第二話 お化けの村《後編》
理解というものは、常に一様に広がるわけではない。同じ説明を受けても、納得する人間と、受け入れきれない人間がいる。
恐怖が長く積み重なっていればいるほど、それを解体するには時間がかかるものだ。
だが、ときに──
ひとつの理解が、周囲を押し流すように広がることもある。
川辺に立つ者たちの中で最初に声を上げたのは、記乃とさほど年が変わらないでたろう男だった。
「……すげえな」
ぽつりと漏れた声だった。
だが、その声音には、恐怖ではなく、明確な感嘆が混じっていた。
「祟りを……こんな風に、分けて考えるなんて……」
男は一歩前に出る。
水面と、記乃と、化野とを交互に見ながら、言葉を探している。
「今まで、怖いってだけで……近づくなって言われて、それで終わってたのに」
息を吸う。
「ちゃんと、理由があるって分かると……」
男は顔を上げる。
「なんだ、ただの影じゃねえかって、思える」
沈黙。
そして、その言葉をきっかけに、周囲の空気がわずかに動いた。
「……確かに」
「さっきのは……人だったな」
「消えたんじゃなくて、見えなくなっただけ、なんて……」
小さな声が、連鎖する。
若者が、さらに言う。
「村から、お化けを追い払ったも同然だ!」
その声は、先ほどまでの空気を切り替えるには、充分だった。
別の若者が頷く。
「そうだな。もう、あれに怯えなくていい」
その空気に飲まれて、その場にいた年配の女が口を開く。
「……なら、あんたたちをこのまま帰すわけにはいかないねえ」
化野が眉を上げる。
「おや。それは、いったい?」
「馬車で寝泊まりなんて、よくないよ。女がふたりで」
「護衛もいるんだけどねえ」
「男がついてんなら、なおさらだ」
年配の女はぴしゃりと言い切る。
そして、その視線が記乃へと向いた。
「うちに泊まりな」
それは命令ではない。
だが、拒むことを前提としない言い方だった。
若者たちがすぐに続く。
「そうだ、泊まっていけ!」
「飯も出す!」
「うちには酒の貯蔵があるぞ!」
化野がくつくつと笑う。
「ずいぶん歓迎されてるねえ。記乃ちゃん」
記乃は一拍だけ考えた。
(調査は完了している。だが、追加の情報収集は可能)
視線を上げる。
「では、ご厚意に甘えます」
村人たちの表情が、明らかに緩んだ。
その夜は、そのまま宴のような形へ移行した。
焚き火が増え、器が並び、簡素ながらも温かい食事が振る舞われる。
干ばつの影響が残る村にしては、明らかに無理をしたもてなしだった。
(感謝の表現)
記乃はそれをそう受け取った。
酒が注がれる。
「ほら、飲みな」
差し出された盃を、記乃は軽く押し返した。
「申し訳ありません。あと二年は飲めません」
一瞬の沈黙。
それから、化野が吹き出した。
「細かいけど、君らしいねえ」
くつくつと笑う。
「真面目だこと」
「法律ですから」
「はいはい」
酒は化野が引き受ける形になった。
そうして、予定よりも早く事件が解決したことで、二人はそのまま村に留まることになった。
合計三泊。
昼は村内を歩き、話を聞く。
夜は記録を整理する。
記乃は紙片を絶やさなかった。
──伝承、発生時期。
──干ばつ以前の言い伝え。
──水辺に関する禁忌。
──周辺地域との比較。
化野はそれを横から覗き込む。
「いいねえ。こりゃあ、上等な資料になる」
「分類が必要です」
「その分類が助かるんだって」
村人たちは気前よく話してくれた。
恐怖が解体されたことで、口を閉ざす理由がなくなったのだろう。
(情報は、恐怖よりも軽い)
記乃はそう考えた。
そして、五日目の朝、ふたりは護衛とともに村を出た。
馬車が動き出すと、すぐに揺れが一定になる。
記乃は窓の外を見ていた。
だが、しばらくすると、視線が落ちる。
瞼が重い。
(……思っていたよりも、疲労が強い)
そのまま、意識が途切れた。
化野はそれを横目で見る。
眠っている。身体の力が抜け、馬車の揺れに合わせてわずかに傾く。
(……十八歳、ね)
揺れる馬車の中で、記乃は完全に眠りに落ちていた。
外界の情報を遮断するように、呼吸は一定で、表情も崩れている。調査中に見せていた緊張や、計算された応答の痕跡は、どこにも残っていない。
ただの、人間の眠りだった。
化野は、その様子を横目で眺める。
頬の線はまだ幼い。骨格も細く、筋肉のつき方も未完成に近い。だが、その内側にあるものは、明らかに年齢相応ではない。
あれほどまでに冷静に現象を分解し、言葉を選び、恐怖を構造へと落とし込む人間が、こうして無防備に眠っている。
その落差が、妙に現実感を失わせた。
(娘でも、おかしくない年頃だ)
一瞬だけ、そう考える。
だが、その思考は、すぐに別の記憶を引き寄せた。
いま隣で眠る娘よりも、その存在がまだずっと小さかったころ。
手の中に収まるような体温。
言葉を持たないまま、ただ泣くことしかできなかった声。
それが、ある日を境に、途切れた。
理由は単純だ。
病だった。
医者も薬も、意味を持たなかった。
だから、失われた。
化野はそのとき、なにもできなかった。
観察することしかできなかった。
症状を見て、経過を見て、変化を見て。
だが、それをどうにかする手段は、ひとつも持っていなかった。
(……未確認、では済まなかった)
あのときのそれは、現象ではなかった。
ただの、不可逆の事実だった。だから、記録も意味を持たなかった。
分析も、解体も、何ひとつ救いにはならなかった。
煙管を指で軽く叩く。
現象として扱えるものと、扱えないものがある。
それは理解している。
だが──目の前の少女は、違う。
あれは、未確認を確認へ落とし込む側の人間だ。
構造を見抜き、言葉にし、他者へ渡すことができる。
それは、かつて自分が持ち得なかったものだ。
(だから、連れてきた)
化野は、そう結論づける。
娘ではない。代替品でもない。
ただ、己の研究の役に立つ小娘だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
窓から煙管の火を落とす。
(らしくない)
思考を切る。
視線を前へ戻す。
──────────
官付庁舎。
真壁の前に立つと、記乃の意識は完全に覚醒していた。
報告は簡潔に、順序を崩さず、的確に。
現象、条件、再現、社会構造。
すべてを並べる。
真壁が頷く。
「ご苦労」
そのときだった。
扉が勢いよく開く。
「結城!」
久世だった。
息を切らしている。
らしくない動きだった。
「……無事か」
「つつがなく仕事を終えてきました」
淡々と答える。
久世の眉が寄る。
「それにしたって、五日も姿を消すとはどういうことだ」
「必要な調査期間でした」
「以前の里帰りより長いぞ」
「久世様には直接関係がないことかと」
一瞬、空気が止まる。
久世が、わずかに言葉を失う。
(……反応が鈍い)
三浦が静かに口を開いた。
「主は、結城様を心配なされておられたのですよ」
記乃はそちらを見る。
「あの。以前から思っていたのですが」
淡々と続ける。
「三浦さんは、私よりも歳も立場も上です。様付けはよしてください」
三浦が一瞬だけ考える。
「では、なんとお呼びしたら」
「呼び捨てで結構です」
間。
「……それは遠慮しておきます」
三浦の主そのひと、久世の視線が突き刺さる。
(主の機嫌を損ねる可能性が極めて高い)
三浦はそう判断した。
「では、記乃さんと」
「承知しました」
やり取りが終わる。
だが。
久世の機嫌は、明らかに戻っていなかった。
「久世様?」
記乃が首を傾げる。
「どうかされましたか」
久世は視線を逸らす。
「……なんでもない」
それだけ言って、踵を返す。
去る足取りが、わずかに荒い。
真壁が短く言う。
「面倒事を増やすなよ」
「はい」
記乃は一礼した。
言葉の真意を理解していないだろう記乃の返答と様子に、真壁はため息を吐いて頭を抱えた。
記乃は部屋へ戻り、机に向かった。
紙片を並べて、万年筆を取る。
(報告書)
書くべき内容は、すでに整理されている。
──水面反射+視点依存。
──夜間認知歪み。
──干ばつとの誤結合。
──規範化による固定。
記乃は筆を走らせた。
現象は、解体された。
だが、本格的な記録はこれからだ。
腕が鳴る。




