第十話 望まぬ終わり
人間が、だれかと関係を持つということは、必ずしも同じ時間を長く共有することを意味しない。
むしろ、触れ合った時間の長さよりも、その間に交わされた言葉や、残された記憶の濃度によって、その関係の重さは決まることがある。
会わない時間の方が長くとも、途切れずに続くものがある。
逆に、隣にいても、なにも残らない関係もある。
それらを分けるものがなにかを、言葉で正確に定義することは難しい。
だからこそ、人はときに、理由の説明できない関係を、そのまま持ち続ける。
結城密記は、その日もいつもの休日を過ごしていた。ただ静かに、机に向かっている。
障子越しに差し込む光はやわらかく、室内の空気は動かないまま均衡を保っている。紙の上を滑る筆の音だけが、時間の経過を知らせていた。
外からは、遠くに人の気配があるだけで、ここまで届くほどの音はない。
すべてが、乱れなく整っている。
その均衡を崩したのは、控えめな足音だった。
「旦那様。失礼いたします」
戸口で止まる声は低く、必要以上の主張を持たない。
密記は筆を止めずに応じる。
「ああ。なにかな」
「旦那様に、文が届いております」
短い報告だった。
差し出された封は、質素な紙で包まれていた。
目立つ装飾はない。だが、その紙質と折り方に、密記は一瞬で見覚えを見出す。
(……久しいな)
筆を置き、指先で封に触れる。
軽い。だが、その重さは、紙の厚みとは別のところにあった。
受け取った文を、しばらく開けずに置いておく。
急ぐ理由はない。
内容は、おおよそ予測できている。
それでも、指先は自然と封を切っていた。
中の紙は、薄く、整えられている。
書かれている文字は、本人のものではない。
だが、それもまた、予測の範囲内だった。
密記は静かに目を走らせる。
文面は簡潔だった。
余計な言葉はなく、装飾もない。
ただ事実だけが、そこに並んでいた。
──彼女が、亡くなった。
それだけだった。
しばらくの間、密記は紙から目を離さなかった。
視線は動いている。
文字も、きちんと認識している。
だが、その情報が内部で意味として処理されるまでに、わずかな遅延があった。
(そうか)
感情の動きは、ほとんどなかった。
驚きも、取り乱しもない。
以前から具合が優れないことは、他のだれでもない、彼女から知らされていた。
その彼女が死んでしまった。
ただ、ひとつの事実として、それがそこにある。
それでも、紙を持つ指先にだけ、わずかな力が入る。
彼女と最後に会ったのは、何年前だったか。
記憶を辿るまでもない。数える必要もない。
あれから、ただ文だけが続いていた。
もう、二十年近くも前の話だ。
会った回数は、数えるほどしかない。
言葉を交わした時間も、決して長くはなかった。
関係と呼べるものかどうかすら、定義は難しい。
それでも、文だけは途切れなかった。
季節の移ろいを伝えるもの。他愛もない日常を書き留めたもの。ときに、なにも書かれていないに等しいほど、短いものもあった。
それらが、一定の間隔で届き続けていた。
会わずとも、関係が存在し続ける形。
(……あれは、なんと呼ぶべきものだったんだろうな)
考えても、そう簡単に答えは出ない。
遊郭の女と、官に属する男。
本来、交わり続けるような関係ではない。
一度だけ、身体を重ねたことはある。
だが、それが関係の核だったわけでもない。
むしろ、その後に続いた文のやり取りの方が、よほど長く、よほど、確かな輪郭を帯びている。
密記は紙を畳み、元の形に戻した。
動作は正確で、乱れはない。
だが、その指先には、わずかな遅れが残っている。
立ち上がり、窓のそばへ歩く。
外の空気は、少しだけ湿り気を帯びていた。
遠くで、人の声が混ざり合っている。
その中に、遊郭のある方角も含まれている。
(もう、あそこに彼女はいないのか)
理解はできている。
ただ、実感として結びつけるには、少しだけ時間が必要だった。
窓の外。
空は、曇っている。
陽はあるが、輪郭がぼやけている。
はっきりとした影ができない光。
それはどこか、記憶の中の彼女の姿と似ていた。
輪郭はある。
だが、掴もうとすると、わずかにずれる。
「結局、よく分からないままだったなあ……」
なにを考えていたのか。
なにを望んでいたのか。
文には必要なことは書かれていたが、その実、彼女本人についての情報は、書かれていなかったことの方が多いくらいだ。
それでも、途切れなかったという事実だけは、確かに残っている。
密記は静かに目を閉じた。
思い出そうとすれば、いくつかの場面は浮かぶ。
だが、それらは断片でしかない。
ひとつの物語として繋がることはない。
それでも、それでよかったのかもしれないと、ふと思う。
すべてを理解してしまえば、この関係は成立しなかった可能性もある。
曖昧なまま続いたからこそ、続いた。
そういう関係もある。
目を開ける。
室内は、先ほどと変わらない。
机の上には、書きかけの手紙が残っている。
彼女へ送るはずだった、一通の手紙。
そうして、まずはやるべきことがあると、密記は判断した。
畳まれた文を、懐に収める。
そして、静かに息を吐いた。
それは感情の整理というより、次の行動へ移るための準備に近かった。
(……ちゃんと、話すべだよなあ……)
だれに言うでもなく、自身の内側でそう決める。
これから密記が行おうとしている行為には、義務も責任も伴う。
再び机へ戻り、書きかけの手紙を丸めて、くずかごに捨てる。
こんなことをしても、時計の針は戻らない。
そんなことはわかりきっている。
わかっているからこそ、捨てた。
なぜなら、密記の手紙が彼女に届くことは、もう二度とないのだから。




