第十一話 父の話《前編》
人間が過去を語るとき、その内容は必ずしも事実そのものではない。
むしろ、どこから語り始めるか──
その選択によって、語られるものの意味は大きく変わる。
なにを先に置き、なにを後に回すか。
それは、記憶の整理ではなく、責任の配置に近い。
結城記乃は、官付の暗号局の棟にある応接間にいた。
暗号局の性質上、普段は使用頻度の低い部屋である。
壁際には最低限の調度が整えられ、卓と椅子が配置されているが、生活の気配は薄い。
空気は乾いており、紙と墨の匂いがほのかに残っているものの、ここが実務の場ではなく、あくまで「用件を処理するための場所」であることが明確に分かる。
その場に、記乃は座っていた。
理由は簡潔だった。呼ばれたからである。
呼び出し元は、結城密記。
そして、すでにその場にはもうひとりいた。
「……なあ、記乃」
低い声。
視線を向けると、そこにいるのは義兄である偵記だった。
腕を組み、椅子の背にもたれるように座っている。
だが、その姿勢は落ち着いているようでいて、どこか均衡を欠いているように見えた。
「なんか、やらかした覚え、あるか?」
「ありません」
即答だった。
偵記は一瞬だけ目を細め、それから小さく息を吐く。
「だよな……おれもねえんだよ」
言葉の端に、わずかな苛立ちが混じる。
呼び出された理由が提示されていない。
その状態は、思考の処理を妨げる。
(この呼び出しは、あまりにも不確定要素が多い)
記乃はそう判断した。
そのとき、襖の向こうで足音が止まる。そして間を置かず、静かに開かれる。
入ってきたのは、他のだれでもない、養父の密記だった。
普段と変わらない装い。
変わらない姿勢。
だが、空間の質だけがわずかに変わる。
(……なんだか、雰囲気がいつもより……)
記乃はそこまで考えて、不確定な憶測だと考えることをやめた。
「よく来てくれたな、ふたりとも」
密記はそれだけ言うと、ふたりを一瞥し、静かに卓の向かいへ座る。
続きの言葉を、すぐには発さない。
視線だけがわずかに動く。
選んでいる。
なにから話すかを。
「……記乃」
名前を呼ばれる。
この場には、僅かな緊張が走っている。
「はい」
短く応じる。
密記は一度だけ視線を落とし、それから言った。
「その、なんだ……お前を拾ったのは、偶然ではない、と言えば、驚くだろうか」
沈黙が落ちる。
養父が発したその内容は、いまの自分や家族を形作る前提を大きく崩すものだった。
(前提条件が狂うということ?)
これまでの認識。自分が拾われた存在であるという前提。
それが、いま、否定された。
偵記が椅子から身を起こす。
「……は?」
短い音だった。
だが、その中に含まれる情報量は多い。
理解が追いついていない。
密記は続ける。
止めない。いま話すのを止めれば、語れなくなると理解しているかのように。
「話しておくべきだと思った」
視線は、記乃ではなく、卓の上に落ちている。
「遅いかもしれんが……いや、明らかに、遅すぎる話だな。すまん」
その一言で、過去の重さが示される。
そして、密記は語り始めた。
かつての妻……記乃にとっての養母、偵記や記子にとっての実母は、相当酷い暴力性を抱いていた。
その妻は、家の中と外では、見える姿とは異なっていた。
外に出れば「いい奥さん」と言われ、しまいには「あんたなんかにゃ勿体ない」などと言われる始末。
どうして、と、絶望していた。
自分の着物の内側は青痣にまみれ、心の内は切り傷まみれだというのに、と。
逃げ場がなかった。
とにかく、あの痛みから逃げたかった。
そう、淡々と語られてゆく。
そうして、言葉は別の方向へ移る。
「俺は、妻の暴力から逃げて、逃げて、ほんの思いつきで遊郭に行った」
偵記が顔を上げる。
反応は早い。
だが、口は挟まない。挟める状態ではない。
「不誠実だという自覚はあった。妻帯者が遊郭など、と」
密記はそう言い切る。
評価を、自分で先に提示している。
それ以上の断罪を、他者に委ねないための処理。
(責任の分配を制御している)
記乃は内部で整理する。
「その中で、一度だけ関係を持った女がいる」
ここで、初めて主語が明確になる。
それまでの流れが、すべてこの一点に収束していく。
「その女が、身ごもった」
偵記の呼吸が、わずかに乱れる。
記乃は動かない。
ただ、聞いている。
処理を続けている。
「産むと言った」
短い。
「そして──」
わずかな間。
「日時と場所を指定してきた」
記乃の指先が、膝の上でわずかに動く。
「拾いに来い、と」
その言葉で、構造が繋がる。
点が線になる。
(……なるほど)
理解はできる。
だが、それと受容は別である。
密記は続ける。
「自分の子かどうかは、正直分からなかった。けれど、遊女を孕ませておきながら無視したとあれば、それこそ不誠実だと思ったんだ」
「……確証がないのに、行ったのかよ」
「ああ。可能性があったからな」
それは事実だった。
確証はない。
ただの可能性に過ぎない。
「だが」
ここで、言葉が止まる。
ほんの一瞬のことだ。
そして、続く。
「その子の瞳は」
視線が、初めて記乃へ向く。
「彼女と同じ、きれいな青紫色をしていた」
静かだった。
だが、その一言で、すべてが確定する。
記乃は瞬きを一度だけする。
(……一致)
自身の瞳。
それと同じ色。
そして、次に来る言葉は、すでに予測できている。
「その子が、お前だ」
断定。逃げ場のない構造。
沈黙が落ちる。
今度は、先ほどとは質が違う。
思考が、追いつかないのではない。追いついた上で、処理を止めている。
偵記が立ち上がる。
「……ちょっと待て」
声が低い。
だが、抑えきれていない。
「じゃあ、なんだ」
短く、言葉が続く。
「記乃は」
視線が揺れる。
「本物の、おれの妹ってことか」
ようやく、そこに至る。
記乃は答えない。答える必要がない。
事実はすでに提示されている。
密記もまた、なにも言わない。
肯定も否定もせず、ただそこに置かれている。
確定した情報として。
記乃は、ゆっくりと息を吐いた。
(理解はできる)
だが、処理は終わっていない。
(分類が必要)
現象としてではなく、関係として。
この情報をどの位置に置くか。
それを決めるには、まだ情報が足りなかった。
「……ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」
記乃が口を開く。
声は、普段と変わらない。
だが、その選び方は、明確に慎重だった。
「その遊郭の女性は」
静かな、間。
「どのような方だったのでしょうか」
密記は、少しだけ目を閉じた。
過去を引き出す動作。
「口数は多くなかった。だが……聡明だった。芸事も、一通りできた」
ゆっくりと答えていく。
そして──
「……だが」
わずかに言葉が変わる。
「人気は、なかった」
偵記が眉を寄せる。
理解できない、という反応。
「理由は単純だ」
密記は続ける。
「その血の半分が、異国のものだった」
空気が、わずかに動く。
その一言で、すべてが説明される。
そして同時に、なにも解決しない。
(分類:異質)
記乃は内部でそう記録する。
人間は、理解できないものに名前を与える。その結果として、距離を取る。
それが、どの時代でも繰り返される構造だった。
密記は、静かに言った。
「天狗の正体は西欧の人間だという話があるだろう。それほどまでに、異国の血は、忌避されていたんだ。昔は、いま以上に」
それは説明ではなく、観察だった。
「彼女もまた、そう扱われていた」
静かに置かれる事実。
そこに感情は添えられない。
だが、それで十分だった。
記乃は視線を落とす。
(環境要因、理解した)
なぜ人気がなかったのか。
なぜ安かったのか。
すべて、説明がつく。
だが、それだけでは終わらない。
次に来るものがある。
密記の視線が、わずかに揺れる。
そして、言う。
「……だから、指名した。追いやられている自分と彼女を、俺は、勝手に重ねて見てたんだよ」
理由としては、あまりにも簡潔だった。
だが、その中に含まれるものは軽くない。
(共感による、選択)
理解はできる。
だが、それをどう評価するかは別の問題だった。
室内は、再び静かになる。
音はない。
だが、確実に、なにかが変わっていた。




