第一話 道中
怪異という言葉は、現象に名前を与える行為の中でも、最も曖昧な部類に入る。
原因が不明であること。現性が確認できないこと。あるいは、確認しようとする試みそのものが忌避されること。
そうした条件が重なったとき、人間はそれを〝怪異〟と呼ぶ。
だが、その実体は多くの場合、単に〝未確認〟であるに過ぎない。
(確認されれば、それはただの現象になる)
結城記乃は、その順序を疑ったことがなかった。
なぜこんなものが流行るのか、理解ができないな。
そんなことを考えながら、記乃は歩を進めていた。
官付の廊下は、いつもと変わらず乾いている。
紙と墨の匂いが、湿度を抑えられた空気の中で均一に広がり、歩く者の動きを吸い込むように静けさを保っていた。
足音は必要以上に響かない。音が立たないのではなく、立った音が吸収される構造。
(管理された空間は心地いい)
記乃はその中を、一定の歩幅で進んでいた。
目的は明確だ。
後宮のとある場所──医局に向かうため。
というのも、真壁のもとに、とある申請があったというのだ。
その申請者が医局にいるというので、尋ねる必要があった。
申請者の名は、化野涼。
(……どこかで聞いたような苗字だ。なんだか嫌な予感がする)
対象対象は〝怪異現象〟。
申請者は化野涼。
同行者希望欄には、結城記乃の名前。
期間は五日。
移動手段は馬車および徒歩。
書面に書かれた情報を整理しながら歩いていると、空気の流れがわずかに変わった。
煙の匂い。
薬草でも、香でもない。
焦げた葉のような、乾いた煙。
(……いるな。あの人が……)
視線を上げると、柱の影に寄りかかる人影があった。
細い煙が、上へ、上へと伸びている。
「おんやあ〜?」
声が先に落ちてきた。
案の定、化野幽だった。
煙管を口元に咥えたまま、こちらを見ている。
姿勢はだらけているが、視線は妙に鋭い。
「ちょうどよかった。探してたんだよねえ」
軽い口調。
だが、待ち伏せに近い位置取り。
(意図的)
記乃は立ち止まる。
「私にご用件ですか」
「そうそう。優秀な記録官補佐殿にね」
からかうような言い回し。
だが、その裏にある評価は隠していない。
(冗談と事実の混在)
記乃はそれ以上反応しない。
それにしても、やはりあの申請者とここにいる女は、同一人物だったのか。
化野幽というのは筆名だと以前聞いたが、さすがに書面などの公的な部分では、本名を使うのか。
「どのようなご用件でしょうか」
申請があったことは知っている。しかし、詳細は知らない。
化野は煙を吐いた。
わざと、ゆっくりと、時間を引き延ばすような仕草。
相手の反応を観察している。
(間を作る人間)
「あのさ。小旅行、行かない?」
言葉だけが軽い。
だが、その内容は軽くない。
記乃は瞬きを一度だけした。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「理由ねえ。だいたい知ってるんじゃないの?」
「詳細についてはまったく。申請者の書き方が杜撰だったので」
化野は笑う。
煙が口元から漏れ、細くほどける。
「お化けが出る村があるんだよ」
記乃は表情を変えなかった。
(典型的な導入)
「お化け、ですか」
「夜になると、川辺に人影が立つらしい」
「人影」
「近づくと消える。でも、足跡は残る」
情報は断片的だ。
だが、充分だ。
(視覚現象と、物理痕跡によるもの……だろうか)
記乃は思考を組み立てる。
光源の問題か。反射か──あるいは、人間による誘導か。
「現地での確認は行われていますか」
「されてないねえ」
「なぜ」
「祟られちゃあ、困るからね」
化野は肩をすくめる。
「それでみんな納得してる」
(合理性の欠如)
だが、それは珍しくない。
恐怖は検証を止める。検証が止まれば、情報は増えない。
情報がなければ、恐怖は固定化する。
(閉じた循環)
「あなたは調査対象として興味がある、ということですね」
「それもある」
化野は笑った。
「でも、それだけじゃない」
煙を吐く。
「せっかく怪異を理屈で解体できる人間がいるんだから、連れて行きたい」
記乃は、そこで初めてわずかに目を細めた。
(評価の方向性が明確)
「この間の後宮の件、聞いてるよ」
「どの程度でしょうか」
「夜に光る紋様、塗料、犯人……全部。ああ、怪我は平気?」
(情報網が広い)
記乃は内心でそう判断する。
「で?」
化野が身を乗り出す。
「どうだった?」
「現象でした」
「怪異じゃなくて?」
「はい」
化野は満足そうに笑った。
「いいねえ。それそれ、そういうのだってば」
煙が揺れる。
「怪異をそのままにしない人間、好きだよ」
(嗜好の問題)
記乃はそれをそう分類した。
「つまり、その村の現象についても同様の処理が可能と見込んでいる、ということですね」
「そういうこと」
「期間は」
「五日くらい」
「同行者は」
「私と護衛が二人」
(最低限)
記乃は思考をまとめる。
危険性は未確定。だが、情報量は多い。
(行く価値はある)
「まずは申請許可が下るのを待ちます」
「それはそうだね」
「……そんなに簡単に許可は下りないと思うが」
仕事をしながら静かに聞いていた相良が口を挟んでくる。
すると、化野はくすくすと笑って言い放った。
「真壁に記乃ちゃんを貸してほしいって言ってこようかな」
「やめておけ」
「えー?」
そんなことがあった、翌々日。
化野涼……もとい、化野幽の申請に許可が下る。
記乃は内心、開いた口が塞がらなかった。
(まさか、本当に真壁さんに直々に話に行ったんだろうか)
なんて恐ろしいことをするんだ、あの人は。
と思いつつも、ひとまず出立の準備に取り掛かる。とは言っても、荷物は少ない。最低限の着替えと、いつもの紙片帳と万年筆。
着替えよりなにより紙が足りなくなってはいけない、と紙を鞄に足して、準備完了。
官付の門を出た瞬間、空気の質が変わる。
閉じられた管理空間から、開いた環境へ。
湿度が上がる。匂いが混ざる。音が広がる。
(……統制されていない空間)
馬車に乗り込む。
油と革の匂いが鼻を打つ。車輪が石を噛み、細かく振動する。身体が揺れる。その揺れに合わせて、視界が流れる。
建物が後方へ退いてゆく。人間の密度が下がってゆき、反対に、空は広がる一方。
(歩行とは違う情報の取り方)
徒歩では拾える細部が流れ、代わりに全体の構造が見える。
道の流れ。地形の傾き。人の配置。
「どう?」
化野が横から言う。
「なにがでしょうか」
「外の空気」
「湿度が高いです」
「そうじゃなくてさあ」
化野は笑う。
「面白いかどうか」
記乃は一拍置いた。
「現時点では判断できません」
「そっか」
三刻は馬車に揺られただろうか。
目的地に着いたのか揺れが収まったので、馬車を降りる。
地面は柔らかい。土が水を含んでいる。草の匂いが強い。
川の音が、遠くから連続して聞こえる。
(自然にあふれている)
足裏の感触が変わる。
踏み込むと、わずかに沈む。
均一ではない、管理されていない地面。
道は細くなる。木々が視界を遮る。光が斑に落ちる。
風が抜けるたび、葉が擦れる。
その中で。
(静かすぎる)
記乃は違和感を覚えた。
村が近いはずなのに、人の気配が薄いのだ。
生活音が少ない。声がない犬の鳴き声も、子どもの声もない。
化野が立ち止まる。
「着いたよ」
指差す先。
木々の隙間に、村が見える。煙が上がっており、人はいる。
だが──
(活気が、ない)
空気が沈んでいる。
外から見ても分かる程度に。
「ここがお化けの出る村」
化野は楽しそうに言う。
煙管を軽く振る。
「さて」
煙がほどける。
「解体、してみる?」
記乃は村を見た。
線、光、人影。
(現象か、怪異か)
答えは現地にある。
「はい」
短く答える。
「確認します」




