第五話 差し入れ
人間の機嫌というものは、本来、外部から操作されるべき対象ではない。
疲労も、不機嫌も、思考の停滞も、いずれも内側で発生した現象であり、内側で処理されるのが自然な構造である。
それを他者が調整するという行為は、理屈の上では過剰な介入にあたる場合も多い。
要するに、自分の機嫌は自分で取りましょう、ということだ。
乾いた空気が、紙と墨の匂いを均一に拡散させている。足音は板の上で確かに鳴っているはずなのに、どこかで吸収され、空間に残らない。管理された環境というものは、思考のノイズを取り除くために存在しているのだと、改めて実感する。
そんな中で、不意に声がかかったのだ。
「記乃さん」
振り返れば、そこにいたのは三浦伊織だった。いつもと同じ姿勢、同じ距離感、同じ声量。だが、ほんのわずかに、視線の奥に別の意図が混じっている。
「はい」
記乃は足を止める。
三浦は一歩近づくこともせず、ただそこで言葉を選んだ。
「少し、お時間をいただけますか」
「内容によります」
即答だった。だが、それに対して三浦は気分を害する様子もなく、むしろ当然だと言わんばかりに頷いた。
「主のことです」
少し困った顔。
(久世様絡みか)
その単語だけで、ある程度の方向性は見える。
「近頃、業務が立て込んでおりまして」
「把握しています」
「ええ。その影響もあり、やや機嫌が安定しておられません」
事実のみを述べる口調だった。評価や感情は排除されている。だが、それでも〝安定していない〟という言い回しには、わずかな配慮が感じられた。
(機嫌なんてものは、本人が管理すべきものでは)
記乃は一度、その結論を内部でなぞる。
しかし、次の瞬間、別の記憶が浮かんだ。
暗号局近くの一室。茶の香り。醤油煎餅の硬い音。あの、不快ではない無言の時間。
義兄である偵記が行ったのは、直接的な助言でも叱責でもなかった。ただ環境を整え、余計な負荷を取り除いただけだ。
(結果として、効率は回復した)
あれをどう定義するか。
合理的な環境調整か、それとも別の何かか。
結論は出ていない。だが、効果は確認されている。
「……具体的には」
記乃は問いを返した。
三浦はわずかに視線を落とす。
「可能であれば、主の機嫌を少し取っていただけないかと」
その指示は、あまりにも抽象的だった。
(方法の定義が不足している)
「私がやらねばならないことでしょうか」
「……むしろ、記乃さんが適任と言いますか、なんといいますか……」
言葉を少々濁されるが、その意図はよくわからない。
まあ、今日は職務に追われているわけでもなし。拒否する理由もない。
「手段は任意、という認識でよろしいですか」
「はい」
即答。
(責任の所在は明確)
記乃は短く息を吐いた。
「わかりました」
三浦の表情が、ほんのわずかだけ緩む。
その変化を確認したうえで、記乃は続けた。
「久世様の好物をお聞きしても?」
「刺身です」
間髪入れずに返ってくる。
「……差し入れには不向きですね」
「ええ……」
「他には、ございますか」
三浦は少しだけ考えた。
「露店の串焼きを好まれます」
素直に、不可解な答えだと思った。
(下町の食べ物だ。官付で日ごろ食べられるものではない)
記乃は頭の中で地図を描く。
距離、時間、保存性、移動手段。
「調達はできます」
「ありがとうございます」
礼は簡潔だったが、その声音には明確な信頼が含まれていた。
そして、記乃が向かったのは真壁の執務室。
「外出許可を願います」
書類から目を離さないまま、真壁が言う。
「理由」
「差し入れの調達です」
沈黙。そして、ほんの一拍。
真壁は察しのいい男だ。
「護衛をつけろ」
「承知しました」
必要最低限で、会話は終わった。
官付の外に出るための門。
外気の匂いが、内側の空気と明確に分離されている。
護衛の到着を待機していると、足音が近づいてきた。
「よお、また会ったな」
香坂弥之助だった。
以前と同じ、軽い口調。しかし、その身体の使い方は無駄がない。肩の位置、重心の置き方、周囲への視線配分。護衛としての機能が、自然に成立している。
「結城記乃です」
「知ってる知ってる」
香坂は笑ってみせる。
しかし、その笑顔は周囲の状況を常に把握した上でのものだ。
(表層と実態が一致していない)
いまいち掴めない男。
「よろしくお願いします」
「おう。任せとけ」
ふたりは門を出る。
それだけで、空気が変わる。
湿度が上がる。匂いが混ざる。音が拡散する。
華族や官僚たちの住まいのある街を抜けるにつれて、音も人も増えていく。
遊郭街を通り抜けて、平民街──いわゆる下町にたどり着く。
下町は、情報の密度が高かった。
声が重なり、油の匂いと煙が混ざり、人間の動きが一定の規則を持たずに流れている。視界に入るものすべてが変化しており、一定の条件を維持することが難しい。
その中で、記乃は視線を流す。
露店。食材。雑貨。
そして、ある一点で足を止めた。
たくさんの香。棚に並べられたそれは、過度に主張せず、しかし確実に存在を主張する香りを持っていた。
(質がいい)
理由は明確ではない。だが、選択するに足る要素は揃っている。
「これをひとつ」
寡黙な店主が、記乃の指さした沈香を包む。
記乃はそれを手提げにしまいこみ、香坂に声をかけて再度歩き出す。
次に、本命の串焼き。
火の上で脂が弾け、肉が焼ける音がする。煙が上がり、香りが周囲に広がる。
(時間経過で温度こそ低下するが、それはさほど問題ではない。というか、どうにもできない)
充分に役割は果たせる。
そして、帰路。
「妙に普通だな」
香坂が言う。
「なにがでしょうか」
「嬢ちゃんのことだからなあ。もっと変なもん選ぶかと思ったぜ」
「贈り物に変なものを選ぶひとは少ないと思います」
「そりゃそうか」
笑う。
だが、それ以上踏み込まない。
(距離感の調整が適切)
──────────
久世の執務室。
襖を開けた瞬間、空気の密度が違うと分かる。
書類の山。未処理の案件。筆の動きの痕跡。
そして、中心にいる人間。
「……結城?」
久世が顔を上げる。
その視線が、手元の包みへと移動する。
「これは」
「差し入れです」
沈黙。
目の前に置かれた串焼きに、理解が遅れているようだった。
「……わざわざ、下町へ行ったのか?」
「はい」
「俺のために?」
「はい」
即答。
その瞬間、久世の思考が完全に止まった。
(処理能力の低下。疲労の影響)
「……なぜ、好物を知っている」
「三浦さんに伺いました」
さらに沈黙。
そして、もう一つの包みが差し出される。
「こちらも」
「……これは」
「沈香です」
久世の目がわずかに見開かれる。
想定外。
明確なそれだった。
「これも三浦に言われたのか?」
「いいえ」
「では、なぜこれを選んだ」
記乃は一瞬だけ考えた。
「上質な香りは疲労を和らげます。いまの久世様には、必要だと判断しました」
その言葉は久世にとって充分すぎた。
しばらく沈黙し、それから、ふ、と息を抜いて笑う。
疲労に押しつぶされていた表情が、わずかに崩れる。
「……そうか」
短い言葉。
だが、その中に含まれているものは軽くない。
(効果あり)
記乃はそう判断する。
「では、失礼します」
役割は完了した。
それ以上の滞在理由はない。
背を向ける。
その背に向かって、久世が小さく言った。
「……ありがとう」
記乃は振り返らない。
ただ歩く。
(頼まれたのは串焼きのみ。香は、言われたこと以上の仕事をするために、欠かせなかった)
それは、状況を改善するために必要な判断だった。
しかし、その行動が〝思いやり〟という別の意味を持つことに、記乃はまだ、気がついていない。




