第二話 お化けの村《前編》
水というものは、形を持たない代わりに、あらゆるものを映す。
空を映し、木々を映し、人間の姿を映す。
だが、その映り方は決して忠実ではない。角度が変われば歪み、風が立てば崩れ、光が弱まれば曖昧になる。
つまり、水面とは「現実を写す装置」であると同時に、「現実を誤認させる装置」でもある。
(その二面性が、怪異を生み、人々が流布する)
結城記乃は、村へ入る前の細い道を歩きながら、視線を地面からわずかに上げた。
湿った土が靴底にまとわりつく感触がある。踏み込むたびに、沈み方が微妙に変わる。均一ではない。管理されていない地面は、歩行という単純な行為にすら、余計な情報を混ぜてくる。
(足場が安定しない場所は、人間の認知も安定しない)
前を歩く化野が、煙管を軽く振った。灰が落ち、湿った土に吸われていく。
「……灰を落とすのは常識違反かと」
「ここは農村だよ? 灰は肥料になるだけさ」
また言い訳ばかりして、と記乃は呆れる。
「さて、と」
軽い声。だが、先ほどまでの廊下でのそれとは違う。間の取り方が変わっている。観察のための間ではなく、状況を測るための間。
(切り替えている)
記乃はそれをそう判断した。
「まずは、村人に話を聞こうかねえ」
「はい」
短く返す。
村へ入ると、空気の重さが明確に変わった。 湿度ではない。音でもない。
それは、人間の気配の質。
視線が集まる。だが、すぐに逸らされる。
(警戒されている)
外から来た人間。それも、女が二人。片方は煙を吐き、もう片方は紙片と万年筆を持っている。
(異質だ)
村の中央には、小さな広場があった。井戸と、簡素な祠。その周囲に、人間が集まり始める。
化野が一歩前に出た。
「こんにちは。少し話を聞かせてもらってもいいかなあ」
声は柔らかい。だが、語尾にわずかな強制力がある。
「民俗の記録をしている者だ。で、こっちは助手。変わった話を集めてるんだ」
嘘ではない。だが、目的の一部だけを切り出している。
(情報の開示量を調整している)
年配の男が一歩前に出た。
「……何の用だ」
「ああ。祟りがあるという池の話を聞きたい」
空気が止まる。
わずかに、ざわめきが走る。
(反応が早い)
禁忌に近い。
あるいは、それに準じる扱い。
「夜に、人影が出るんだろう?」
化野が続ける。
言い切りではない。確認の形を取っている。
それに対し、別の女が口を開いた。
「……出るよ」
声が低い。
「川のところだ。夜になると、立ってる」
「人間かい?」
「違う!」
即答。
強い恐怖が混じった否定の声。
「近づくと消える……だけど、足跡が残るんだ」
記乃は紙片を取り出す。
──夜間、川辺に人影。
──接近で消失。
──物理痕跡(足跡)あり。
(視覚と物理の乖離)
典型的な構造だった。
「その話は、いつからあるんだい?」
化野が問う。
「……昔からだ」
村民の男は、曖昧な回答をするのみ。
「最近、増えたとかは?」
男が顔をしかめる。
「増えた、というか……」
一拍。
妙な間だが、言葉を選んでいるようにも見える。
「三年前、干ばつがあってからだ」
記乃の手が止まる。
(結びつけている)
化野も同じことを考えたらしい。わずかに口元が緩む。
「その干ばつと、例の人影が関係あると?」
「あるに決まってるさ」
女が強く言う。
「影が出てから、水が減ったんだ」
(因果の錯誤)
記乃は紙片に書く。
──三年前、干ばつ発生。
──影の目撃と時間的近接。
──因果関係の誤認。
「死んだやつらも大勢いる」
別の声。
「餓えてな」
沈黙。
空気が重くなる。
(死者の発生で、概念が固定される)
記乃は続ける。
──多数、餓死者あり。
──祟り概念の強化。
化野がゆっくりと頷く。
「なるほどねえ」
軽い調子。だが、その裏で情報を整理している。
軽薄そうな声色とは正反対に、眼差しは鋭い。
「池には近づかない方がいい、ってことになってるのかな」
「当たり前だ」
男が言う。
「夜にあそこへ行くやつはいない」
(行動制限の正当化)
記乃は、ただ化野の〝助手〟として書きとめる。
──危険区域化。
──禁忌形成。
化野が振り返る。
「どう?」
記乃を見る。
「現時点では、視覚現象と認知の結合による誤認の可能性が高いと考えます」
周囲の空気がわずかに硬くなる。
(言い方が直接的すぎる)
化野がすぐに被せた。
「つまりねえ」
柔らかく笑う。
「ちゃんと調べれば、お化けについてなにかしら分かるかもしれない、ってことだよ」
言い換え。
衝突を避ける形。
(役割分担。やはり、この人の人あたりのよさは調査の上で都合がいい)
記乃は口を閉じた。
「夜、我々が直接見に行ってもいいかな?」
化野が問うと、周囲はざわめく。
否定の空気感。
だが、最終的に、年配の男が頷いた。
「……勝手にしろ」
許可ではない。放棄に近い。
「死んでも知らんぞ」
「ありがとう」
化野は笑った。
その笑みは、いつもの軽薄なものではない。
(観察対象としての興味)
記乃はそう判断する。
広場を離れると、化野が煙管に火をつけた。
「いいねえ」
「何がでしょうか」
「条件が揃ってる」
煙を吐く。
「再現性が低い現象。噂は観測者に依存していて、災害との結びつきを見出している」
指を折る。
「完璧な怪異の材料だ」
「はい」
記乃は頷いた。
「逆に言えば、分解もしやすい」
「そう」
化野が笑う。
「君を連れてきて正解、ってわけだ」
記乃は視線を前へ戻す。
川の方向。
まだ見えない。だが、音は近い。
(水面)
水は光を映し、影をも映す。
そして、誤認を生む。
(条件を揃えれば、再現できる)
記乃はそう結論づけた。
「まずは現場の確認を行いましょう」
「そうだね。それがいい」
化野が歩き出す。
「日が高いうちに、現場くらいは見ておこうか」
村の奥へ向かう。
木々の隙間から、光が落ちる。
その先に、水の匂いがあった。
(現象とは、必ず物理法則に従うものだ)
記乃は足を止めなかった。
「記録します」




