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記録官の断章 〜解体される怪異〜  作者: 早河縁
第二章 解読深化篇
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第三話 労り

 結城記乃は、官付庁舎の廊下を歩きながら、どこか心ここに在らず、といった様子だった。


 この前のお化けの村についての報告書は、すでに提出している。真壁からの追加指示もない。業務としては一区切りついた状態だった。

 にもかかわらず、身体の奥に残る疲労は、思考の回転をわずかに鈍らせている。


(五日間、環境が変わった影響か)


 移動、調査、説明、記録。すべてを通常の精度で維持した。その反動が、遅れて表面に出ている。

 歩幅を崩すほどではない。だが、わずかな遅延がある。


(効率が落ちている)


 記乃はそう判断した。

 そのときだった。


「記乃」


 声が落ちてきた。

 振り向くまでもない。

 義兄(あに)偵記(さだとし)だった。

 廊下の柱に寄りかかるように立っている。腕を組み、こちらを見ている視線は、普段よりもわずかに柔らかい。


「数日前に戻ったって聞いた」

「はい」

「怪我は」

「ありません」


 簡潔に答える。

 嘘ではない。日常動作に支障はない。報告も済ませた。ならば、問題はないと判断する。

 だが、偵記は眉を寄せた。


「……そういう目的で聞いてんじゃねえんだけどな」


 小さく息を吐く。


(なにか、基準が違う受け答えをしてしまったんだろうか……?)


 記乃は少し考える。

 出した結論としては、自分の判断は機能ベースで、偵記のそれは、状態ベース。


「少しですが、疲れてはいます」


 訂正する。

 偵記は一瞬だけ黙り、それから顎で奥を示した。


「来い」

「用件を伺ってもよろしいでしょうか」

「いいから来い」


 短い。

 だが、拒否を前提としない言い方だった。


(強制ではなくとも、兄さんがこう振舞っているとき、私の選択肢はほとんどないに等しい)


 記乃は従うことにした。

 案内されたのは、暗号局の棟に近い一室だった。偵記がよく使用するという応接室に近い場所。


 襖を開けると、すでに準備が整っていた。

 卓。湯呑。急須。

 そして──


(醤油煎餅)


 木皿の上に並べられている。

 記乃は一瞬だけ視線を止めた。


(当たり前といえば当たり前だけど、好みを把握されている……)


 自分が何を好むか。

 それが、選択に反映されている。

 偵記は座るように顎で示した。


「座れ」

「失礼します」


 向かいに座る。

 湯が注がれる。湯気が立つ。香りが上がる。

 茶の匂い。

 そして、醤油の焦げた香ばしさ。

 混ざる。


(私がくつろげる環境設計)


 記乃はそう判断した。

 偵記が煎餅を一枚、皿から取る。


「食え」

「いただきます」


 手に取る。

 指先に、わずかな油分と硬さが伝わる。

 噛むと煎餅の割れる音がする。

 ぱき、と乾いた音。

 舌に、醤油の塩味と甘みが広がる。


(……落ち着く)


 記乃は一度だけ瞬きをした。

 偵記はその様子を見て、わずかに口元を緩めた。


「顔に出てる」

「……そうでしょうか」

「出てる」


 即答。


 偵記が茶を啜る。

 少し間が空く。

 会話が途切れているわけではない。

 必要がないだけだ。


(不快でない沈黙。いつも通り)


 記乃はそう整理した。


 十数分もの間、特に言葉を交わさず、互いに茶と煎餅を消費する。

 その間に、身体の緊張がゆるやかに抜けていく。

 思考の遅延が、わずかに改善される。


(……効率が戻りつつある)


 記乃はそう判断した。


「五日間、何してた」


 偵記が言う。


「農村での現象調査です」

怪異(オカルト)関係か」

「はい。水面反射による視覚誤認でした」

「……またそういうやつか」

「はい」


 記乃は簡潔に説明する。


 条件。再現。認知。社会構造。

 順序を崩さない。

 偵記は途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。


「なるほどな」


 短く言う。

 理解しているかどうかは、そこまで重要ではない。

 重要なのは、話を遮らないこと。


(聞く姿勢というのは、大切だ。兄さんはそれを重々理解している)


 記乃はそれをそう評価した。


「で」


 偵記が煎餅をもう一枚取る。


「それより前は、殴られたんだろ」


 視線が上がる。

 記乃を見る。

 直接的だった。


「はい」

「殺されかけたって話だが」

「未遂です」

「結果論だろ」


 即答。

 少し強い。

 記乃は一瞬だけ思考を止める。


(評価軸に差がある……)


 再確認する。


「危険性の評価については、今後見直します」

「そういう話じゃねえ」


 偵記は眉間に皺を寄せる。


「おまえはな」


 一拍。

 言葉を選んで、偵記がわしゃわしゃと己の髪を乱して頭を掻く。


「もうちょっと、自分を消耗品みたいに扱うの、やめろ」


 静かだった。

 怒鳴っているわけではない。

 だが、言葉は明確だった。

 記乃は、その言葉を一度分解する。


(消耗品)


 使って減るもの。代替可能なもの。

 そう扱っている、という指摘。


(……否定はできない、かもしれない)


 記乃は結論づけた。


「改善します」


 そう答える。

 偵記は一瞬だけ固まり、それから小さく息を吐いた。


「……お前なあ」


 呆れと、諦めが混ざる。が、それ以上は言わない。

 代わりに、湯を注ぎ直され、茶が満たされる。

 湯のみの上に、湯気が立ちのぼる。


(言葉を続けない)


 それもまた、選択だった。

 記乃は煎餅をもう一枚取る。

 食べる。

 同じ味。

 同じ音。

 だが、先ほどよりもわずかに感覚が鮮明だった。


(回復している)


 そう判断する。

 偵記がぼそりと言う。


「好きだろ。醤油煎餅」

「はい」

「だから用意した」


 理由が提示される。

 だが、それ以上の装飾はない。

 記乃は頷く。


「ありがとうございます」

「礼はいい。その代わり、しばらく大人しくしてろ」

「業務に支障が出ない範囲であれば」

「出なくてもだ」


 被せる。

 強い。

 だが、内容は単純だ。


(行動制限。でも、合理性はある)


 疲労状態での判断は精度が落ちる。

 ならば、一定の抑制は有効。


「善処します」


 答える。

 偵記はそれ以上は言わなかった。

 茶が減ひ、煎餅も減る。時間がただ進む。

 だが、それは単なる消費ではなく、回復行動に近かった。


(労り)


 記乃は、偵記の行動や言葉をそう定義付ける。

 食べ物。距離。沈黙。

 すべてが、過不足なく配置されている。


(設計されている)


 そう結論づけた。

 やがて、記乃は湯呑を置いた。


「戻ります」

「もういいのか」

「はい。充分です」


 立ち上がる。

 偵記は頷いた。


「無理、すんなよ」

「はい」


 簡潔に答える。

 部屋を出え、廊下に戻る。

 空気は変わらない。

 だが、己の身体の感覚は、先程までと明確に違っていた。


(回復した)


 記乃はそう判断した。

 そして、歩き出す。仕事へ戻るために。

 労りは充分に作用した。


(……ありがたい)


 記乃は再度義兄(あに)に心の中で感謝を述べて、背筋を伸ばした。

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