第三話 労り
結城記乃は、官付庁舎の廊下を歩きながら、どこか心ここに在らず、といった様子だった。
この前のお化けの村についての報告書は、すでに提出している。真壁からの追加指示もない。業務としては一区切りついた状態だった。
にもかかわらず、身体の奥に残る疲労は、思考の回転をわずかに鈍らせている。
(五日間、環境が変わった影響か)
移動、調査、説明、記録。すべてを通常の精度で維持した。その反動が、遅れて表面に出ている。
歩幅を崩すほどではない。だが、わずかな遅延がある。
(効率が落ちている)
記乃はそう判断した。
そのときだった。
「記乃」
声が落ちてきた。
振り向くまでもない。
義兄の偵記だった。
廊下の柱に寄りかかるように立っている。腕を組み、こちらを見ている視線は、普段よりもわずかに柔らかい。
「数日前に戻ったって聞いた」
「はい」
「怪我は」
「ありません」
簡潔に答える。
嘘ではない。日常動作に支障はない。報告も済ませた。ならば、問題はないと判断する。
だが、偵記は眉を寄せた。
「……そういう目的で聞いてんじゃねえんだけどな」
小さく息を吐く。
(なにか、基準が違う受け答えをしてしまったんだろうか……?)
記乃は少し考える。
出した結論としては、自分の判断は機能ベースで、偵記のそれは、状態ベース。
「少しですが、疲れてはいます」
訂正する。
偵記は一瞬だけ黙り、それから顎で奥を示した。
「来い」
「用件を伺ってもよろしいでしょうか」
「いいから来い」
短い。
だが、拒否を前提としない言い方だった。
(強制ではなくとも、兄さんがこう振舞っているとき、私の選択肢はほとんどないに等しい)
記乃は従うことにした。
案内されたのは、暗号局の棟に近い一室だった。偵記がよく使用するという応接室に近い場所。
襖を開けると、すでに準備が整っていた。
卓。湯呑。急須。
そして──
(醤油煎餅)
木皿の上に並べられている。
記乃は一瞬だけ視線を止めた。
(当たり前といえば当たり前だけど、好みを把握されている……)
自分が何を好むか。
それが、選択に反映されている。
偵記は座るように顎で示した。
「座れ」
「失礼します」
向かいに座る。
湯が注がれる。湯気が立つ。香りが上がる。
茶の匂い。
そして、醤油の焦げた香ばしさ。
混ざる。
(私がくつろげる環境設計)
記乃はそう判断した。
偵記が煎餅を一枚、皿から取る。
「食え」
「いただきます」
手に取る。
指先に、わずかな油分と硬さが伝わる。
噛むと煎餅の割れる音がする。
ぱき、と乾いた音。
舌に、醤油の塩味と甘みが広がる。
(……落ち着く)
記乃は一度だけ瞬きをした。
偵記はその様子を見て、わずかに口元を緩めた。
「顔に出てる」
「……そうでしょうか」
「出てる」
即答。
偵記が茶を啜る。
少し間が空く。
会話が途切れているわけではない。
必要がないだけだ。
(不快でない沈黙。いつも通り)
記乃はそう整理した。
十数分もの間、特に言葉を交わさず、互いに茶と煎餅を消費する。
その間に、身体の緊張がゆるやかに抜けていく。
思考の遅延が、わずかに改善される。
(……効率が戻りつつある)
記乃はそう判断した。
「五日間、何してた」
偵記が言う。
「農村での現象調査です」
「怪異関係か」
「はい。水面反射による視覚誤認でした」
「……またそういうやつか」
「はい」
記乃は簡潔に説明する。
条件。再現。認知。社会構造。
順序を崩さない。
偵記は途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
「なるほどな」
短く言う。
理解しているかどうかは、そこまで重要ではない。
重要なのは、話を遮らないこと。
(聞く姿勢というのは、大切だ。兄さんはそれを重々理解している)
記乃はそれをそう評価した。
「で」
偵記が煎餅をもう一枚取る。
「それより前は、殴られたんだろ」
視線が上がる。
記乃を見る。
直接的だった。
「はい」
「殺されかけたって話だが」
「未遂です」
「結果論だろ」
即答。
少し強い。
記乃は一瞬だけ思考を止める。
(評価軸に差がある……)
再確認する。
「危険性の評価については、今後見直します」
「そういう話じゃねえ」
偵記は眉間に皺を寄せる。
「おまえはな」
一拍。
言葉を選んで、偵記がわしゃわしゃと己の髪を乱して頭を掻く。
「もうちょっと、自分を消耗品みたいに扱うの、やめろ」
静かだった。
怒鳴っているわけではない。
だが、言葉は明確だった。
記乃は、その言葉を一度分解する。
(消耗品)
使って減るもの。代替可能なもの。
そう扱っている、という指摘。
(……否定はできない、かもしれない)
記乃は結論づけた。
「改善します」
そう答える。
偵記は一瞬だけ固まり、それから小さく息を吐いた。
「……お前なあ」
呆れと、諦めが混ざる。が、それ以上は言わない。
代わりに、湯を注ぎ直され、茶が満たされる。
湯のみの上に、湯気が立ちのぼる。
(言葉を続けない)
それもまた、選択だった。
記乃は煎餅をもう一枚取る。
食べる。
同じ味。
同じ音。
だが、先ほどよりもわずかに感覚が鮮明だった。
(回復している)
そう判断する。
偵記がぼそりと言う。
「好きだろ。醤油煎餅」
「はい」
「だから用意した」
理由が提示される。
だが、それ以上の装飾はない。
記乃は頷く。
「ありがとうございます」
「礼はいい。その代わり、しばらく大人しくしてろ」
「業務に支障が出ない範囲であれば」
「出なくてもだ」
被せる。
強い。
だが、内容は単純だ。
(行動制限。でも、合理性はある)
疲労状態での判断は精度が落ちる。
ならば、一定の抑制は有効。
「善処します」
答える。
偵記はそれ以上は言わなかった。
茶が減ひ、煎餅も減る。時間がただ進む。
だが、それは単なる消費ではなく、回復行動に近かった。
(労り)
記乃は、偵記の行動や言葉をそう定義付ける。
食べ物。距離。沈黙。
すべてが、過不足なく配置されている。
(設計されている)
そう結論づけた。
やがて、記乃は湯呑を置いた。
「戻ります」
「もういいのか」
「はい。充分です」
立ち上がる。
偵記は頷いた。
「無理、すんなよ」
「はい」
簡潔に答える。
部屋を出え、廊下に戻る。
空気は変わらない。
だが、己の身体の感覚は、先程までと明確に違っていた。
(回復した)
記乃はそう判断した。
そして、歩き出す。仕事へ戻るために。
労りは充分に作用した。
(……ありがたい)
記乃は再度義兄に心の中で感謝を述べて、背筋を伸ばした。




