第十二話 兄の心情
人間がだれかを想うという行為は、必ずしもひとつの形に収まるものではない。
血縁、責任、義務、欲望、そして情。
それらは明確に分離されることなく、同じ場所に重なり合い、ときに互いの境界を曖昧にしたまま存在し続ける。
だからこそ、その感情がどこに属するものなのかを、当人ですら正確に分類できないことがある。
応接間には、まだ先ほどまでの重苦しい空気が残っていた。
先の父の言葉の重みが、目に見えない形で沈殿し、室内の静けさをわずかに濁らせている。
記乃が去ったあとも、結城密記と偵記は、未だ、その場に留まっていた。
偵記は椅子の背に体を預けるようにして座っているが、その姿勢は落ち着いているとは言い難く、どこか無理に均衡を保とうとしているような不自然さを含んでいる。
密記は卓の向かいに座ったまま、しばらく言葉を発さなかった。
沈黙が続く。
やがて、偵記が口を開いた。
「……そのひと、どんなひとだったんだよ」
低い声だった。
先ほどの荒さは抜け落ちている。
密記は、ゆっくりと息を吐いた。
「口数は多くなかった」
短く言う。
「だが、言葉は選んでいた。余計なことは言わないが、必要なことはきちんと伝える……そういう人間だった」
視線は卓の上に落ちている。
「芸事も一通りできた。詩も、琴も、舞も、書も……あの場所にいる人間としては、申し分ない技量だったな」
偵記は黙って聞いている。
「だが、客はつかなかった」
「……異国の血、か」
「ああ」
密記は頷く。
「見慣れないものは、それだけで避けられる。あの時代は、いま以上にそれが顕著だった」
静かな言葉だった。
「天狗の正体が西欧の人間だ、なんて話もあったくらいだ。……人間は、理解できないものを、怪異のごとき扱いをすることで距離を取る」
それは観察だった。
「彼女も、その例外じゃなかった」
偵記は、ゆっくりと目を閉じる。
想像しているのか、あるいは理解を整理しているのか、そのどちらかは判別できない。
「……それで、なんで親父はその人を選んだんだよ」
問いは単純だった。
密記は、わずかに口元を歪めた。
「さっきも言っただろう」
短く言う。
「似ていたんだよ」
間を置く。
「外から見れば、それなりに整っている。だが内側では、どうしようもないものを抱えている」
声が、ほんのわずかに低くなる。
「……あのころの俺には、逃げ場がなかった」
それ以上の説明は不要だった。
偵記は視線を落とす。
「……会ってたのは、どれくらいだ」
「数えるほどだな」
即答。
「関係を持ったのも、一度だけだ」
淡々としている。
「だが、そのあとも文のやり取りは続いた。不定期に、気まぐれに……つい先日までな」
密記の指先が、わずかに動く。
なにかをなぞるような仕草だった。
「十年前だ」
ぽつりと落とす。
「記子が生まれて、すぐに……あいつは死んだ」
妻のことだった。
偵記の肩が、わずかに揺れる。
記憶として残っている。
だが、それをどう扱うかは、まだ整理されていない。
「……そのあと、迎えに行かなかったのか」
密記は、ゆっくりと首を振る。
「勿論、行こうとしたさ」
間。
「妻がいなくなって、家の中の均衡は崩れていた。……あのまま放っておくくらいなら、いっそ引き取るべきだと思った」
合理的な判断だった。
「だが」
そこで、言葉が止まる。
「文が届いた」
視線が、ほんのわずかに揺れる。
「……もう二度と来るな、と」
偵記が顔を上げる。
「どういうことだよ」
「そのままの意味だ」
密記は静かに答える。
「『私を身請けなどしてごらん。ふたりの子どもが、記乃と同じ目に遭う。それに、あなたも正気を疑われることでしょう』……そう書かれていた」
言葉は正確に再現されていた。
それだけ、強く残っている。
偵記は言葉を失う。
「……彼女には、分かっていたんだ」
密記は続ける。
「自分がどんな立ち位置にいる人間で、なにをすれば、だれにどんな影響が出るのかを」
静かな肯定だった。
「だから、来るなと言った」
それは拒絶ではない。
極めて合理的な判断だった。
「それからは、会っていない」
短い。
「文だけが続いた。……二十年近くな」
偵記は、深く息を吐いた。
その数字の重さを、ようやく実感したようだった。
「……それで、その人は死んだ」
「ああ」
密記は頷く。
「先日、文で知らされた」
それ以上の言葉は続かない。
それで充分だった。
しばらくの沈黙のあと、偵記がぽつりと呟く。
「そのひとの名前は」
密記が、ほんのわずかに目を細める。
「……桔梗」
その音は、室内に静かに落ちた。
「それはきれいな、青紫の瞳だったからだろうなあ。あの花に似ていると、だれかが言ったらしい」
偵記は、その名を反芻するように、ゆっくりと口の中で転がした。
「……桔梗、か」
それ以上は言わない。
だが、その音は、確かに残る。
やがて、偵記は立ち上がった。
「……ちょっと、行ってくる」
短く言う。
密記はなにも止めない。ただ、その背を見送る。
──────────
記録蔵は、静かだった。
紙の匂いと、乾いた空気。足音は吸収され、余計な音を残さない。
記乃は棚の前に立ち、紙片を整理していた。
その背後で、扉が開く。
振り返ると、偵記が立っている。
「……兄さん」
「……おう」
短い返答。
だが、その声音は、いつもとわずかに違っていた。
記乃は、その差異を見逃さない。
「どうされましたか」
問いは簡潔だった。
偵記は、一瞬だけ視線を逸らす。
「……なんでもねえ」
それもまた、簡潔な答えだった。
だが、明らかに不足している。
(情報の欠落)
記乃はそう判断する。
「なんだか、落ち込んでいるように見えます」
「見間違いだ」
「そうでしょうか」
それ以上は、追わない。
だが、観察は続ける。
偵記は、しばらくその場に立っていた。なにかを言うでもなく、なにかをするでもなく、ただ、そこにいる。
(処理中、といったところか)
記乃はそう判断した。
偵記の内側で、なにかが整理されきれていない。
やがて、偵記が口を開く。
「……なあ、記乃」
「はい」
「お前さ」
そこで、言葉が止まる。
続かない。
それ以上は、出てこない。
(未定義の感情)
記乃は内心でそう記録する。
偵記は、しばらく黙り、それから短く息を吐いた。
「……いや、いい」
結論を先送りにする。
その選択自体が、現在の状態を示している。
偵記は背を向ける。
出口へ向かう。
その足取りは、いつもよりわずかに重い。
扉に手をかける。
そして、ふと止まる。
「……桔梗」
ぽつりと落とす。
記乃が顔を上げる。
「なんのことですか」
問い返す。
偵記は振り返らない。
「おまえの母さんの名前だとよ」
それだけ言い残し、扉が閉じられる。
音は小さい。が、その余韻は残る。
記乃は、しばらくその場に立っていた。
(……桔梗)
音として処理する。
意味として整理する。
──青紫の瞳。
あるひとは、この瞳を灰簾石と称したが……
その連想は、自然だった。
(きれいな名前だ)
それが本名か、源氏名かは重要ではない。
だれかが、その色を、あの美しい花に喩えた。
その事実だけで、充分だった。
記乃は、紙片へと視線を戻す。
記録すべきものは、まだ残っている。
だが、その中に、ひとつだけ、新しい分類が加わっていた。
名前。
それは、ただの情報ではない。
関係を構成する、ひとつの要素だった。
──────────
扉が閉じたあとも、偵記はすぐには歩き出さなかった。
記録蔵の外。廊下の静けさの中で、立ち止まったまま、床に視線を落とす。
(……なんだよ、これ)
内側に残っているものを、うまく処理できない。
驚きではない。
怒りでもない。
悲しみとも、少し違う。
それらが混ざり合い、分離しきれないまま残っている。
(……違うな)
ゆっくりと、思考を組み替える。
これは、喪失感に近い。
もともとそこにあったはずのものが、形を変えたことで、触れ方が分からなくなっただけの話だ。
記乃は妹だった。
それは変わらない。
だが同時に、自分の中で無意識に許されていた距離感や、踏み込んでもいいと思っていた領域が、いま、別の意味を持ち始めている。
(……最初から、妹じゃなかったら)
思考が、そこへ向かう。
止めようとしても止まらない。
父が記乃を拾ってきた日のことを思い出す。
小さな身体。
青紫の瞳。
あのとき、自分はどう思ったか。
守らなければならない存在、と、そう判断した。
だが、本当にそれだけだったのか。
(……違う)
あの時点で、すでに──
〝ただの妹〟として扱ってはいなかった。
理由は説明できない。
ただ、目が離せなかった。
成長するにつれて、その違和感は形を変えた。
言葉にしないまま、距離を測り続けてきた。
触れていいのか。
近づいていいのか。
境界線を、自分で引きながら、同時に踏み越えようとしていた。
(……だから)
ひとつの考えに行き着く。
もし血が繋がっていなければ。
その場合、どうしていたか。
答えは出ている。
(嫁にしていた)
思考は、驚くほど自然にそこへ落ちた。
戸籍をどうにかすればいい。手続きは複雑でも、不可能ではない。
形式を整えてしまえば、問題は解決する。
そう考えていた。
そうすれば、記乃は名実ともに結城家の人間になれるのだから、それが最もよい選択だと、信じて疑わなかった。
それが、いつからだったのかは分からない。
だが、確実に、そういう前提で見ていた。
「……ふざけんなよ」
小さく吐き捨てる。
いまさら否定されて、どうしろって。
血が繋がっている。
その事実ひとつで、すべての選択肢が消えちまう。
整理されるて、残るのは、どこにも置いておくことのできない感情だけだった。
家族として扱うしかない。
それ以外は、すべて不適切になる。
(……じゃあ、この感情は、どうしたら)
分類できない。
名前がつかない。
処理先がない。
ゆえに、そのまま、ここに残る。
偵記は、ゆっくりと歩き出した。
足取りは重い。
だが止まらない。
止まる理由もない。
(……もう、いい)
結論を出す。
この感情は、処理しない。放置する。
なかったことにはしないが、扱いもしない。
それが、いまの最適解だった。




