、とか、夜を共にしたい、とか」

「……それは、性愛とはまた違うのですか」

「恋情の中に、性愛が含まれる場合が多い、とされているんだよ。ただ、性愛を伴わない恋情というものもあるから、一概には言えない」

「では、どうやって」


 記乃は困った。

 化野はその顔を見て、今度こそ少しだけ面白そうに目を細めた。


「まず、記乃ちゃんにそういう欲の類が存在するのか、という問題じゃない?」


 化野は、一寸(ちょっと)の意地悪を込めた問い方をした。


「おそらくあります」


 しかし、記乃は即答した。

 化野が、珍しく呆気に取られる。


「……へえ」

「性欲は、人間の基本的な欲のひとつとされています。私は、食欲も睡眠欲も存在しますし、それらの欲のうち、ひとつも欠けていないという自覚があります」


 記乃は、極めて淡白で、欲のない人間だと思っていたが、どうも違うらしい。


「なんだか意外だねえ」

「そうでしょうか」

「うん。君、そういうものを全部、観察対象みたいに扱ってそうだから」

「自分の身体機能も、観察対象にはなります」

「そういうところだよ」


 化野はくつくつと笑い、それから少しだけ声を落とした。


「じゃあ次は、その欲や感情が、そのひとに向くのかどうかだ」


 記乃は考える。


 偵記の、きりりとした顔立ち。

 骨ばった手。

 低い声。

 怒ったように見えて、いつも記乃の不調を見落とさない目線。


 昨日の苦しそうな表情。

 そして、それを拒まなかった自分。


 言葉にしようとすると、胸の奥が少しだけ詰まる。


「……傍にいたい、とは思います」


 化野は、静かに頷いた。


「それは、かなり大きいと思うけれどね」

「そうなんですか」

「少なくとも、どうでもいい相手には思わないことだよ」


 記乃は、その言葉を内部へ置いた。


 どうでもよくない。

 それはわかる。わかっていた。


 最後に、もうひとつだけ訊ねる。


「これで最後なのですが」

「うん」

「その相手が、本来、恋情を抱くこと自体を禁忌(タブー)とされている立場の方だったら、どうすべきでしょうか」


 化野の目が、わずかに鋭くなった。


「そんな危ない恋なのかい?」

「危ないといえば、危ないかもしれません」

「……ひとは見かけによらないねえ」


 化野はしばらく黙った。

 ふざけるかと思ったが、すぐには言葉を返さない。


 やがて、ふっと笑う。


規則(ルール)を、ぶっ壊したらいいんじゃないかな」

「ふざけている場合ではないのですが」

「ふざけてないよ」


 化野は笑っている。

 だが、その目は笑っていなかった。


「禁忌っていうのはね、人間が作った線だ。もちろん、全部壊していいとは言わない。壊したら人間が死ぬ線もある。けれど、だれかを守るためじゃなく、だれかを縛るためだけに残っている線なら、疑う価値はある」


 記乃は黙った。


「まあ、君がどうするかは君が決めることだよ。けれど、線があるから諦める、という結論だけは、少々もったいないんじゃない?」


 その言葉は、妙に残った。

 記乃は小さく頭を下げる。


「ありがとうございます」

「少し元気出たみたいだねえ」

「そう見えますか」

「見えるよ」


 化野は立ち上がり、懐から包みを取り出した。


「見舞いの品。下町で買ったみたらし団子」

「なぜ団子を」

「甘いものは、だいたいの憂鬱に効く」

「医学的根拠は」

「知らないねえ。ほら、私、医者じゃなくて民俗学者だから」


 化野はけらけら笑い、部屋を出ていった。


 残された記乃は、包みを見下ろす。

 みたらしの甘辛い匂いが、紙越しにわずかに漂っている。


(暫定的に、この気持ちを恋慕としよう)


 そう分類することにした。


 偵記には、時が来たら伝えればいい。


 ただし、周囲に悟られてはいけない。

 周囲から見れば、自分たちはただの兄妹である。それらしい動きをすれば、悪く言われるのはおそらく偵記の方だ。


(それは、避けるべき)


 兄さんが悪く言われるのは、嫌だ。


 記乃は団子の包みを脇へ置き、ゆっくりと障子の方を見る。

 日光はまだ、部屋をじんわりと照らしていた。


 規則を、ぶっ壊したらいい。


 化野の言葉が、胸の内側で静かに燃えている。


 炎なんて大層なものではない。

 けれど、消えない熱だった。


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