第四話 皇后の命令《後編》
制度に手を入れるという行為は、紙の上に線を引き直すことでは終わらない。
むしろ、その線の内側にいる人間と、外側に置かれている人間、その双方の認識を書き換える必要がある。
そして、それは一度の命令や布告で完了するような性質のものではなく、抵抗と反復と、時間によってようやく形を持つものだ。
(……わかっている。わかっているが、面倒事には違いない。とにかく、時間が要る)
翌日。
官付の執務室は、いつも通り整えられていた。
窓から差し込む光は一定で、机の上の書類は無駄なく整列している。筆記具の位置も、紙の重なりも、すべてが管理された配置にある。
その中で、久世は珍しく、椅子に深く体を預けていた。
肘を机につき、指先で額を押さえ、思考の流れを無理やり固定しようとするかのように、しばらく動かない。
やがて、静かに扉が叩かれた。
「失礼いたします」
従者である、三浦伊織の声だった。
「入れ」
短く応じると、扉が開き、三浦が静かに室内へ入ってくる。
姿勢はいつも通り整っている。
だが、その視線は、久世の状態を一目で把握していた。
「……お顔色が、よろしくありませんね」
「そう見えるか」
「ええ。明らかに」
遠慮はない。
だが、そこに無礼は含まれていない。
ただ必要な事実をそのまま置いただけだ。
久世は、小さく息を吐いた。
「昨日、皇后に呼ばれてな」
「……なるほど」
それだけで、三浦の中でも大筋は理解されたらしい。
「記乃さんの件でしょうか」
「話が早いな」
「おおよその流れは、想定できます。それに、遅かれ早かれ話は来ると、勝手ながら考えてはおりましたから」
淡々とした返答。
久世は椅子から身を起こし、背もたれに体重を預ける形へ戻る。
「制度の話になった」
「はい」
「女性官僚の是非についてだ」
三浦は、わずかに目を細めた。
「……皇后様らしいお話ですね」
「そうだな」
久世は苦笑する。
「まったく、逃げ道を一切用意してくれない」
「逃げ道が必要な話ではない、というご判断でしょう」
「その通りだ」
あっさりと認める。
沈黙が、わずかに落ちる。
そのあと、三浦が口を開いた。
「恐れながら」
三浦は、一拍置いて告げる。
「私も、皇后様と同意見です」
久世は、視線を横へ流した。
「……だろうな」
否定はしない。
する意味がないと、理解している。
「俺もそう思う」
ゆっくりと、言葉を置く。
「優秀な人材を、性別だけで排除することは、合理性に欠ける。明らかな損失だ」
「はい」
「あいつは、その典型だ」
机の上に置かれた書類の束へ、視線を落とす。
「本当に、いい働きぶりだ。……あれを枠の外に置いておくのは、明らかに無駄だ」
それは、評価だった。
迷いのない。
だが、その先が続かない。
「ですが」
三浦が静かに続ける。
「それを理由に動かないというのは、別の問題になります」
「……わかっている」
低く返す。
指先が、机を軽く叩く。
理屈は通っている。
だからこそ、厄介なんだ。
それに、皇后は実に十ヶ国語を操る頭脳と才能を持っている、優秀な女性像の典型だ。
できることならば、彼女にだって外交官を目指す道も選択肢に入っていただろう。
その選択肢すら持てなかったのは、紛れもない、現制度が原因に他ならない。
「制度を変えるとなれば、反発は避けられません」
三浦は言う。
「女性が官僚になるという前例は、ほぼ存在していませんから」
「鳳条がいる」
「ええ。ですが、あの人は例外中の例外、特例中の特例です」
迷いなく断じる。
「軍部という特殊な環境で、かつ本人の能力が規格外であったために成立している存在です」
「つまり、再現性がないんだよな」
「はい」
淡々とした分析。
久世は、小さく笑った。
「なるほど。だからこそ、制度として整備しろ、か」
「そういうことになります」
短い沈黙。
その中で、三浦は続ける。
「それに」
わずかに、声音が変わった。
「お気に入りのおもちゃなのでしょう?」
久世の眉が、ぴくりと動いた。
「……おもちゃ、か」
「ええ」
三浦は、まったく悪びれない。
「興味を持ち、拾い上げ、場を与え、動かしてみる……これまで、何度もそうされてきました」
「否定はしない」
「でしょうね」
わずかに口元が緩む。
だが、それは嘲笑ではない。
「ですが」
三浦は続ける。
「下の者の世話をするのが、上に立つ者の責任です」
その言葉は、軽くない。
「彼女が活躍する場を与えてしまった以上、途中で放棄する、という選択は、あまり賢いとは言えません」
「……皇后と同じことを言うな」
「恐れながら、同意見ですので」
即答だった。
久世は、視線を天井へ向ける。
(完全に包囲されているな)
だが不快ではない。
むしろ、納得しているくらいだ。
「法案のひとつやふたつ、通してやらなければなりませんね」
三浦が、さらりと言う。
まるで、日常の業務の延長であるかのように。
「簡単に言うな」
「簡単ではありませんが、一概に不可能、とも言えません」
「……根拠は」
「必要性があるからです」
静かな断定。
「優秀な人材を活用することは、国益に直結します」
一歩、踏み込む。
「当然、反発はあるでしょう。女性官僚が実現すれば、女性という枠組みに所属しているだけで、対する風当たりは強くなる」
それでも。
ああ。充分、わかっている。
「それを乗り越える価値は、あります」
三浦は言い切る。
久世は、その言葉を受け止める。
否定はしない。いや、できない。
(……そうだ)
頭の中で、線が繋がる。
記乃という個体。
制度という枠。
そして、自分の立場。
これは、個人の問題ではない。
もっと大きい、国全体の構造の話だ。
ゆっくりと、息を吐く。
そして、視線を机へ落とす。そこには、未処理の書類が積まれている。
その上に、新しい紙を一枚、置いた。
三浦が、わずかに目を細める。
「……動かれますか」
「動かざるを得ないだろう」
短く答える。
筆を手に取る。
指先が、わずかに止まる。
(これは、ただの案件ではない)
ひとつの前例になる。
成功すれば、道になる。
失敗すれば、壁になる。
(……まったく。手の焼ける)
だが。
抱く面倒さの中に、金剛石以上の価値があることも理解している。
筆先が、紙に触れる。
最初の一画が、静かに引かれる。
それは、小さな動きだった。
だが。
その線は、これまで存在しなかった場所に、新しい境界を引くためのものだった。
室内は静かだ。
だが、その静けさの中で、確かに何かが動き始めている。
(さて)
久世は、次の文字を書く。
制度は、変わる。
ここに〝変える〟と決めた人間がいる限り。




