第二話 翻訳者
人間というものは、事実そのものよりも、それに与えられた言葉によって現象を理解する。
たとえ、同じ出来事であっても。
呪いと呼べば恐怖になる。
事故と呼べば注意になる。
現象と呼べば対象になる。
どの言葉を選ぶかによって、人間の行動は変わる。
つまり、問題は現象そのものではなく、それをどう言い表すかにある。
(説明しただけでは、足りなかった)
結城記乃は、医局の戸口の前で一瞬だけ足を止めた。
中から聞こえてくる音は、普段と変わらない。薬草を刻む乾いた音。器具が触れ合う小さな金属音。
それらが規則的に重なり、空間の秩序を形作っている。
戸を開けると、乾燥した葉と薬草の匂いが鼻を打った。
「ああ。記乃か」
相良要一が顔を上げる。手は止めない。
薬草の束をほどきながら、視線だけを寄越した。
「解決したはずの話がまた噂として出回っていると聞いたが……」
挨拶より先に本題だった。
「はい。再発しています」
記乃は簡潔に答えた。
「現象自体は起きていないんですけどね」
「だろうな」
相良は肩をすくめる。
「人間の意識はそう簡単に変わらないものだ」
そこで、横から声が挟まった。
「いやはや、まったくもってその通り」
いつの間にか、化野幽がそこにいた。
棚の陰に寄りかかるようにして、煙管を指先で弄びながら、こちらを見ている。
火は入っていないが、その仕草自体が癖のようなものらしい。
「説明したんでしょ? きちんと」
「はい」
「でも、戻った」
「はい」
化野は小さく笑った。
「そりゃあ、戻るさ。説明と伝達は別物ですからねえ」
相良が、わずかに眉を寄せる。
「お前……そういう言い方をするな」
「どういう言い方?」
「わかってるくせに、わかってないみたいに言うなって話だ」
化野は肩をすくめた。
「わかっているからこそ、言っているんだけどね」
そして、記乃へ視線を向ける。
「記乃ちゃんはちゃんと、説明はできる。でも、伝わってはいない」
断定だった。
記乃は否定しない。
「その差異については、認識しています」
「結構」
化野は頷く。
「じゃあ、ひとつ聞こうか」
煙管の先で、空中に小さく円を描く。
「君は今回、どう説明した?」
記乃は、昨日の内容をそのまま再現した。
「当該事例は換気不良と燃焼による有害物質の発生が原因であり、現在はその条件が存在しないため、同様の現象は再発しないと説明しました」
間。
化野は、くく、と喉の奥で笑った。
「いやあ、見事に〝正しい〟」
言葉は褒めているが、声音はそうではない。
「で、怖がる人間に、それが刺さると?」
「……刺さらない可能性は高いかと」
「その通り」
化野は指を鳴らす。
「では、こう言い換えてみようか」
少しだけ身体を起こし、声色を変える。
「『あの部屋は、もう危なくありません。前に起きたことは、空気の流れが悪かったせいで起きた事故です。いまはその原因を全部取り除いてあります』」
ゆるやかな口調。
「『もし気分が悪くなったら、それは怖いと思う気持ちや、記憶のせいです。誰にでも起きることですから、心配しないで。怖くなったら、すぐに外に出て、人を呼んでください』」
そこで言葉を切る。
「どう?」
記乃は一拍置いた。
(……構造は同じ)
言っている内容は、ほとんど変わらない。
だが。
(受け取りやすさが異なる)
「語彙の選択と順序が、私とは異なります」
「その通り」
化野は満足げに頷く。
「君の言葉は、正確すぎる」
煙管をくるりと回す。
「正確さというのは、時として、人間にとって扱いづらい」
相良が口を挟む。
「だが、間違ったことを言うわけにはいかないだろ」
「もちろん」
化野は即答した。
「だからこそ、〝翻訳〟が必要なんですねえ」
「翻訳」
記乃が繰り返す。
「そ」
化野は軽く笑う。
「事実を、そのままの形で渡すんじゃあない。受け取れる形に変えてから渡す。その方が、都合がいいからね」
煙管の先を、記乃へ向ける。
「怪異を解体する人間は多い。けど、解体した後に、それをちゃあんと人間に戻してやる人間は少ない」
その言葉に、記乃は反応した。
(……戻す)
解体したものを、そのまま放置すれば、空白が残る。
その空白に、恐怖が戻る。
「つまり」
記乃は言葉を選ぶ。
「説明ではなく、理解可能な形への変換が必要、ということでしょうか」
「そうそう。その通り」
化野は頷いた。
「そしてもうひとつ」
少しだけ目を細める。
「都合よく言っちゃっていいんだよ」
相良が即座に反応する。
「おい」
「おっと。これじゃあ、少々語弊があったかな」
化野は笑う。
「でも事実でしょ。人間ってのは、自分の都合で動く者ばかりだ。だから、自分が納得できる言葉しか受け取らない」
記乃は、その言葉を内部で処理する。
(都合の良い言語化)
それは、歪曲ではない。
順序の調整と、語彙の選択の問題だ。
「たとえば」
化野は続ける。
「自分は呪いと信じて疑わないものに対して『呪いではありません』と言われると、人間は反発する」
「それは、否定されている、と感じるからか」
相良が言う。
「そういうこと」
化野は頷く。
「でも、ちょっと言い方を変えてみて、『危なくありません』なら……どう? 受け入れやすいと思わない?」
少し間を置く。
「対象を否定するか、不安を軽減するか。その違いってわけだ」
(焦点の置き方の問題)
記乃は紙片を取り出した。
──説明:事実の提示。
──伝達:理解可能な形への変換。
──語彙選択により受容性変化。
──否定ではなく、安心へ誘導。
万年筆を止める。
「……理解しました」
「本当に?」
化野が覗き込む。
「はい。少なくとも、構造としては」
「うん。結構、結構」
満足げに頷く。
「じゃあ、あとは実践だねえ」
相良がため息をついた。
「お前なあ……人を実験台にするな」
「いやいや、なにを言ってんのさ、要一くん。なにごとも、実地が一番だよ」
軽く笑う。
記乃は紙片をまとめた。
(解体の後に、翻訳が必要)
それが今回の結論だった。
怪異は、現象として解けば終わりではない。それを多くの人間が扱いやすいと感じる言葉に変換しなければ、恐怖は別の形で戻ってくる。
記乃は静かに息を整えた。
(次は、説明ではなく、伝達)
やるべきことは明確だった。
「化野さん」
「なにかな?」
「私に〝翻訳〟の方法を指導してください」
万年筆を収め、頭を下げる。
「ふっ、あはは! 本当に真面目だね、君ってやつは。いいよ。もとより、そのつもりでいたからさ」
医局の空気は、相変わらず乾いている。
だが、その中で、ひとつだけ新しい役割が加わっていた。
記録官である自分に、もうひとつ。
翻訳者としての役割が。




