第一話 余波
怪異というものは、必ずしも、原因を解き明かしただけでは消える性質を持つわけではない。
火は、消せば煙が薄れる。水は、拭えば床が乾く。毒は、取り除けばそれ以上の被害は防げる。
だが、どうやら人間の内側に残った恐怖は、物理的な処理だけでは消えないらしい。
それは、燃え残った灰のように見えなくなったあとも残り、風が吹けばまた舞い上がる。
(きちんと解体したはず……だった)
結城記乃は、澄子妃の棟へ向かう廊下を歩きながら、数日前から耳に入っていた噂を整理していた。
──下位側室棟の一室。
──過去、一酸化炭素中毒による意識消失発生。
──換気不良、香、木炭、閉鎖空間。
──当時、原因解明済。
──近頃、再び〝呪われた部屋〟として噂化。
紙片に書かれた内容は、過去の記録と大きく矛盾していない。
むしろ、問題はそこだった。
矛盾していない。つまり、過去の事実は消えていない。
説明も、対処も、処理も済んでいる。
それでも、噂は舞い戻ってきた。
(現象の再発は起きていないのに、解釈を基準に、噂が再発しているのか)
記乃はそう分類した。
問題の部屋は、記乃がまだ更衣の下女として後宮に籍を置いているときに扱った、初めて公になった現場だった。
香の甘い匂いと焦げ臭さが混じり、窓が閉ざされ、換気口が詰まり、火鉢による不完全燃焼が起きていた、通称〝呪われた部屋〟。
当時、倒れた下女は医局へ運ばれ、相良の処置で一命を取り留めた。現場の構造も確認した。 換気不良と一酸化炭素中毒の可能性も示した。
つまり、少なくとも記録上は、すでに〝呪い〟などではないことが裏付けられている。
だが、後宮における噂は、記録の紙面に羅列する文字ほど、整然とは動かない。
「また、あの部屋で気分が悪くなった人がいるらしいの」
「やっぱり、あそこはよくない部屋なんじゃない?」
「前も倒れた人がいたでしょう。なんだか色々説明があったけれど、あれも、結局は呪いだったのでは……」
控えの間で侍女たちが声を潜めて話していたのを、記乃は聞いていた。
彼女たちは、記乃の前で大きく騒いだわけではない。むしろ、記乃が近くにいると気づいた瞬間、少しだけ声を落とした。
それは、記乃が怪異を否定する人間だと知っているからだろう。
(理解されたのではなく、黙られているだけに過ぎない)
その差は大きい。
記乃は、問題の更衣たちの住まう棟へと向かった。
廊下の空気は以前と大きく変わらない。木材、畳、古い布、香の残り香。人の出入りはあるが、どこか避けられている一角だけ、空気が薄く淀んでいるように感じられた。
実際に空気が淀んでいるのか。
それとも、噂を知っているからそう感じるのか。
(感覚に頼らず、まずは、疑うこと)
記乃は足を止め、問題の部屋の前に立った。
襖は閉じられており、中にも、この周囲にも、人の気配は一切ない。
ただ、その部屋の前だけ、廊下の埃がわずかに残っていた。掃除の頻度が落ちているのだろう。
それだけで、部屋が避けられていることは充分に分かる。
記乃は襖を開けた。
室内は、以前より片づいていた。火鉢や香炉の類は取り除かれ、窓も開けられている。換気口にも詰まりはない。
だが、古い香の匂いだけが、畳や柱に染みついたまま、薄く残っていた。
(匂いは記憶を呼び戻す)
この匂いを嗅いだ者が、以前の出来事を思い出す。以前の出来事を知る者が、不安を持つ。不安を持つ者が、体調不良を呪いと結びつける。
記乃は紙片を取り出した。
──香炉、撤去済み。
──窓、開放可能。
──換気口、詰まりなし。
──香の残り香あり。
──掃除頻度低下の痕跡。
──心理的忌避による空間管理不足。
部屋に物理的な危険は、少なくとも現時点では見当たらない。
では、なぜ再び噂になったのか。
答えは、すぐ近くにあった。
廊下の奥で、ひとりの下女が立ち止まっている。記乃に気づいて、怯えたように肩を揺らした。
「少し、お話を伺ってもよろしいですか」
記乃が声をかけると、下女は迷いながら頷いた。
「この部屋で、最近、気分が悪くなった人がいると聞きました」
「……はい」
「あなたですか」
下女は、わずかに目を伏せた。
「はい。あの、少し前、掃除に入ったときなんですけど……胸が苦しくなって……」
「そのとき、この部屋に香炉や火鉢の類はありましたか」
「いえ……ありませんでしたが」
「窓は」
「開けていました」
「匂いは」
「……前と同じような匂いがしました」
記乃は、そこで筆を止めた。
「前と同じ、とは」
「倒れた人がいたときの……あの、甘くて、焦げたような匂いです」
実際には、焦げ臭は残っていない。残っているのは、香の甘さだけだ。
だが、その下女にとっては違う。
香の甘さの直線上に、過去の焦げ臭が結びついている。
(……記憶による脳内補完)
記乃は紙片に書く。
──証言者、香の残り香を過去事故と結合。
──焦げ臭の実在、現時点では確認不可。
──不安による身体反応の可能性。
「胸が苦しくなったあと、どうしましたか」
「怖くなって、すぐに出ました」
「その後、誰かに話しましたか」
「……はい」
「どのように」
下女は、少しだけ躊躇した。
「やっぱり、あの部屋はまだ呪われているのかもしれない、と」
その言葉で、構造は確定した。
現象は再発していない。再発したのは、恐怖の言語化だった。
言葉にするという行為は、小さいことのようでいて、案外大きな意味を持つ。
どこぞの胡散臭い民俗学者ならば「言霊が〜」と嬉々として話し出すところだ。
「分かりました」
記乃は紙片を閉じた。
「この部屋に、現在、呪いは確認されていません」
下女の顔が、強張る。
記乃は続けた。
「ただし、あなたが怖いと感じたこと自体は、不自然ではありません」
「……え?」
「以前、この部屋で人が倒れたことは事実ですので。その記憶が残っていれば、似た匂いや似た空気を感じたときに、身体が反応することがあります」
下女は、ゆっくりと瞬きをした。
「私が……勝手に怖がっただけですか?」
「勝手、ではありません」
記乃は即答した。
「恐怖には、原因があります。今回は、呪いではなく、過去の記憶と匂いの結びつきが原因です」
下女は黙った。
完全に納得した顔ではない。だが、少なくとも〝呪い〟という言葉だけに縛られている状態ではなくなった。
(説明は、恐怖の置き場を変える)
記乃はその日のうちに、部屋の処理を行った。
残っていた香の染みついた布類を取り除く。 次に、畳を乾拭きする。窓と換気口を一定時間開け、空気を入れ替える。
そして、掃除に入る者は必ずふたり以上にするようにと、この棟の侍女や下女たちに伝える。
「以前の事故は、換気不良と香炉に置かれた木炭から発せられる有害物質によるものです。現在、その条件はありません」
女たちに向けて、できる限りわかりやすいように、記乃は説明をしていく。
「ただし、匂いや記憶によって不安が戻ることはあります。怖いと感じた場合は、すぐに呪いと断定をせず、まず窓を開け、人を呼んでください」
何度も繰り返し、同じことを言う。
解体は、一度で終わるものではない。
恐怖が反復によって育つのなら、理解もまた反復によって定着させる必要がある。
(記録と同じだ)
一度書いただけでは、共有されない。読まれ、参照され、更新されて、ようやく機能する。
反復動作は一見してみれば簡単なことだが、複数の人間の意識を変えるには、相当な努力や根回しが必要だ。
(……ひとりで読み書きする文字だったら、簡単なんだけどな)
翌日、記乃は真壁へ報告した。
官付の執務室は、いつも通り乾いている。紙と墨の匂いが、思考を一定に保つ。
「私の籍が移動になるより以前に処理した、更衣棟の一室についてです」
「また何か出たのか。呪いだなんだって。くだらん」
真壁が、疲れたように眉を寄せる。
「現象そのものは再発していません」
「なら、何だ」
「噂が再発しました」
真壁は、しばらく黙った。
「……実に厄介だな」
「はい」
記乃は紙片を並べる。
「現在、香炉は撤去済み。換気口の詰まりもなく、物理的危険は確認されていません。ただし、香の残り香と過去の記憶が結びつき、下女が不安反応を起こしました。その発言が周囲へ伝わり、再び〝呪い〟として噂化しています」
「つまり、部屋じゃなく人間側の問題か」
「はい。より正確に言うなら、人間側に残った恐怖の問題です」
真壁は、椅子へ背を預けた。
「解決済みの案件が、また戻ってくるのは面倒だな」
「戻ってきたのは案件ではなく、解釈です」
「なお面倒だ」
「はい。まったくもって同意です」
記乃は頷く。
「今回、こちらでは解決したつもりになっていた案件への理解が定着していなかったことが確認できました。今後は、現象の解体後に、関係者への説明と再発防止の確認を手順化した方がよいかと」
真壁が目を上げる。
「お前、仕事を増やす提案をしている自覚はあるか」
「あります」
「あるのか」
「はい。ですが、後から噂が再発する方が非効率的です」
真壁は、深く息を吐いた。
「……理屈はわかる」
「ありがとうございます」
「褒めてはいない」
「……失礼しました」
短い沈黙。
やがて、真壁は書類へ視線を戻した。
「簡単な手順書を作れ。現場説明用のものだ。長くするな」
「承知しました」
記乃は一礼し、執務室を出た。
廊下に戻ると、空気はいつも通り乾いていた。
だが、記乃の中では、ひとつの認識が更新されている。
(解体は、終点ではない)
原因を見つける。仕組みを説明する。危険を取り除く。
それだけでは、終わらない。
人間が恐怖を保持している限り、怪異は形を変えて戻ってくる。同じ場所、同じ匂い、同じ言葉に。
現象を解くことと、人間の中に残った恐怖をほどくことは、別の作業だった。
記乃は紙片を取り出す。
──解体後、恐怖の残存あり。
──説明不足時、噂再発。
──再発防止、理解の反復が必要。
──怪異は現象ではなく、解釈として戻る。
書き終えて、万年筆を収める。
仕事、と呼ぶにはあまりにも地味な案件だった。
不謹慎ではあるが、怪我人は出ておらず、犯人もいない。新たな仕掛けもなにもない。
だが、記乃にとっては貴重な経験であった。
解体した怪異の、その後。
それを記録しなければ、同じ恐怖はまた、人間の間で息を吹き返す。
怪異は、消えるのではない。
正しく扱われなければ、ただ眠るだけなのだ。
記乃は、そう結論づけて、歩き出した。




