第八話 天才軍師の気まぐれ《前編》
人間の価値というものは、本来、一定の基準で測定できるものではない。
だが現実には、制度や役割、所属といった外部の枠組みによって、その重みは簡単に上下する。
そして、その枠組みそのものを、あえて無視する人間が存在した場合──
その人間の判断は、どこを基準としているのか、外側からは極めて把握しづらくなる。
(なんだろう。今日は、いつもよりも……)
結城記乃は、官付の廊下を歩きながら、わずかな違和感を覚えていた。
乾いた空気は変わらない。紙と墨の匂いは均一に拡散し、足音は板の上で確かに鳴っているはずなのに、どこかで吸収されて残響を持たない。思考を乱す要素が排除された、いつも通りの環境だった。
それにもかかわらず、その静寂の中に、ひとつだけ異質なものが混ざっている。
重い足音だった。
規則的でありながら、抑制されていない。歩幅も一定で、力の抜き方も合理的であるはずなのに、なぜか〝馴染まない音〟として空間に対し浮いている。
記乃は視線を上げた。
廊下の奥から、ひとりの人間が歩いてくる。
帝国軍の正装──
瑠璃のような深い青を基調とした軍服に、簡素でありながら質の高さが一目で分かる、薄鼠色の外套。
布地は光を鈍く反射し、歩くたびに空気を撫でるように揺れている。その動きに無駄はない。だが同時に、整いすぎてもいない。
(官付に、軍部の人間? なんでまた)
ここにいる理由が、まず不明だった。
官付と軍部は門扉と外壁を隔てて隣接している。とはいえ、用件もなく通過するような場所ではない。
さらに言えば、その存在感は、ただの軍人のそれではなかった。
距離が詰まるにつれ、記乃は確信する。
(……あ。このひとは、たしか)
以前、一度だけ会った人物。
そのときは着流し姿で、異様に力の抜けた佇まいをしていた。
鳳条玲。
いま目の前にいるその人物は、以前と比べれば、装いも、立場も、印象もまるで異なる。
しかし、空気の扱い方──
空間に対して自分をどう配置しているか、その一点だけが完全に一致していた。
(別の外装を被っているだけで、べつに、本質は変わっていない)
そして、その人物が、回避不能な軌道でこちらに向かってくる。
(……こちらが進路変更をする合理性はない。すれ違いざま、会釈すればいいだけの話)
記乃はそのまま歩を進めた。
やがて、鳳条が目の前で止まる。
距離は適切。だが、その「適切さ」は相手の側が一方的に決めたものだと分かる。
「やあ」
低い声だった。
抑揚は少ないが、音の置き方が独特で、意識しなくても耳に残る。
「久しぶりだね」
記乃は一礼する。
「ご無沙汰しております、鳳条様」
「へえ。覚えててくれたんだ」
口角がわずかに上がる。
だがそれは、感情の発露というより、反応として配置された動作に近い。
(……感情表現が、機能的)
「当然です」
「そりゃ、光栄だ」
軽い返答。
しかし視線は一切逸れない。観察は、継続されている。
(顔を合わせてからずっと、観察対象として見られている状態)
記乃はその事実を受け入れたまま、動じない。
「それで、ご用件は」
先に進める。
鳳条はわずかに肩の力を抜き、気怠そうに首を傾けた。
淡い色の、ぼさぼさとも形容できる長い癖毛が、首の動きと連動して、肩からひと房垂れる。
「ちょっとね、キミの手を貸してほしいんだよ」
「内容によります」
即答すると、鳳条の目がわずかに細められる。
どこか楽しそうに見える。
「ふうん。相変わらず、そんな感じなんだ」
声に、わずかな愉悦が混じる。
「軍部でさ、少し面倒なことが起きてる」
その〝面倒〟という言葉に、重さは乗っていない。
だが、次に続いた内容は明確だった。
「人が死んでるんだよ」
厭に淡々としている。
まるで人の死を、あくまで事象のひとつとして提示するだけのように。
「ああ。相次いでね。原因不明の変死、ってことになってる」
記乃は一拍置き、情報を整理する。
(連続事象。原因不明。軍部内)
「医官の見解は」
「わからないんだってさ」
間を置かずに返る。
「毒の成分も出ない、目立つ外傷があるでもない。発作にしては、共通点が多すぎる」
鳳条の視線が、わずかに深くなる。
「だから、アタシはね」
その一言に、迷いはなかった。
「殺しだと思ってる」
(仮説ではなく、前提として置いている)
根拠は示されずとも、結論だけは固定されている。
「……私に依頼する理由を伺ってもよろしいでしょうか」
確認を挟む。
「簡単だよ」
鳳条は肩をすくめた。
「キミ、そういうの分解して観察するのが得意でしょ」
(評価基準が曖昧)
だが、否定する理由もない。
「正式な依頼でしょうか」
記乃は続ける。
ここで責任の所在を確認する必要がある。
鳳条は一瞬だけ考え、
「まあ、そんなもんだと思ってくれていいよ」
と、曖昧に答えた。
(確認不能。だが、拒否合理性なし)
相手は軍部の高官。
ここで断る方が、リスクが高い。
「……承知しました」
記乃は短く答えた。
その瞬間。
「いい子だね」
鳳条の手が伸びた。
白く細い、白魚のような指先が、記乃の顎に触れる。
持ち上げるでもなく、押すでもなく、ただ位置を確認するような接触。
(急な接触)
一瞬だけ反射が起きかける。
だが、動かない。
理由は単純。
この接触は、現時点で排除すべき対象ではない。
「この件を解決できたら」
距離が近い。
声がわずかに低くなる。
「ご褒美をあげようね」
しばしの間。
そして、記乃は即答した。
「結構です」
沈黙が落ちる。
そして。
鳳条の肩が、わずかに震えた。
「……くくっ」
笑いを堪えている。
「即答するんだ」
顎から手が離れる。
「いや、いいね。愉快、愉快」
言葉通り、愉快そうにしている。
ここで鳳条が言った〝ご褒美〟とは、軍部内では有名なもので、それは彼女と一夜を共にできるというものである。
それを、知らないとは言え、即答で断られたのだ。鳳条にとっては異常であるが、それがかえって面白いと受け取ったようだ。
(想定外の反応。叱責を受ける可能性もあったのに)
それだけは明確に読み取れる。
「では、移動を」
記乃は話を戻した。
「そうだね」
鳳条はあっさりと引き、背を向ける。
「こっちだよ」
鳳条が歩き出し、記乃はそれに続いた。
門扉を潜り、官付の外へ出る。
空気が変わる。湿度が上がり、匂いが混ざり、音が拡散する。
さらに進むと、視界の先に現れるのは軍部の区画だった。
高い塀で囲われ、出入りする人間の動きは速く、無駄がない。統制が取れているが、官付とは質が違う。
(……ここにあるのは規律だけではない。ある種の圧だ)
帝国軍の区画の門に差し掛かる。
通常なら確認が入るはずの場所だが、鳳条は一切立ち止まらない。
そのまま通過する。
(権限による無視)
それだけで成立している。
歩きながら、鳳条が言う。
「死んだやつらさ」
退屈そうに、指先で己の髪の毛の先を弄んでいる。
「別に、だれでもいいんだよ」
記乃は鳳条に視線を向けた。
「軍人でも、下っ端でも。はたまた、自分の上官であっても」
淡々と続く。
「重要なのは、死に方の方」
その言葉には、倫理的な揺らぎが一切ない。
「ひとがどう死ぬか」
わずかに笑う。
「謎解きっていうのは、暇つぶしに最適なんだ」
ようやく、記乃は結論づける。
(この人は、他人の命の価値を判断基準として持っていない)
そう。
鳳条玲という帝国軍の天才軍師にとって、命なぞ、どうでもいいものなのだ。
彼女にとってはそんなものよりも、今晩雨が降れば髪がうねるな、とか、明日の朝餉に麦飯が出ると嬉しい、とか、そういうことの方が、まだ大事なことなのだった。
それに気がついた記乃は、少しばかり、不愉快な気分になった。
だが、歩みは止めない。
(現象を解く)
それが、自分の役割だからだ。
軍部の建物が、目の前に迫る。
調査対象は、すでにその内側にある。




