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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第三章 定義解体篇
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第五話 苦悩

※兄の恋慕が描かれます。

※性的な描写はありません。

 人間という生物は必ずしも、事実を知ることで必ずしも行動を決定できるわけではない。


 むしろ、その事実がこれまでの関係や認識を揺らすものであればあるほど、判断は遅れ、選択は曖昧になり、結果として距離や沈黙という形で現れることがある。

 それは拒絶ではなく、処理の停滞に近い。


 だが、受け取る側にとっては、その差異を識別することは容易ではない。


(……避けられている)


 結城記乃は、官付の廊下の向こうを歩いていく背中を見ながら、そう結論づけていた。

 声をかければ、返事はある。

 言葉も返ってくる。

 だが、そのすべてが、わずかに遠い。


「兄さん」


 呼びかけると、偵記(さだとし)は足を止めた。

 振り返る動作も、普段と変わらない。

 視線も、まっすぐに向けられる。


「……なんだ」


 声音も、特別変わったところはない。

 だが、その中に含まれる温度が、以前よりも一段階だけ、低い。


「先日の件について、少し確認を」

「後でいいか」


 ああ。短い。


 ──必要最低限。


 それ以上は続かない。


 以前であれば、その場で聞くくらいの余裕はあった。

 あるいは、軽口のひとつでも挟まれただろう。

 だが、いまは違う。


「……承知しました」


 記乃はそれ以上踏み込まない。

 踏み込めない、ではなく、踏み込む合理性が見当たらないと判断したためだ。

 だが、その判断の奥に、わずかに引っかかるものが残る。


(処理の遅延)


 それは感情として明確な形を持たない。

 ただ、ほんの少しだけ、胸の奥に違和感が残る。


(……これは、なんだ)


 分析しようとする。

 だが、適切な分類が見つからない。

 そのまま、記乃は官付の執務室へと向かった。



──────────



 室内は、いつも通り整然としていた。

 紙と墨の匂い。一定の湿度。均質な光。

 思考を乱す要素はない。


 真壁孝二郎は、机に向かったまま書類に目を通している。

 筆先が滑る音だけが、静かに響いていた。


「失礼いたします」

「……ああ」


 視線は上げない。

 だが、入室は許可されている。


 記乃は定位置に立ち、報告を開始する。

 内容は簡潔に、順序立てて。

 現象。処理。結果。問題点。


 すべてを述べ終えたあと、わずかな間を置く。


「以上です」

「……よし」


 短い評価。

 それを確認し、記乃はそのまま続けた。


「もう一点、よろしいでしょうか」


 真壁の手が、わずかに止まる。

 そして、顔を上げた。


「なんだ」


 記乃は、少しだけ間を置いてから言った。


「兄さんに避けられているんです」


 その瞬間。

 カラン、と軽い音が響いた。

 真壁の手から、筆が落ちていた。


「……お前、それは雑談か……?」

「いえ、悩みです」

「悩み相談!?」


 真壁は思わず椅子から立ち上がった。

 声が、普段よりも一段高い。


 すぐに我に返った真壁は、はっとして座り直し、咳払いをひとつ。


「……お前も人の子だったんだな。まさか、上司に悩み相談とは……」

「人の形をしているのに人の子ではないなどということがあれば、それこそ怪異(オカルト)の類です」

「比喩だ」

「わかっています」

「冗談が通じないやつだと思われるぞ」


 多少の心配の色。

 しかし、そんな心配は記乃にとって、いまは優先順位の低い出来事であった。


「だれにですか?」

「……もういい。それで?」


 真壁は額を押さえながら、話の続きを促した。


 記乃は、先日の密記(みつとし)の話をそのまま述べた。


 順序も内容も、余計な感情を挟まず、ただ事実として。


 真壁の表情が、途中で明らかに変わる。


「……それは俺に言っていい内容か?」

「すみません。ご存知かと思ったのですが」

「知るわけがないだろう」


 即答だった。

 記乃は小さく頷く。


(……父上と真壁さんは、仲がいいのだと思っていたが)


 だが、その仮定はすぐに破棄された。


(冷静さを欠いていたみたいだ。考えてみればわかる。家族にも隠していたことを、職場の後輩に話す理由はない)


 当然の結論だった。


「その話を聞いてからなんです。兄さんが私を避けるようになったのは」


 真壁は、しばらく黙った。


(……あいつは)


 脳裏に、偵記の顔が浮かぶ。

 荒い言動。鋭い視線。

 だが──


(あいつは、こいつに甘い)


 それは、誰の目にも明らかだった。

 そして。


(血が繋がっていない……年の近い異性)


 そこまで思考が進んで、止まる。


(……そういうことか)


 理解はできる。

 だが、それを口に出すことはできない。


「……」


 沈黙。

 真壁は顎に手を当てた。


 どうしたものか。

 もっとも、偵記だって困惑していることだろう。

 普通、妹に恋慕を抱くなんてことは考えられないことだが……

 偵記にその感情が芽生えたのは、記乃が〝拾われてきた子〟という前提があったからだ。

 それを、いまさら「やっぱり違いました」なんて言うのは、残酷なことだ。


 そのとき。

 執務室の襖が音を立てて開いた。


「……失礼する」


 偵記だった。

 手には書類。


(まずい)


 真壁の思考が一瞬で切り替わる。


「あ。兄さん」


 記乃は、至って普通に話しかける。

 が、偵記はすぐに視線を逸らす。


「……じゃあ、真壁さん。報告書に目え通しといてくれ」


 当たり前の反応だ。


「いまちょうど、真壁さんに兄さんのことで相談していたんですよ」


(なんでそれを俺の前で本人に言うんだ)


「は?」


(それが正しい反応だろうな)


「真壁さん、ほんとか?」


 この兄妹は、本当になんなのか。

 どんなつもりで自分を間において会話しているのか。


「お前たち、俺を巻き込むな。よそでやれ」


 即座に切り捨てる。

 次の瞬間には、ふたりとも廊下へと押し出されていた。



──────────



 追い出された記乃と偵記の間に、少しの沈黙が流れる。

 それを破ったのは、記乃の方だった。


「追い出されてしまいましたね」


 すると、偵記は予想外なことに、避けるような態度を見せなかった。


「……なにを相談してたんだよ」


 記乃はそこですっかり安心した。


「いえ、いま解決したので、もう大丈夫です」

「はあ?」

「では」

「おい。逃げんな」


 ぐい、と首根っこを掴まれる。

 記乃の体が軽く引き戻される。


 身八つ口から指先侵入し、脇腹に触れる。

 くすぐられる。


「……っ、やめてください……っ」


 耐えようとする。

 だが、耐えきれない。


「あはははっ……!」


 声が漏れる。

 恐らく、この官付にいるだれもが聞いたことがない、結城記乃という女の笑い声。


「観念して話しやがれ」


 偵記も偵記だ。

 昔、母の目を盗んで記乃と遊んでいたときのことを思い出したかのように、悪乗りをしてくすぐり続ける。


 その瞬間。

 襖が勢いよく開いた。


「よそでやれ、と言ったはずだが」


 真壁が見下ろしている。


「……はい」


 奇遇にも、仲のよいふたりの声が揃った瞬間だった。



──────────



 休憩室。

 ふたりは、真壁の〝よそ〟という言葉に従って、だれにも迷惑がかからない場所に移っていた。


 やかんで湯が沸く音が、静かに響いている。

 記乃は壁際の小さな流し台で茶器を並べ、湯のみに茶を注ぐ。


 立ち上る湯気が、わずかに空気を柔らかくする。


「で?」


 背後から、偵記の声。


「……兄さんが、最近私を避けていると思ったので、相談していました」


 記乃が言い終えた、その直後。


 ふと、影が落ちる。

 振り返る前に、理解する。

 距離がとてつもなく近いことを。


 恐らく、偵記はすぐ後ろに立っている。

 自分に降り掛かっていた窓から射す日光をその体で遮ったから、いま、記乃は影の中に入っているのだ。


「さっきは、おまえが避けようとしてたよなあ?」

「……気のせいです」


 壁際。

 背後は塞がれているというのに、偵記の腕が、左右に置かれる。


 逃げ道はない。


「逃がしてください」

「逃げてえのか」

「どちらかと言えば」


 不快ではない沈黙。

 ゆっくりと振り向きながら、顔を上げる。


 偵記の顔が近い。

 頬が、わずかに赤い。


「暑いですか?」

「……ちげえよ」

「もうすっかり、夏になりましたからね」


 その瞬間。


「おまえ、わかってて言ってんだろ」


 低い声。


(……しまった)


 図星であった。

 それでも記乃は取り乱すことはせず、目を逸らさない。


 内側では、理解しているのだ。


 偵記から向けられているその視線の意味を。


(推定:恋慕)


 そして、それを認識した上で、回避していた。


「家族。じゃ、だめなんでしょうか」

「おれは、嫌だ」


 即答だった。


「ずっと考えてた。父上が、話してきた日から、ずっと」


 偵記は、どこか悔しそうに眉を寄せる。


「でも、どうにもできねえよ。あんな話聞かされちゃあな」


(……血縁)


 確定した事実。

 半分とは言え、血が繋がっている。

 その事実が動くことは、今後一切ありえないと思う。


 偵記が、自分と血縁ではないことを前提に生きてきて、この感情を抱き続けてきたのだということは、わかる。


 わかるから、どう答えるべきかわからない。


「……なあ、合理的に判断してくれよ。おれは、どうしたらいい?」


 だが、それは記乃にとって、処理不能な命題だった。


 記乃にとっての初恋の対象は、まだなにもわからなかったころの兄、と言えるだろう。

 でも、それはきっと、家族内でよくあることなのだ。大きくなったらお父様のお嫁さんになる、という娘がいるのと同じ。


 そう思っているのに。


(合理性……)


 初恋。

 家族。

 血縁。


 それらは、同一の枠組みで扱えるものではない。


「……兄さんが、決めてください」


 決して自分にあってはならないこと。


 思考を、放棄した。


 沈黙。

 そして──

 距離が、さらに詰まる。


 背中が壁に触れる。


(この場合に対する合理性なんて、私には、わからない)


 息が近い。


 指示されたわけではない。

 ただ、目を閉じる。


 あたたかい。

 柔らかい。

 少しだけ乾いた、兄の唇が自分の唇に触れたのだと理解するのに、時間は幾ばくも必要なかった。


 そこで、完全に思考が止まる。


(……父上に知られたら、どうなるだろうか)


 なんだか今日は、特段、湿度が高いと感じた。

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