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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第二章 解読深化篇
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第十一話 父の話《前編》

 人間が過去を語るとき、その内容は必ずしも事実そのものではない。


 むしろ、どこから語り始めるか──

 その選択によって、語られるものの意味は大きく変わる。

 なにを先に置き、なにを後に回すか。

 それは、記憶の整理ではなく、責任の配置に近い。


 結城記乃は、官付の暗号局の棟にある応接間にいた。

 暗号局の性質上、普段は使用頻度の低い部屋である。

 壁際には最低限の調度が整えられ、卓と椅子が配置されているが、生活の気配は薄い。


 空気は乾いており、紙と墨の匂いがほのかに残っているものの、ここが実務の場ではなく、あくまで「用件を処理するための場所」であることが明確に分かる。


 その場に、記乃は座っていた。

 理由は簡潔だった。呼ばれたからである。

 呼び出し元は、結城密記(みつとし)


 そして、すでにその場にはもうひとりいた。


「……なあ、記乃」


 低い声。

 視線を向けると、そこにいるのは義兄である偵記(さだとし)だった。

 腕を組み、椅子の背にもたれるように座っている。

 だが、その姿勢は落ち着いているようでいて、どこか均衡(バランス)を欠いているように見えた。


「なんか、やらかした覚え、あるか?」

「ありません」


 即答だった。

 偵記は一瞬だけ目を細め、それから小さく息を吐く。


「だよな……おれもねえんだよ」


 言葉の端に、わずかな苛立ちが混じる。


 呼び出された理由が提示されていない。

 その状態は、思考の処理を妨げる。


(この呼び出しは、あまりにも不確定要素が多い)


 記乃はそう判断した。

 そのとき、襖の向こうで足音が止まる。そして間を置かず、静かに開かれる。


 入ってきたのは、他のだれでもない、養父(ちち)の密記だった。

 普段と変わらない装い。

 変わらない姿勢。

 だが、空間の質だけがわずかに変わる。


(……なんだか、雰囲気がいつもより……)


 記乃はそこまで考えて、不確定な憶測だと考えることをやめた。


「よく来てくれたな、ふたりとも」


 密記はそれだけ言うと、ふたりを一瞥し、静かに卓の向かいへ座る。

 続きの言葉を、すぐには発さない。

 視線だけがわずかに動く。

 選んでいる。

 なにから話すかを。


「……記乃」


 名前を呼ばれる。

 この場には、僅かな緊張が走っている。


「はい」


 短く応じる。

 密記は一度だけ視線を落とし、それから言った。


「その、なんだ……お前を拾ったのは、偶然ではない、と言えば、驚くだろうか」


 沈黙が落ちる。

 養父が発したその内容は、いまの自分や家族を形作る前提を大きく崩すものだった。


(前提条件が狂うということ?)


 これまでの認識。自分が拾われた存在であるという前提。

 それが、いま、否定された。

 偵記が椅子から身を起こす。


「……は?」


 短い音だった。

 だが、その中に含まれる情報量は多い。

 理解が追いついていない。

 密記は続ける。

 止めない。いま話すのを止めれば、語れなくなると理解しているかのように。


「話しておくべきだと思った」


 視線は、記乃ではなく、卓の上に落ちている。


「遅いかもしれんが……いや、明らかに、遅すぎる話だな。すまん」


 その一言で、過去の重さが示される。


 そして、密記は語り始めた。


 かつての妻……記乃にとっての養母、偵記や記子にとっての実母は、相当酷い暴力性を抱いていた。

 その妻は、家の中と外では、見える姿とは異なっていた。

 外に出れば「いい奥さん」と言われ、しまいには「あんたなんかにゃ勿体ない」などと言われる始末。


 どうして、と、絶望していた。

 自分の着物の内側は青痣にまみれ、心の内は切り傷まみれだというのに、と。

 逃げ場がなかった。

 とにかく、あの痛みから逃げたかった。


 そう、淡々と語られてゆく。

 そうして、言葉は別の方向へ移る。


「俺は、妻の暴力から逃げて、逃げて、ほんの思いつきで遊郭に行った」


 偵記が顔を上げる。

 反応は早い。

 だが、口は挟まない。挟める状態ではない。


「不誠実だという自覚はあった。妻帯者が遊郭など、と」


 密記はそう言い切る。

 評価を、自分で先に提示している。

 それ以上の断罪を、他者に委ねないための処理。


(責任の分配を制御している)


 記乃は内部で整理する。


「その中で、一度だけ関係を持った女がいる」


 ここで、初めて主語が明確になる。

 それまでの流れが、すべてこの一点に収束していく。


「その女が、身ごもった」


 偵記の呼吸が、わずかに乱れる。

 記乃は動かない。

 ただ、聞いている。

 処理を続けている。


「産むと言った」


 短い。


「そして──」


 わずかな間。


「日時と場所を指定してきた」


 記乃の指先が、膝の上でわずかに動く。


「拾いに来い、と」


 その言葉で、構造が繋がる。

 点が線になる。


(……なるほど)


 理解はできる。

 だが、それと受容は別である。

 密記は続ける。


「自分の子かどうかは、正直分からなかった。けれど、遊女を孕ませておきながら無視したとあれば、それこそ不誠実だと思ったんだ」

「……確証がないのに、行ったのかよ」

「ああ。可能性があったからな」


 それは事実だった。

 確証はない。

 ただの可能性に過ぎない。


「だが」


 ここで、言葉が止まる。

 ほんの一瞬のことだ。


 そして、続く。


「その子の瞳は」


 視線が、初めて記乃へ向く。


「彼女と同じ、きれいな青紫色をしていた」


 静かだった。

 だが、その一言で、すべてが確定する。

 記乃は瞬きを一度だけする。


(……一致)


 自身の瞳。

 それと同じ色。

 そして、次に来る言葉は、すでに予測できている。


「その子が、お前だ」


 断定。逃げ場のない構造。


 沈黙が落ちる。

 今度は、先ほどとは質が違う。

 思考が、追いつかないのではない。追いついた上で、処理を止めている。

 偵記が立ち上がる。


「……ちょっと待て」


 声が低い。

 だが、抑えきれていない。


「じゃあ、なんだ」


 短く、言葉が続く。


「記乃は」


 視線が揺れる。


「本物の、おれの妹ってことか」


 ようやく、そこに至る。

 記乃は答えない。答える必要がない。

 事実はすでに提示されている。

 密記もまた、なにも言わない。

 肯定も否定もせず、ただそこに置かれている。

 確定した情報として。


 記乃は、ゆっくりと息を吐いた。


(理解はできる)


 だが、処理は終わっていない。


(分類が必要)


 現象としてではなく、関係として。

 この情報をどの位置に置くか。

 それを決めるには、まだ情報が足りなかった。


「……ひとつ、伺ってもよろしいでしょうか」


 記乃が口を開く。

 声は、普段と変わらない。

 だが、その選び方は、明確に慎重だった。


「その遊郭の女性は」


 静かな、間。


「どのような方だったのでしょうか」


 密記は、少しだけ目を閉じた。

 過去を引き出す動作。


「口数は多くなかった。だが……聡明だった。芸事も、一通りできた」


 ゆっくりと答えていく。

 そして──


「……だが」


 わずかに言葉が変わる。


「人気は、なかった」


 偵記が眉を寄せる。

 理解できない、という反応。


「理由は単純だ」


 密記は続ける。


「その血の半分が、異国のものだった」


 空気が、わずかに動く。

 その一言で、すべてが説明される。

 そして同時に、なにも解決しない。


(分類:異質)


 記乃は内部でそう記録する。

 人間は、理解できないものに名前を与える。その結果として、距離を取る。

 それが、どの時代でも繰り返される構造だった。

 密記は、静かに言った。


「天狗の正体は西欧の人間だという話があるだろう。それほどまでに、異国の血は、忌避されていたんだ。昔は、いま以上に」


 それは説明ではなく、観察だった。


「彼女もまた、そう扱われていた」


 静かに置かれる事実。

 そこに感情は添えられない。

 だが、それで十分だった。

 記乃は視線を落とす。


(環境要因、理解した)


 なぜ人気がなかったのか。

 なぜ安かったのか。

 すべて、説明がつく。


 だが、それだけでは終わらない。

 次に来るものがある。

 密記の視線が、わずかに揺れる。

 そして、言う。


「……だから、指名した。追いやられている自分と彼女を、俺は、勝手に重ねて見てたんだよ」


 理由としては、あまりにも簡潔だった。

 だが、その中に含まれるものは軽くない。


(共感による、選択)


 理解はできる。

 だが、それをどう評価するかは別の問題だった。


 室内は、再び静かになる。

 音はない。


 だが、確実に、なにかが変わっていた。


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