第四話 なにかいる部屋
気配というものは、実体よりも先に人間の内側で形を持つことがある。
音がした気がする。
視線を感じた気がする。
誰かがそこにいる気がする──
そうした感覚は、目に見える証拠を持たないまま、胸の奥へ細い針のように入り込む。けれど、人間はその針をただの感覚として放置することが苦手だ。
なにかがいるのだと名前をつけ、理由を与え、怖がるべきものとして扱おうとする。
(誰もいないのに、人の気配がする部屋)
結城記乃は、澄子妃の棟の廊下を歩きながら、侍女たちの会話を思い返していた。
始まりは、昼過ぎの控えの間だった。
澄子妃の棟は、後宮の中では比較的静かな場所である。派手な笑い声も、意味のない噂話も少ない。侍女たちはよく働き、よく考え、必要以上に騒がない。
その彼女たちが、今日は明らかに落ち着いた様子ではなかったのだ。
「また、あの部屋から音がしたの」
「誰もいないはずなのに?」
「ええ。襖の向こうに、人がいるような……」
「私も昨日、前を通ったとき、誰かに見られている気がして」
声は抑えられていた。
けれど、抑えられているからこそ、不安は濃く聞こえた。
記乃はその場で茶器を片づけながら、顔を上げずに聞いていた。
(人の気配)
怪異としては曖昧だ。
血の涙でも、青い炎でも、夜に浮かぶ紋様でもない。見えるものがあるわけではない。触れられる証拠があるわけでもない。
ただ、感じる。
だからこそ厄介だった。
人間の感覚は、証拠になり得ない。
だが、行動を変える理由にはなる。
「記乃さん」
ひとりの侍女が、遠慮がちに声をかけてきた。
「はい」
「あの……変なことを聞いてもいいかしら」
「内容によります」
「あなた、こういうことを調べるの、得意でしょう?」
得意、という言葉の選択に少しだけ違和感があった。
好きでも、得意でもない。
必要があるから確認しているだけだ。
そう返そうとして、記乃は一拍置いた。
(いま、あえてそれを訂正する必要性は感じない)
「確認はできます」
「じゃあ、少しだけ見てくれないかしら。澄子様のお耳に入れるほどではないと思うの。でも、皆、怖がっていて」
記乃は茶器を盆に置いた。
「どの部屋ですか」
侍女は、廊下の奥を示した。
棟の北側にある一室。
普段はあまり使われていない、古い調度品や季節外れの布類を置いている部屋だった。
記乃は紙片を取り出し、万年筆を走らせる。
──澄子妃棟、北側一室。
──無人時、人の気配ありとの証言。
──音、視線感、襖の向こうの存在感。
──侍女複数名が不安を訴える。
(現時点では、個人的確認で充分)
真壁へ報告する段階ではない。
死人も怪我人も出ていない。物品の破損もない。澄子妃へ直接害が及んだわけでもない。
だが、侍女たちの業務に支障が出るなら、放置は非効率だ。
記乃はその日の夕刻、ひとりで北側の一室へ向かった。
部屋の前に立つと、廊下の空気がわずかに冷たく感じられた。
実際の温度差か、それとも、噂を聞いた後だから、感覚としてそう感じるだけか。
(感覚は、まず疑う)
記乃は襖に手をかける前に、廊下の状態を見る。
北側。ゆえに、日当たりは弱い。
人の往来は少ない。
床板は古く、ところどころ軋みがある。
壁際には細い隙間があり、外気が入り込む可能性がある。
記乃は襖を開けた。
中は薄暗かった。
日ごろ使われていない部屋特有の匂いがある。畳、木材、布、防虫香の残り香。そこに、湿気が混じっていた。
当然ながら、人はいない。
だが、侍女たちが言った意味は、少しだけ分かった。
部屋の奥に、何かがいるように感じる。
視線ではない。
音でもない。
空間の圧に近い。
(……なるほど)
記乃は一歩、部屋へ入った。
その瞬間、足元の畳がわずかに沈む。
同時に、部屋の奥で、ことり、と小さな音がした。
記乃は動きを止める。
音の位置は部屋の右奥、棚のあるあたり。
(誰かが動いた音、に聞こえる)
だが、実際には違う可能性が高い。
記乃は音がした方向へ歩く。
棚には、古い箱がいくつか置かれていた。蓋の端にわずかな隙間がある。布が垂れ、箱の側面に触れている。
風が入れば、揺れる。
揺れれば、箱を叩く。
その音は、人が奥で身じろぎした音に似る。
記乃は紙片に書きとめる。
──入室時、右奥より微音。
──棚上の箱、布端が接触。
──気流により打音発生可能。
次に、窓へ近づく。
木枠は古い。完全には閉まっていない。外との間に、ごく細い隙間がある。
指先を近づけると、弱い風を感じた。
(気流あり)
記乃は窓の隙間へ紙片の端を近づける。
紙が、かすかに震える。じっくりと見なければ分からない程度の動き。
だが、音を生むには充分だった。
──北窓、閉まり不完全。
──微弱な気流あり。
──紙片振動にて確認。
記乃は部屋の中央へ戻った。
じっと立つ。
音はないが、妙な圧は残っている。
(視線感)
視線を感じるという表現は、実際には視線そのものではなく、身体が周囲の変化を拾っている状態に近い。
背後の空間。側面の暗がり。見えない場所。
人間は、見えない領域に存在を仮定するものだ。
特に、緊張しているときは。
記乃は部屋の配置を見る。
古い姿見が、布をかけられた状態で壁際に立てられていた。
その鏡は、完全には覆われておらず、端がずれて、鏡面の一部が露出している。
そこに、部屋の入口付近がぼんやり映っていた。
(これか)
記乃は姿見に近づく。
薄暗い部屋で、鏡の一部だけが露出している。
視界の端に、動く影が入る。
自分の動きだ。
だが、気を張っている人間なら、自分の後ろに誰かが立ったように感じてもおかしくない。
──姿見、一部露出。
──入口付近および通行者の影を反射。
──視界端での動体認識により、他者存在感を誘発。
記乃は布を完全にかけ直した。
すると、部屋の圧が少しだけ薄くなった。
(やはり)
しかし、まだ残る。完全には消えない。
記乃は部屋の奥へ進む。
そこには、古い衣桁があった。
布が何枚か掛けられている。薄い布、厚い布、季節外れの羽織。
風が入ると、布がわずかに揺れる。
それはどこか、人間の肩のように見える。
さらに、その下には床板の隙間があり、廊下側の空気が通っている。
(微音、気流、影)
複数の小さな要因が重なっている。
一つだけなら気にならない。
だが、暗い部屋、使われていない空間、噂、緊張……そこに微音と気流と影が重なれば、人間は「気配」として統合する。
記乃はすぐに、紙片へ整理した情報をまとめる。
──要因一、北窓からの微弱気流。
──要因二、布と箱の接触音。
──要因三、姿見の部分反射。
──要因四、衣桁の布揺れ。
──要因五、使用頻度低下による心理的緊張。
書きながら、記乃は少しだけ息を吐いた。
(何者の害意も、悪意もない)
だれかが仕掛けたわけではない。
なにかを隠したわけでもない。
ただ、古い部屋の構造と、人間の不安が噛み合っただけだ。
それでも、怪異というものは成立してしまう。
人間の恐怖に、悪意は必ずしも必要ないということだ。
翌朝、記乃は侍女たちを数人だけ集めた。
澄子妃へ報告する前に、まず不安を持っている本人たちへ説明する必要があると判断したためだった。
北側の一室の前で、侍女たちは落ち着かない様子を見せている。
「本当に、入るの?」
「昨日も、誰かがいるような気がして」
「無理にとは言いません」
記乃は言った。
「ただ、原因を知ってしまえば、恐怖の形は変わると思いますよ」
侍女たちは互いに顔を見合わせた。
最終的に、最初に相談してきた侍女が頷いた。
「……入るわ」
記乃は襖を開けた。
朝の光が斜めに入り、部屋の暗さは昨日より薄い。
それでも、侍女たちは身を固くしていた。
「まず、音です」
記乃は棚の布端を示す。
「窓から風が入ると、この布が動き、箱に当たります」
窓を少し開ける。
風が流れ、布が揺れる。
ことり、という小さな音。
侍女のひとりが息を呑んだ。
「昨日、聞いた音……」
「人が動いた音ではありません」
記乃は続ける。
「次に、視線を感じる原因ですが」
姿見の布を少しだけずらすと、鏡面が露出する。
侍女のひとりが動くと、その影が視界の端に揺れた。
「あ……」
「人間は、視界の端で何かが動くと、そこに存在を感じます。特に、怖がっているときは」
侍女たちは黙っている。
記乃は衣桁へ向かった。
「最後に、布の揺れです」
窓を開ける。
微弱な風が入り、衣桁に掛けられた羽織がゆっくり揺れた。
人間が身じろぎしたようにも見える。が、近づけばただの布だった。
「この部屋には、誰もいません」
記乃は静かに言う。
「ただし、人がいるように感じる条件が複数あります」
「条件……」
「はい。微かな音。気流。影。暗さ。そして、ここは怖い場所だ、という先入観です」
侍女のひとりが、胸元を押さえた。
「じゃあ、私たちが勝手に怖がっていただけ、ってこと?」
その言い方には、自分たちを責める響きがあった。
記乃は一拍置く。
否定は簡単だ。
だが、ここで必要なのは、恐怖を嘲ることではない。
「勝手、ではありません」
記乃は答えた。
「人間の感覚は、環境の影響を受けます。現に、この部屋ではよくわからない現象が起きていて、それを怖いと感じたこと自体は、なにも不自然なことではありません」
侍女たちが記乃を見る。
「ただ、その感覚を怪異として扱う前に、確認できることがあります」
少しだけ空気が緩む。
恐怖は、完全には消えていない。
それでも、対象が変わった。
正体の分からないなにか、ではなく、窓と布と鏡と音。
それならば、もう新たに恐怖が生まれる可能性は低いと言える。
記乃はそう判断した。
その日のうちに、部屋の調整を行った。
北窓の隙間には紙を挟み、仮の目張りをする。箱に触れていた布は畳み直す。姿見には厚い布をかけ、紐で固定する。衣桁の布は別の場所へ移す。
すると、部屋の印象は明確に変わり、ただの古い物置に戻った。
侍女たちは、恐る恐るではあるが、部屋の中へ入れるようになった。
「本当に、何も感じないわ」
「さっきまであんなに怖かったのに」
「こんなことで変わるのね」
記乃はその反応を聞きながら、紙片へ書く。
──窓隙間、仮目張り。
──布類、固定および移動。
──姿見、全面遮蔽。
──微音および影の発生低下。
──侍女らの恐怖反応、軽減。
そこまで書いてから、記乃は万年筆を止めた。
(悪意なし)
今回は、だれもなにも仕掛けていない。
誰かを追い出そうとしたわけでもない。
罪も、処罰も、犯人もいない。
ただ、環境が人間の感覚を誤らせた。それだけだった。
だが、それだけでも充分に怪異は生まれてしまう。
翌日、記乃は念のため真壁へ報告した。
官付庁舎の執務室は、いつものように紙と墨の匂いがする。
真壁は書類から顔を上げずに言った。
「なんだ」
「澄子妃の棟で、誰もいない部屋に人の気配を感じるという噂がありました」
「また、その手の話か」
「はい」
「で、今回の詳細は」
「微音、気流変化、姿見の部分反射、布の揺れ、心理的緊張による感覚誤認です」
真壁はようやく顔を上げた。
「害意、もとい犯人は」
「現状、確認されていません」
「被害は」
「業務上の不安程度です。怪我人、破損、工作の痕跡はありません」
「なら、後宮内処理で充分だな」
「はい。部屋の調整は済ませました」
真壁は短く頷いた。
「報告書は簡潔でいい」
「承知しました」
「お前は、そういう小さい火種も拾うな」
「火事になる前であれば、消火が容易ですので」
「……そうだな」
真壁は少しだけ疲れたように息を吐いた。
「まあ、よくやった」
記乃は一瞬だけ黙った。
真壁の労いは、いつも短い。
だが、必要以上の装飾がない分、この人の言葉は自分の中で処理しやすい。
「ありがとうございます」
一礼し、執務室を出る。
廊下へ戻ると、空気は乾いていた。
怪異とは、必ずしも大掛かりな仕掛けから生まれるわけではない。
小さな音、わずかな風、視界の端に揺れる影、そして、そこに人間の不安が重なるだけで、だれもいない部屋にだってだれかがいることになる。
(人間の感覚は、思ったよりも簡単に騙される)
記乃はそう結論づけた。
だからこそ、書く。
感じたことではなく、確認したことを。
恐怖ではなく、条件を。
澄子妃の棟へ戻る頃には、北側の一室の前を通る侍女たちの足取りが、昨日より少しだけ軽くなっていた。
それだけで、今回の調査は充分に意味があった。
記乃は胸元の紙片を押さえ、静かに歩を進めた。




