第十話 夜浮かぶ紋様《後編》
目を覚ますという行為は、必ずしも穏やかなものではない。
眠りから浮上する感覚が、水面へ顔を出すようなものならば、痛みによって意識を引き戻される感覚は、冷たい床へ叩きつけられることに近い。
(……痛い)
記乃が最初に認識したのは、頭の奥に残る鈍い痛みだった。
次に、薬の匂い。乾いた布。薄い灯り。
そして、窓の外が暗いという事実。
「気がついたか」
相良の声がした。
記乃はゆっくり視線を動かす。
ここは医局の寝台か。
横の椅子に座る相良。
そして、自分の頭に包帯が巻かれている感覚。
「……どのくらい時間が経ちましたか」
「二日近く寝ていた」
「二日……」
「頭を鈍器で殴られたんだ。髪の下を、三針縫った」
記乃は頭へ触れようとして、相良に止められた。
「触るな」
「はい」
「吐き気は」
「少し」
「視界は」
「揺れます」
「なら、まだ寝ていろ」
「上田千恵は」
「捕まった」
「塗料は」
「押収された」
「紋様は」
「今は休め」
相良の声が、少しだけ低くなる。
「今は、報告より自分の傷だ」
記乃は一度だけ目を伏せた。
聞きたいことは多い。
だが、頭の痛みが思考の速度を落としている。
(効率が悪い)
そう判断したところで、記乃はまた眠りに落ちた。
翌朝。
医局の戸が開き、明るい声が入ってきた。
「嬢ちゃん、怪我は大丈夫か?」
記乃は目を開ける。
見知らぬ禁衛が立っていた。
年は、三十手前だろうか。
非常に体格がよく、目元が明るい。人懐こい印象だが、立ち姿に隙はない。
「香坂弥之助だ。この前、上田を拘束した禁衛のひとりだ」
「結城記乃です」
「知ってる。久世様から、起きたら後宮の門まで連れてくるか、無理そうなら久世様を呼べって言われてる」
相良が横から口を挟む。
「大事には変わりない。今歩かせるのは──」
「行きます」
記乃は身体を起こした。
頭が重い。
だが、動けないほどではない。
「おい」
「報告が必要です。それに、あの方を呼びつけるのは気が引けます」
「今じゃなくていいだろ」
「今後の処理に関わります」
相良は深くため息をついた。
香坂は記乃の顔色と動作を見て、少し考える。
「歩けるか?」
「はい」
「ふらついたら抱えるぞ」
「それは避けたいですね。ふらつかないように努力します」
「そういう問題か?」
香坂は笑った。
記乃は簡単に身支度を整え、医局を出た。
後宮の門へ向かうのかと思っていたが、香坂は官付庁舎の奥へ進んでいく。
「真壁さんのところでは?」
「久世様の執務室だ。真壁殿もそっちにいる」
(指示系統をまとめたのか)
ひとまず、そう判断した。
久世の執務室へ入ると、そこには久世と三浦、そして真壁がいた。
久世は机の向こうに座っている。
首元には、相変わらず青紫色の灰簾石が光っていた。
だが、顔に笑みはない。
「結城」
真壁が声をかけてくる。
「報告できるか」
「はい」
記乃は紙片を出そうとした。
だが、手元にはなかった。
代わりに、三浦が机の上へ紙片の束を置く。
「お預かりしておりました。塗料がかからぬよう、抱えておられました」
「ありがとうございます」
記乃はそれを受け取り、順に並べた。
──鷹司綾子妃棟、夜間紋様出現。
──和島、紋様接触後に手のかぶれ。
──上田千恵、重度の手荒れ。
──柱より付着物採取。
──上田の部屋、塗料臭および染み確認。
声に出して読み上げる。
加えて、書き留められなかった暴行時の詳細な流れも、合わせて。
現象。証拠。推測。暴行。
未確認事項。
順序を崩さない。
報告を終えると、真壁が短く頷いた。
「上田の部屋から塗料と筆、布、家紋の下絵が見つかった」
「やはり、鷹司牡丹ですか」
「ああ」
三浦が続ける。
「塗料は、日中に光を蓄え、暗所で発光する性質のものです。加えて、温度差で発色が強くなる調合がされていたようです」
「蓄光性の熱反応塗料」
記乃は小さく言った。
「昼夜の温度差で、夜に紋様が浮かぶ」
「そういうことだ」
真壁が言う。
「上田は、丑三つ時を過ぎてから棟へ忍び込み、数日かけて柱や床へ塗ったと認めている」
「動機は」
「鷹司綾子妃への嫌がらせだ」
久世の声だった。
低い。
「綾子妃は皇貴妃にふさわしくない。自分の仕える女御の方が上だ。そういう浅い理屈だ」
記乃は目を伏せる。
「浅くとも、害は出ました」
「ああ」
「上田千恵の罪状は」
真壁が答える。
「不法侵入、器物破損。加えて、お前への傷害。状況次第では殺人未遂も問われる」
記乃は、ぴたりと表情を固める。
「私が、彼女の罪を増やしてしまいました」
室内の空気が止まった。
真壁が眉を寄せる。
「元より彼女は罪人だ。お前が負い目を抱くのは間違いだ」
「しかし」
「お前を殴ったのは上田だ。塗料を浴びせたのも上田。お前が自分の頭を自分で殴ったわけではないだろうが」
「それは、そうです」
「なら混ぜるな」
真壁の声はそっけなくも、鋭かった。
久世は黙って聞いている。
記乃は、視線を向ける。
「モールス信号の受発信機、実験段階でしたが、役に立ちそうですね」
久世は、ようやく口を開いた。
「ああ、そうだな」
それだけだった。
顔に笑みはない。
真壁が立ち上がる。
「報告書は、怪我がもう少しましになってからでいい。期限は問わん」
「期限なし、ですか」
「そうだ」
「それは困ります」
「困ればいい。今はとにかく休め」
真壁はそれだけ言って、部屋を出ていった。
香坂も一礼して下がる。
残ったのは、久世と三浦と記乃だけだった。
期日がない仕事は、扱いづらい。
どこまで後回しにしてよいか、判断基準が曖昧になる。計画を立てづらい。
(困った)
そう考えていると、久世が椅子から立ち上がった。
近づいてくる。距離が近い。
だが、今日は面白がっている気配はない。
「あまり、無茶をしてくれるな」
「ここまでの事態になることを予測できませんでした。申し訳ありません」
淡々と答えれば、久世は眉をひそめる。
「殺されかけたんだぞ」
「はい。以後、気をつけます」
「……信用ならん」
久世は苛立ったように息を吐いた。
(なにか、返答を間違えただろうか)
考えてみるも、よくわからない。
なぜ久世がここまで怒る必要があるのか。
すると、久世は言い放つ。
「やはり、俺のところで安全に仕事をしてもらおうか」
(俺)
記乃は一瞬、そこに引っかかった。
普段の一人称は「私」だったはずだ。
(私、というのは、公の場での着飾った一人称なのだろうか)
だが、今はそこを分析している場合ではない。
否定しなければならない。
「今後、死ぬようなことは起きないよう気を配ります」
「それを信用できないと言っている」
「私は記録官補佐です。久世様の下で働くわけにはまいりません」
久世は笑わなかった。
ただ、深くため息を吐いた。
三浦も少し困ったように目を伏せる。
「……次に死にかけてみろ」
久世の声が低くなる。
「絶対に、今の仕事を辞めさせるからな」
これ以上ない脅し文句だった。
記乃は少しだけ考える。
「死にかけないよう、努めます」
「本当に分かっているのか」
「はい」
「信用ならん」
「よく言われます」
久世は、またため息を吐いた。
三浦が静かに口を開く。
「結城様。今日は、澄子妃の棟へお戻りください。報告書は後日で充分です」
「承知しました」
「塗料のついた着物は処分しております。代わりのものは手配済みです」
「ありがとうございます」
記乃は一礼し、久世の執務室を出る。
廊下の空気は医局より少し乾いていた。
頭はまだ痛む。足元も、わずかに頼りない。それでも歩けはする。
(夜に浮かぶ紋様)
あれは、呪いなどではなかった。
ただの浅はかな嫌がらせ。
蓄光性の塗料。
昼夜の温度差。
人間の嫉妬と、浅い悪意。
線に意味を与えるのは人間だ。
だが、線を描くのもまた、人間である。
記乃は澄子妃の棟へ向かいながら、胸元を押さえた。
紙片は無事だった。
それだけは、よかった。
(報告書は、後日)
そう結論づける。
だが、書くべきことはもう決まっている。
夜に浮かんだ紋様は、怪異ではない。
それは、人間が他の人間を追い出すために描いた、ぼんやりと淡く光る、明瞭な悪意だった。
──────────
記乃の足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
扉が閉まった後も、久世はしばらく動かなかった。
首元の灰簾石だけが、窓から差し込む光を受けて、静かに青紫色の光を返している。
「久世様」
三浦が、控えめに口を開いた。
「今回の件、少々ご様子が尋常ではありませんでした」
久世は、ようやく視線を上げた。
「そうか?」
「はい」
「怪我人を心配するのは、普通だろう」
「普通の範囲を越えておりました」
三浦の声は穏やかだった。
だが、逃がす気はない響きがある。
「まさかとは思いますが」
「何だ」
三浦は、一拍置いて訊ねる。
「結城様を、好いておいでですか」
久世は、一瞬だけ黙った。
それから、低く笑う。
「馬鹿を言うな」
声は軽かった。
だが、軽さを作っている声だった。
「あれは、お気に入りのおもちゃが、他人に壊されかけたことに腹が立っているだけだ」
「おもちゃ、ですか」
「ああ」
久世は椅子の背にもたれる。
「あれは面白い。よく動くし、よく考える。見ていて飽きない。勝手に壊されては困る」
三浦は黙って聞いていた。
その言葉を、額面通りには受け取らない。
久世は確かに、面白いと感じたものを好む。
珍しいものを拾い上げる。
退屈を嫌い、退屈を壊す人間を傍に置きたがる。
それは事実だ。
だが、先ほどの表情は、それだけではなかった。
そして、倒れた記乃を見たときの声。
「黙れ」と命じたときの低さ。
医局へ運ばれた後も、表情から消えなかった苛立ち。
それは、所有物が傷ついた怒りだけでは説明しきれない。
「久世様」
「何だ」
「物のように仰ると、結城様は逃げます」
「分かっている」
「本当に分かっておいでですか」
「……ああ」
三浦は、静かにため息を吐いた。
「その程度の理解で近づくと、また逃げられます」
「では、どう言えばいい」
「まず、おもちゃという認識を改めるところからでは」
「認識の話ではなく、言い方の話だ」
「そこが問題なのです」
久世は不満げに眉を寄せた。
まるで、理不尽な指摘を受けた子どものようだった。
三浦は、その顔を見て、内心で結論をひとつ置く。
(おもちゃでは、ない)
少なくとも、久世自身が思っているよりは。
結城記乃という娘は、久世にとって、ただ退屈を紛らわせる玩具ではない。
壊れてほしくない。失いたくない。
手元に置きたいが、無理に置けば逃げると分かっている。
その程度には、久世はすでに彼女を気に入っている。
「伊織」
「はい」
「次、あれが危ない目に遭ったら、本当に取り上げるぞ」
「何から、でしょうか」
「今の仕事からだ」
「結城様は、抵抗なさるでしょうね」
「抵抗してもだ」
「その場合、久世様もかなり嫌われるかと」
久世は黙った。
それは困る、という顔だった。
三浦は目を伏せる。
やはり、ただのおもちゃではない。
「……では、危ない目に遭わないように根回しする」
「その方がよろしいかと」
久世は頬杖をつき、窓の外を眺める。
そして、そのまま呟く。
「伊織」
「はい」
「あれは、自分がどれほど危なっかしいか分かっていない」
「はい」
「なのに、死にかけても紙片を抱えている」
「はい」
「馬鹿だ」
「仕事熱心、と表現して差し上げては」
「いいや。馬鹿だ」
三浦は否定しなかった。
久世は、首元の灰簾石に指を触れた。
青紫の石が、小さく揺れる。
「困った女だ」
その声には、怒りが残っていた。
だが、その奥にあるものを、三浦は聞き逃さなかった。
心配。執着。
そして、本人だけが決して認めようとしない、奇妙な愛着。
「ええ」
三浦は静かに答えた。
「困った方ですね」
どちらを指した言葉なのか、久世は気づかなかった。
窓の外では、夕方の光が少しずつ薄れていく。
夜になったところで、あの紋様はもう浮かばない。塗料も、筆も、描いた人間も、すでに押さえられた。
だが、別のものが残っている。
ぼんやりと淡く光る悪意ではなく。
消したつもりでも、まだ胸の内側に残ってしまう、名のついていない熱。
久世はそれを、まだ怒りだと思っていた。
それでも三浦は、久世の中に宿るそれを、怒りだけではないと知っていた。




