第八話 天才軍師の気まぐれ《後編》
軍部の建物へ足を踏み入れた瞬間、記乃は、官付とは別種の秩序が空間全体に染み込んでいることを理解した。
官付の秩序が、紙と墨と沈黙によって保たれているものだとすれば、軍部の秩序は、革と鉄と人間の呼吸によって保たれている。
廊下は広く、床はよく磨かれているが、どこか硬い。歩く人間たちは皆、一定の速さと角度で移動し、すれ違うたびに鳳条へ視線を向け、即座に姿勢を正した。
(上に立つ者の権限が、場の空気を丸々変えている)
鳳条玲は、それらの視線をまるで雨粒でも受けるように流していた。
尊敬も、畏怖も、緊張も、彼女にとっては通路に置かれた石と大差ないのだろう。
避ける必要があれば避け、踏んでも問題がなければ踏む。ただそれだけのものとして扱っている。
「現場は特定の場所でしょうか?」
記乃が尋ねると、鳳条は退屈そうに髪の先を指で弄んだまま、答えた。
「第一兵舎の仮眠室。死んだのは三人。みんな夜番明けで、同じ部屋で休んでいた」
「発見時刻は」
「明け六つ前後。起こしに行った下士官が見つけた」
「部屋の状態は」
「内側から閉まっていた。窓も戸もね」
鳳条は、そこで少しだけ笑った。
「だから、兵たちは〝軍神の息〟だの〝首のない将校が迎えに来た〟だの、好き勝手に言ってる」
「軍部でも、そのような怪異の類いの噂は成立するんですね」
「軍人だって人間だからね。だれだって、怖いものには名前をつけたがる」
そう言った声は、民俗を語る化野のそれとも、祈りを語る侍女たちのそれとも違っていた。
鳳条は、怖がる人間そのものを面白がっている。恐怖の中身ではなく、恐怖によって人間がどのように動くかを見ている。
(この人にとって、死者は起点であって、特別悼む対象などではない)
その判断に、記乃の胸の奥がわずかに冷える。
だが、歩みは止めない。
案内された仮眠室の前には、兵が二人立っていた。鳳条を見るなり姿勢を正し、何かを問う前に道を開ける。
命令以前に、彼女の存在そのものが許可証として機能している。
(聞き取りは、かなり楽になる)
そればかりは利点だった。
部屋へ入ると、まず、空気が重かった。
人間の死が残す匂い、というよりは、燃えたものの匂い。湿った木材、寝具、汗、古い革。その奥に、かすかな焦げ臭さが混じっている。
記乃は入口で足を止め、部屋全体を見た。
寝台が三つ。小さな火鉢。窓。壁の換気口。隅に置かれた行李。
床には乱れが少ない。争った痕跡もない。寝具も大きく乱れていない。
つまり、三人は苦しんで暴れたのではなく、眠った状態に近いまま死んだ可能性が高い。
記乃はいつもの通り、紙片を取り出す。
──第一兵舎仮眠室。
──死亡者三名。
──争った痕跡なし。
──室内、焦げ臭あり。
──火鉢あり。
──換気口、要確認。
「医官は、毒ではないと言ったんですね」
「そう。胃の中にも、口にしたものにも、目立つ異常なし。外傷もなし」
「顔色は」
「赤みがあったそうだよ。妙に綺麗な顔で死んでいた、ってさ」
鳳条の言葉に、記乃は火鉢へ視線を落とした。
(赤み。外傷なし。争った痕跡なし。焦げ臭。火鉢)
点が、嫌なほど整っている。
「一酸化炭素中毒の可能性があります」
記乃が言うと、鳳条の目が細くなった。
「炭の毒?」
「燃焼が不完全な場合に発生します。閉じられた部屋で吸い込めば、眠っている間に命を落とすことがあります。顔色が赤く見えることもある」
「へえ」
鳳条は火鉢を見た。
「でも、それなら事故じゃない?」
「人為的でないのであれば」
記乃は壁の換気口へ近づいた。
「あそこの換気口が塞がれている理由が、現時点では説明できません。まだ、事故として片付けるには時期尚早かと」
木枠の隙間に、黒ずんだ布片が残っている。表から見れば影に紛れて分かりづらいが、指先で触れると、油を含んだような硬さがあった。
記乃は布片を丁寧に摘み、手巾へ包む。
──換気口内側、黒布片。
──油分あり。
──意図的閉塞の可能性。
「だれかが塞いだ」
鳳条が言う。
「その可能性が高いです。以前、似たような事例に遭遇したことがあります」
「内側から?」
「外側から塞げる構造か確認が必要です」
記乃は部屋を出て、外壁側へ回った。兵舎の裏は狭い通路になっており、人間ひとりならば十二分に通れる広さ。
換気口の外側には細い格子があるが、格子の間から布を差し込むことは可能だった。
さらに、格子の下には靴跡が残っている。
軍靴。だが、一般の兵が履くものより、踵の減り方が片寄っている。
(同じ場所に、複数回立った跡)
記乃はしゃがみ込み、土の状態を確認する。
乾ききってはいない。形は残る。足跡の保存には充分だった。
──換気口外側、接近可能。
──軍靴跡あり。
──右踵外側の摩耗痕。
──複数回接近の可能性。
鳳条はその横で、楽しそうに眺めていた。
「見えるんだね。そういう、証拠が」
「見えるもなにも……残っているので」
「残っていても、見ない人間が多いのさ」
「それは、見る必要がないと思っているからでしょう」
「そう。で、そういうのを必要がある、と思える人間が、アタシは欲しかった」
欲しかった。
その言い方は、人間に対するものではなく、道具に対するものに近かった。
記乃は、あえて返事をしなかった。
聞き取りは、鳳条が同席しているおかげで、異様なほど早く進んだ。
兵も下士官も、鳳条の前では言葉を選びながらも隠し事をしようとはしなかった。もっとも、それは敬意というより、彼女に見逃されるはずがないという諦めに近い。
死んだ三人は、同じ夜番を担当していたこと。
前夜、寒さが強かったため、火鉢を入れたこと。
その火鉢を用意したのは、兵站係の井狩という男だったこと。
極めつけに──
井狩はここ最近、帳簿の不備を三人に見つけられていたこと。
さらに、井狩の軍靴は、右踵の外側だけが大きく減っているらしいということが、調査でわかったことのすべての〝情報〟だ。
点は、線になった。
「井狩さんを呼んでください」
記乃が言うと、兵は困ったような顔をした。
本来、兵に指示を下すのは記乃ではないからだ。
しかし鳳条が兵に視線を向けると、それだけで、兵は走って行った。
「便利ですね」
「権力は使えるときに使うものだよ」
鳳条は軽く笑った。
間もなく連れてこられた井狩という男は、四十前後の男だった。顔色は悪い。だが、悪い顔色を、疲労のせいにできる程度には整えている。
記乃はまず足元を見た。
右踵の外側が、確かに減っている。
「井狩さん」
「はい」
「昨夜、火鉢を用意しましたか」
「しました。少しばかり、冷える夜でしたので」
「炭は、どこから」
「兵站の保管庫からです」
「換気口に布を詰めましたか」
井狩の表情が止まった。
止まり方が、あまりに明確だった。
「……いったい、なんのことでしょう?」
「第一兵舎仮眠室の換気口に、油を含んだ黒布が詰められていました。外側には軍靴跡があり、右踵外側の摩耗痕が残っています」
井狩は黙る。
記乃は続ける。
「死亡した三名は、あなたの帳簿不備に気づいていた。火鉢を用意したのもあなた。換気口を外側から塞ぐことができる位置に立った痕跡も、あなたの軍靴と一致する可能性が高い」
鳳条が、井狩を見る。
その視線に、温度はない。
「で?」
たった一言。
だが、それで井狩の肩が震えた。
「私は……決して、殺すつもりなど」
「ふうん。あ、そう。換気口を塞いで、炭を焚いた部屋で寝かせておいて?」
鳳条は笑った。
「いったい全体、どうなると思ってたんだい?」
井狩の唇が震える。
記乃は、鳳条の言葉を遮るように、静かに言った。
「動機は、帳簿不正の隠蔽ですね」
井狩は崩れるように膝をついた。
「仕方がなかったんだ……あいつらが、上に言うと……私は、私はもう」
鳳条は退屈そうに視線を外した。
それは、興味がなくなった人間への視線だった。
(犯人が判明してしまえば、この人にとっては、もう、それだけで対象の価値は落ちる)
記乃は、これまでの鳳条の振る舞いから、そう理解した。
井狩はその場で拘束され、事件は軍部内の正式な処理へ移された。
その後、記乃は簡潔な中間報告をまとめ、官付へ戻ることになった。鳳条は相変わらず怠そうで、帰路の廊下でも軍服の外套を揺らしながら歩いている。
「いやあ、助かったよ」
「職務の範囲内です」
「んん? これ、君の職務だったっけ」
鳳条がくつくつと笑う。
記乃は足を止めかけた。
「……真壁さんには、許可を取っているのでは?」
「取ってないよ」
あっさり言った。
記乃は沈黙した。
(無許可……)
情報が、遅れて意味を持つ。
(私は後宮所属で、官付の記録官補佐であり、間違っても、軍部の人間ではない)
問題は明確だった。
「それは、困ります」
「困るのは真壁じゃない?」
「私も困ります」
「そう?」
「はい」
鳳条は、心底おかしそうに笑った。
「君は本当に、線引きするのが好きだね」
「線がなければ、責任の所在は混ざってしまいますから」
「混ざった方が面白いこともあるよ」
「ありません」
「はは。即答?」
鳳条は楽しそうだった。
記乃は、それ以上の会話を諦めた。
官付へ戻り、真壁の執務室へ向かう。
扉を叩き、入室する。
「ただいま戻りました。軍部の変死事件について報告します」
真壁は書類から顔を上げた。
そして、数秒固まった。
「……軍部?」
「はい」
「変死事件?」
「はい」
「だれの許可で行った」
記乃は一拍置いた。
「鳳条様です」
真壁は額へ手を当てた。
「……あの女」
低い声だった。
「俺は許可していない」
「そのようですね」
「ですね、じゃない」
真壁は深く息を吐き、椅子の背へ体重を預けた。
「お前は一応、後宮に籍を置く人間だ。勝手に軍部へ連れていかれていい立場じゃない」
「私も、事後にその問題を認識しました」
「事前に確認しろ」
「はい。その必要があると思い、正式な依頼かと確認したところ、鳳条様から〝そんなもの〟との回答でした」
「それは正式じゃない」
「ですから、その事実を、事後に知りました」
真壁は頭を抱えた。
その様子を見て、記乃は紙片を並べる。
「報告を続けてもよろしいでしょうか」
「……続けろ」
「変死の原因は、一酸化炭素中毒と推定されます。兵站係の井狩が帳簿不正の発覚を恐れ、夜番明けの三名が休む仮眠室へ火鉢を用意し、外側から換気口を油布で塞いだものと考えられます」
真壁は、疲れた顔のまま聞いている。
「証拠は」
「換気口内の油布、外側の軍靴跡、井狩の軍靴の摩耗痕、火鉢の準備記録、帳簿不備を死亡者三名が把握していた証言です。井狩本人も、換気口を塞いだことを認めています」
「殺意は」
「本人は否定しています。ただし、結果予見性は高いと判断されるでしょう」
「それは軍部で処理する話だな」
「はい」
真壁はしばらく黙った。
そして、低く言う。
「お前は、今後、あの胡散臭い女に呼ばれても、勝手についていくんじゃない」
「承知しました」
「必ず俺を通せ」
「はい」
「それでも連れていかれそうになったら」
「抵抗します」
「物理的には抵抗するな。あんなでも、軍官だ。必ず負ける」
「では、言語で抵抗します」
「……それで止まる女なら苦労しない」
真壁の声には、実感があった。
記乃は、その情報を記録するべきか迷い、やめた。
「報告書は」
「本日中にまとめます」
「ああ、いや。簡潔でいい。今回のは軍部側の事件だ」
「承知しました」
記乃は一礼し、執務室を出る。
廊下に戻ると、官付の空気はいつも通り乾いていた。紙と墨の匂いがあり、足音は残響を持たず、記乃の思考を一定の速度へ戻していく。
(調査範囲が、後宮の外へ広がってしまった)
その事実は、軽くない。
怪異は、後宮にだけ現れるものではない。村にも、軍部にも、人間がいて、恐怖があり、隠したいものがあれば、どこにでも成立する。
ただし、今回の件もまた、怪異などではなかった。
軍神の息でも、首のない将校でもない。
それは、人間が帳簿の不正を隠すために、三人の人間の呼吸を奪っただけの、極めて現実的で悪質な殺人だった。
(現象は、解いた)
だが、それで終わりではない。
(次からは、許可系統も確認する)
記乃はそう結論づけ、紙片の束を抱え直した。
書くべきものは、また増えている。




