第六話 着いてくる足音
結城記乃が案内された部屋にたどり着くと、綾子妃はそこに座していた。
美しい、という評価は的確だろう。だがそれ以上に、隙がない。
視線の動かし方、口角の上げ方、沈黙の置き方。すべてが計算されている。
「いらっしゃい、結城さん」
声は柔らかい。だが、完全に制御されている。
(ああ……いったい私はなにをやらかしてしまったんだろう……)
──────────
半刻ほど前。
真壁から呼び止められたのが発端だった。
「結城」
「はい」
「鷹司綾子妃がお前を呼んでいる」
その一言で、思考が一瞬止まる。
(……まずい。心当たりがない)
だが、それを口に出す前に、真壁が続けた。
「久世から聞いた」
(余計にわからない)
「なにをやらかしたんだ」
短く、しかし的確な疑問。
「記憶にはありません」
「なら、すぐ行ってこい」
大きなため息。それで終わりだった。
記乃の心情も、ある意味終わっていた。
理由は与えられない。だが、拒否する余地もない。
ともすれば、まずは急いで行くしかない。
──────────
鷹司綾子妃の棟は、澄子妃のそれとは空気の質が異なっていた。
整っている。だが、どこか緊張が張り付いている。
装飾は華やかだが、余白が少ない。
視線が多い。評価されることを前提とした空間。
(管理ではなく、選別の空間)
通された部屋に、綾子妃が座している。
こうして、冒頭の場面へと繋がるのであった。
「お呼びいただきありがとうございます」
頭を下げる。
綾子妃はくすりと笑った。
「わたくし、少しだけ、拗ねているのよ」
意外な言葉だった。
「以前の件の報告、あなたから直接聞いていないんだもの」
その一言で、記乃は思い出す。
(……ああ、夜にだけ現れる紋様の件、のことか)
記乃は一瞬、判断を迷う。
(忘れていたわけではない。が、報告を待っておられたということであれば、それをしなかったのは、失礼にあたる可能性あり……)
綾子妃は、こらえきれないといった様子で、上品に手を口元にやり、笑う。
「ふふ、冗談よ」
軽い笑み。
「そんな顔をしないで」
そして、視線を細める。
「あなたが優秀だという話は、きちんと耳に入っているわ。澄子さんったら、こんな子を手元に置くなんて、ずるいことをするのね」
軽やかな口調。
だが、その言葉は周囲の関係に微細な波紋を生む可能性を孕んでいる。
(……諍いの火種になり得る)
だが、ここで指摘するべきではない。
記乃はただ受け止める。
「恐縮です」
「さてと。さっそく、本題なのだけれど」
綾子妃の表情がわずかに変わる。
「うちの侍女たちが、困っているの」
背後で、数人の侍女が緊張した様子で控えている。
「夜になるとね、足音がするっていうのよ」
「足音、でございますか」
「ええ。廊下を歩いていると、自分の後ろからついてくるの」
侍女のひとりが、耐えきれずに口を開く。
「振り返っても、誰もいないのです……」
「でも、確かに聞こえるのです」
声が揺れている。
(感覚の確信と、現実の不一致)
典型的な構造だった。
「これも……祟りや呪いではなくて」
綾子妃が言う。
「もしかして、あなたがよく使うっていう言葉……科学、で説明がつくのかしら?」
記乃は一拍置いた。
「現時点では断定できませんが、可能性は高いかと」
綾子妃は満足そうに頷く。
「ふふ……そう。わかったわ」
曖昧さを残しつつ、方向を示す。
「では、詳しく調べてもらえるかしら」
「承知しました」
そこで、後ろに控えていた久世が口を開く。
「では、澄子妃には私から説明しておきます」
綾子妃が微笑む。
「助かるわ」
話が早い。
久世がいて助かった、と記乃は一息つく。
その日の夜、記乃は綾子妃の棟に泊まり込みで調査を行うことになった。
とっぷり夜は更ける。
すると、廊下は昼とはまったく別の場所になる。
光が減ることで、距離感が曖昧になる。
足元の情報が減り、代わりに音の存在が強調される。
(視覚情報の減少。そして、聴覚の過敏化)
記乃は廊下の中央に立つ。
木造の床。長く伸びる直線構造。左右の壁。
天井は低すぎず、高すぎない。
(反射条件としては成立)
そこへ、侍女たちが数人、恐る恐る集まってくる。
「本当に……ここで?」
「無理にとは言いません」
記乃は淡々と答える。
「ただ、現象を確認するには、観測者が必要です」
侍女たちは顔を見合わせる。
そして、ひとりが頷いた。
「……見ます」
記乃は軽く頭を下げる。
「では、再現します」
廊下の端へ歩く。
一定の速度。一定の歩幅。
足音が、乾いた音で床に響く。
──す、す、す。
数歩進んだところで。
──すっ……
わずかに遅れて、音が返る。
さらに進む。
──すっ、すっ。
──すっ……
侍女のひとりが息を呑む。
「……来る」
「後ろから……」
記乃が歩みを止めると、音も止まる。
振り返ったとて、誰もいない。
再び歩けば、同じ現象。同じ遅延。
(再現性あり)
記乃は位置を変え、壁際に寄る。
音が変わり、遅延が弱まる。
中央に戻ると、遅延が強まる。
「いまのが現象です」
静かに言う。
「自分の足音が、遅れて戻ってきています」
侍女たちは混乱している。
「でも……後ろから聞こえます」
「はい」
記乃は頷く。
「音は方向を持ちますが、反射によってその方向が歪みます」
壁を指す。
「ここに当たった音が、少し遅れて戻るのでしょう」
床を指す。
「そして、音の到達時間の差が、距離として認識される」
侍女たちは黙っている。
「その結果、自分の後ろから別の人間が歩いているように感じる」
沈黙。
侍女たちの中で、理解がゆっくりと進む。
記乃はさらに歩く。同じ音。同じ遅れ。
「現象は一つです」
言い切る。
「人間は増えていません」
侍女のひとりが、ようやく息を吐いた。
「……じゃあ、だれもいなかったのですね」
「はい」
記乃は答える。
「ですが、怖いと感じたこと自体は不自然ではありません」
少しだけ声を落とす。
「夜は情報が減ります。人間は不足した情報を補おうとする。その際、最も強い感情が優先される」
「……恐怖、でしょうか?」
「はい」
侍女たちの肩の力が、少しずつ抜けていく。
その翌朝。
綾子妃の前で報告を行う。
──────────
「音の反射と遅延によるものです」
「そう」
綾子妃は頷く。
「人の気配ではなかったのね」
「はい」
背後の侍女たちの表情は、昨夜とは明らかに違っていた。
恐怖は消えていない。だが、形が変わっている。
そうして、官付へと赴く。
真壁への報告。
「音の反響、か」
「はい」
「なにかしらの害意は」
「確認されていません」
「なら問題ない」
短い。
そして、真壁がぼそりと呟く。
「部下がなにかやらかしたんじゃなくてよかった……」
その場にいた久世が言う。
「お手柄だな」
軽い口調。だが、視線はまっすぐだ。
記乃は一瞬考える。
(面倒事が増える)
だが同時に、役に立てる、という喜びがあったのも、また事実。
「ありがとうございます」
そう答える。
「やけに素直だな」
「いけませんか」
「いや、そんなことは……ただ、少し驚いた」
久世の頬が少し赤いような気がする。
そういえば、梅雨が終わり、本格的な夏が始まろうとしている。
「水分補給を怠っては体調を崩しますよ」
「……お前はなんの話しをしているんだ?」
記乃も久世も認識できていない感情や思いがある。
しかし、当人たちは、そんなことを知る由もない。
(ひとまず、またひとつ、後宮の謎が解けてよかった)
あの廊下から、自分以外の足音が消えることはない。
ただ、そこに怪異などというものは存在しないことが周知となった。
ゆえに、あの足音の意味が変わる。
それだけで、人間の恐怖は充分に形を変える。




