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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第二章 解読深化篇
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第五話 差し入れ

 人間の機嫌というものは、本来、外部から操作されるべき対象ではない。


 疲労も、不機嫌も、思考の停滞も、いずれも内側で発生した現象であり、内側で処理されるのが自然な構造である。

 それを他者が調整するという行為は、理屈の上では過剰な介入にあたる場合も多い。


 要するに、自分の機嫌は自分で取りましょう、ということだ。


 乾いた空気が、紙と墨の匂いを均一に拡散させている。足音は板の上で確かに鳴っているはずなのに、どこかで吸収され、空間に残らない。管理された環境というものは、思考のノイズを取り除くために存在しているのだと、改めて実感する。


 そんな中で、不意に声がかかったのだ。


「記乃さん」


 振り返れば、そこにいたのは三浦伊織だった。いつもと同じ姿勢、同じ距離感、同じ声量。だが、ほんのわずかに、視線の奥に別の意図が混じっている。


「はい」


 記乃は足を止める。

 三浦は一歩近づくこともせず、ただそこで言葉を選んだ。


「少し、お時間をいただけますか」

「内容によります」


 即答だった。だが、それに対して三浦は気分を害する様子もなく、むしろ当然だと言わんばかりに頷いた。


「主のことです」


 少し困った顔。


(久世様絡みか)


 その単語だけで、ある程度の方向性は見える。


「近頃、業務が立て込んでおりまして」

「把握しています」

「ええ。その影響もあり、やや機嫌が安定しておられません」


 事実のみを述べる口調だった。評価や感情は排除されている。だが、それでも〝安定していない〟という言い回しには、わずかな配慮が感じられた。


(機嫌なんてものは、本人が管理すべきものでは)


 記乃は一度、その結論を内部でなぞる。


 しかし、次の瞬間、別の記憶が浮かんだ。

 暗号局近くの一室。茶の香り。醤油煎餅の硬い音。あの、不快ではない無言の時間。

 義兄(あに)である偵記(さだとし)が行ったのは、直接的な助言でも叱責でもなかった。ただ環境を整え、余計な負荷を取り除いただけだ。


(結果として、効率は回復した)


 あれをどう定義するか。

 合理的な環境調整か、それとも別の何かか。

 結論は出ていない。だが、効果は確認されている。


「……具体的には」


 記乃は問いを返した。

 三浦はわずかに視線を落とす。


「可能であれば、主の機嫌を少し取っていただけないかと」


 その指示は、あまりにも抽象的だった。


(方法の定義が不足している)


「私がやらねばならないことでしょうか」

「……むしろ、記乃さんが適任と言いますか、なんといいますか……」


 言葉を少々濁されるが、その意図はよくわからない。

 まあ、今日は職務に追われているわけでもなし。拒否する理由もない。


「手段は任意、という認識でよろしいですか」

「はい」


 即答。


(責任の所在は明確)


 記乃は短く息を吐いた。


「わかりました」


 三浦の表情が、ほんのわずかだけ緩む。

 その変化を確認したうえで、記乃は続けた。


「久世様の好物をお聞きしても?」

「刺身です」


 間髪入れずに返ってくる。


「……差し入れには不向きですね」

「ええ……」

「他には、ございますか」


 三浦は少しだけ考えた。


「露店の串焼きを好まれます」


 素直に、不可解な答えだと思った。


(下町の食べ物だ。官付(ここ)で日ごろ食べられるものではない)


 記乃は頭の中で地図を描く。

 距離、時間、保存性、移動手段。


「調達はできます」

「ありがとうございます」


 礼は簡潔だったが、その声音には明確な信頼が含まれていた。

 そして、記乃が向かったのは真壁の執務室。


「外出許可を願います」


 書類から目を離さないまま、真壁が言う。


「理由」

「差し入れの調達です」


 沈黙。そして、ほんの一拍。

 真壁は察しのいい男だ。


「護衛をつけろ」

「承知しました」


 必要最低限で、会話は終わった。


 官付の外に出るための門。

 外気の匂いが、内側の空気と明確に分離されている。

 護衛の到着を待機していると、足音が近づいてきた。


「よお、また会ったな」


 香坂弥之助だった。

 以前と同じ、軽い口調。しかし、その身体の使い方は無駄がない。肩の位置、重心の置き方、周囲への視線配分。護衛としての機能が、自然に成立している。


「結城記乃です」

「知ってる知ってる」


 香坂は笑ってみせる。

 しかし、その笑顔は周囲の状況を常に把握した上でのものだ。


(表層と実態が一致していない)


 いまいち掴めない男。


「よろしくお願いします」

「おう。任せとけ」


 ふたりは門を出る。

 それだけで、空気が変わる。

 湿度が上がる。匂いが混ざる。音が拡散する。


 華族や官僚たちの住まいのある街を抜けるにつれて、音も人も増えていく。

 遊郭街を通り抜けて、平民街──いわゆる下町にたどり着く。


 下町は、情報の密度が高かった。

 声が重なり、油の匂いと煙が混ざり、人間の動きが一定の規則を持たずに流れている。視界に入るものすべてが変化しており、一定の条件を維持することが難しい。


 その中で、記乃は視線を流す。

 露店。食材。雑貨。

 そして、ある一点で足を止めた。

 たくさんの香。棚に並べられたそれは、過度に主張せず、しかし確実に存在を主張する香りを持っていた。


(質がいい)


 理由は明確ではない。だが、選択するに足る要素は揃っている。


「これをひとつ」


 寡黙な店主が、記乃の指さした沈香を包む。

 記乃はそれを手提げ(バッグ)にしまいこみ、香坂に声をかけて再度歩き出す。


 次に、本命の串焼き。

 火の上で脂が弾け、肉が焼ける音がする。煙が上がり、香りが周囲に広がる。


(時間経過で温度こそ低下するが、それはさほど問題ではない。というか、どうにもできない)


 充分に役割は果たせる。


 そして、帰路。


「妙に普通だな」


 香坂が言う。


「なにがでしょうか」

「嬢ちゃんのことだからなあ。もっと変なもん選ぶかと思ったぜ」

「贈り物に変なものを選ぶひとは少ないと思います」

「そりゃそうか」


 笑う。

 だが、それ以上踏み込まない。


(距離感の調整が適切)



──────────



 久世の執務室。

 襖を開けた瞬間、空気の密度が違うと分かる。

 書類の山。未処理の案件。筆の動きの痕跡。

 そして、中心にいる人間。


「……結城?」


 久世が顔を上げる。

 その視線が、手元の包みへと移動する。


「これは」

「差し入れです」


 沈黙。

 目の前に置かれた串焼きに、理解が遅れているようだった。


「……わざわざ、下町へ行ったのか?」

「はい」

「俺のために?」

「はい」


 即答。

 その瞬間、久世の思考が完全に止まった。


(処理能力の低下。疲労の影響)


「……なぜ、好物を知っている」

「三浦さんに伺いました」


 さらに沈黙。

 そして、もう一つの包みが差し出される。


「こちらも」

「……これは」

沈香(じんこう)です」


 久世の目がわずかに見開かれる。

 想定外。

 明確なそれだった。


「これも三浦に言われたのか?」

「いいえ」

「では、なぜこれを選んだ」


 記乃は一瞬だけ考えた。


「上質な香りは疲労を和らげます。いまの久世様には、必要だと判断しました」


 その言葉は久世にとって充分すぎた。

 しばらく沈黙し、それから、ふ、と息を抜いて笑う。


 疲労に押しつぶされていた表情が、わずかに崩れる。


「……そうか」


 短い言葉。

 だが、その中に含まれているものは軽くない。


(効果あり)


 記乃はそう判断する。


「では、失礼します」


 役割は完了した。

 それ以上の滞在理由はない。

 背を向ける。


 その背に向かって、久世が小さく言った。


「……ありがとう」


 記乃は振り返らない。

 ただ歩く。


(頼まれたのは串焼きのみ。香は、言われたこと以上の仕事をするために、欠かせなかった)


 それは、状況を改善するために必要な判断だった。


 しかし、その行動が〝思いやり〟という別の意味を持つことに、記乃はまだ、気がついていない。

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