第十話 夜浮かぶ紋様《中編》
手というものは、行為の痕跡を残しやすい。
書く。持つ。塗る。隠す。
人間は、意識して顔を整えることはできる。声を落ち着かせることもできる。言葉を選び、表情を飾り、いかにも何も知らないふりをすることもできる。
だが、手だけは難しい。
指先の荒れ、爪の間に残った色、手首の内側にできたかぶれ。
それらは、口よりも先に事実を漏らすことがある。
(まずは、手を見る)
記乃は、女御付き侍女・上田千恵のいる棟へ向かっていた。
手元には、濃色の紙片に採取した微量の付着物がある。手巾に包み、胸元の内側へしまっていた。
夜に浮かぶ紋様。
昼には見えず、夜には現れる。
触れた者の手がかぶれる。
現場に残る粉状の痕跡。
そして、上田千恵の重いかぶれ。
(怪異などではない。条件で姿を変える物質だ)
記乃は歩調を崩さず、廊下を進む。
女御の棟は、鷹司綾子妃の棟とはまた空気が違っていた。
整ってはいるが、柔らかさは少ない。
人間の目が多い場所だった。
通り過ぎる下女たちの視線は、記乃の衣と顔と手元を短く見て、すぐに逸れる。
ここでは、余所者が目立つ。
それでも立ち止まってはいけない。立ち止まれば、こちらが迷っているように見える。
記乃は近くにいた下女へ声をかけた。
「上田千恵さんはいらっしゃいますか」
下女は少しだけ目を見開いた。
「上田様ですか」
「はい。少し確認したいことがあります」
「いまは、奥の部屋でお仕事中かと」
「案内をお願いできますか」
下女は一瞬迷ったが、記乃の落ち着いた声音に押されたのか、小さく頷いた。
案内された先は、廊下の奥にある小部屋だった。
戸の向こうから、布を畳むような音がする。
記乃は戸の前で足を止め、声をかけた。
「お仕事中に失礼いたします。結城記乃と申します。少し、お話を伺ってもよろしいでしょうか」
内側の音が止まった。
沈黙。
それから、やや尖った声が返る。
「仕事中だと分かっているなら、帰ってちょうだい。邪魔よ」
記乃は有無を言わさず襖を開けた。
すると、部屋の中にいた女がこちらを睨む。
上田千恵。
年は二十代半ばほど。
目元がきつく、口角が下がり気味で、いかにも気の強そうな女だった。
衣は整っている。髪も乱れていない。
ただ、両手だけは布で覆われていた。
(隠している)
記乃は部屋の入口で立ち止まる。
「すぐに済みます」
「だから、何なの」
「手を見せてください」
上田の顔が、わずかに強ばった。
「手?」
「はい」
「なぜあなたに見せなければならないの」
「医局で、手のかぶれを診てもらったと伺いました」
「水仕事で荒れただけよ」
「確認します」
「嫌よ」
上田は即答した。
声は強い。
だが、手を胸元へ寄せる動きが早すぎた。
(守ろうとしている)
記乃は一歩だけ近づいた。
「力づくになるのは好みません」
声を低くする。
大きな声ではない。
だが、部屋の空気がわずかに締まった。
上田は唇を噛む。
強く睨んではいるが、逃げ道を探している目だった。
やがて、渋々、布を外した。
手のひら。指の腹。手首の内側。
すべてが赤くただれている。
相良の言っていた通り、和島のかぶれとは比べものにならない。
水仕事で荒れた、というには範囲が不自然だった。水ならば手の甲にも広く出る。だがこれは、何かを掴み、混ぜ、塗ったような位置に集中している。
(刺激性の高い塗料)
記乃は目を細める。
(樹脂。揮発性溶剤。顔料。あるいは、それに近いもの)
断定はしない。が、見当はつく。
蓄光性の塗料。
光を蓄え、暗所で発光するもの。
さらに温度差によって見え方が変わるなら、昼間は目立たず、夜間に浮き出ることもあり得る。
ただ、皮膚へ触れれば無害とは言えない。
「これに見覚えはありますか」
記乃は、濃色の紙片を取り出した。
手巾を開き、柱から採取した微量の粉状痕跡を見せる。
上田の顔から、血の気が引いた。
「し、知らない」
否定が早い。
早すぎる。
記乃は紙片を閉じた。
「では、あなたの部屋を確認させていただきます」
「なぜ、あなたがそんなことをするのよ」
「なにも知らないのであれば、怪しい物が出てくることはありませんよね」
上田の頬が引きつる。
「無礼でしょう。あなた、澄子様のところの侍女でしょう? こちらの棟に来て、勝手なことを言わないで」
「必要な確認です」
「必要? 誰が決めたのよ。鷹司様のところで何かあったからって、どうして私の部屋を調べられなきゃいけないの。そもそも、あの方の棟に変なものが出るのは、あの方が──」
言葉が長くなる。
声が大きくなる。
怒りは、恐怖の上に被せた布に似ている。
下にあるものを隠そうとして、かえって輪郭を強調する。
(長い)
記乃は判断した。
(これでは職務が進まない)
そこで、使うべき名を選ぶ。
「久世様から頼まれています」
上田の声が止まった。
「く、久世様から……?」
「はい」
嘘の中に潜む、三割程度の事実。
厳密には、今回の件を直接頼まれたわけではない。
これは真壁から命じられた調査であり、そとそも記乃が自分から上田を怪しいと判断した。
久世は直接的に関与はしていない。
ただ、久世は官付の長であり、この件が後宮内の安全に関わるなら、最終的に耳へ入る立場だ。
その名を借りる程度は許してほしい。
(日頃、散々絡まれているのだから)
それに、効果はてきめんだった。
上田は明らかに動揺した。
久世は後宮にも出入りしている。ひと目で高位と分かる男。
そして、あの顔。
記乃は以前まで、他者の顔立ちについて深く考えたことがなかった。だが最近、後宮内で久世の顔が話題になっていることには気づいている。
美貌と高位性。
その二つは、後宮の女たちにとって、かなり強い圧力になるらしい。
「……分かったわ」
上田は唇を噛んだ。
「部屋に案内すればいいんでしょう」
「お願いします」
上田は乱暴に立ち上がる。
記乃は後を追った。
案内された部屋は、棟の端にあった。
襖は閉じられている。
上田が襖を開けた瞬間、記乃は足を止めた。
鼻を突く強い匂い。
複数の、揮発性の刺激臭。
油のような、樹脂のような、鼻の奥を刺す臭気。
(塗料……)
部屋の空気は淀んでいた。
換気が悪い。紙と布の匂いの奥に、明らかに異質なものが混じっている。
記乃は一歩、部屋へ入る。
床に、小さな染み。
文机の端に、拭き取ったような跡。
窓の近くには、布が丸めて置かれている。
(当たり)
そう思った瞬間だった。
背後で、床が鳴った。
振り返るより早く、鈍い衝撃が後頭部を打った。
視界が白く弾ける。
身体の支えが消えた。
顔と畳が迫る。
記乃は、倒れ込む寸前、反射的に胸元を押さえた。
紙片。
記録。
そこだけは、庇った。
頭の奥が、鐘を打たれたように揺れている。
痛みより先に、吐き気が来た。
息が詰まる。
目の焦点が合わない。
「ふん。そんなものが大事なの?」
上田の声が、上から落ちる。
「変なの」
冷たい液体が、肩から背中にかかった。
刺激臭。
塗料と思しきものが着物の布地に染み、襦袢を通って肌に触れ始める。
(危険人物)
記乃は、ぼやける視界の中で判断した。
上田千恵は、明確な危害を加えた。
これは嫌がらせの範囲を越えている。
記録しなければならない。だが、手がうまく動かない。紙片と万年筆を取り出せない。声も出しづらい。
(助けを呼ぶ)
いったい、どうやって──
廊下までは距離がある。
大声を出せる状態ではない。
上田はまだ近くにおり、逃げることも難しい。
そのとき、胸元に硬い感触があることに気がつく。そして、思い出す。
木箱。
官付に最近導入された、小型の発信機。
実験段階の装置。
簡易の信号を、官付側の受信機へ送るためのもの。
(使える。使うしか、ない)
記乃は伏せたまま、震える指で木箱を取り出した。
蓋の表面に触れる。
小さなボタン。
打つ。
叩く。
なぞる。
記乃は、意識が落ちそうになるのを、舌の痛みで引き留めた。
・・・ --- ・・・
救難の信号。
それだけでは足りない。
場所。
状況。
できるだけ短く。
・-・- -- ・・- ・--・・
--・・- --・・- --
・・- -・--- -・・・
そして、繰り返す。
・・・ --- ・・・
・・・ --- ・・・
「何をしているの……?」
上田の声が近づく。
「気でも違ったの!? 気色が悪い!」
記乃は答えなかった。
答えれば、信号が途切れる。
指だけを動かす。
・・・ --- ・・・
・・・ --- ・・・
音は小さい。
だが、信号は届くはずだ。
届かなければ、終わり。
それだけのことだ。
「このっ……! 手を止めなさい!」
木製の座椅子を振り上げる上田が、ぼやける視界に映る。
ああ、さっきもこれで殴られたのか。
道理で衝撃が酷いわけだ。
そのとき。廊下の向こうで、足音がした。
複数。早い。
上田が息を呑む。
「なに……?」
襖が開いた。
まず入ってきたのは、三浦伊織だった。
その後ろに、久世恒一。
そして、禁衛たち。
久世の顔からは、いつもの軽薄そうな笑みが消えていた。
部屋の中の状況は、言葉による説明など必要としなかった。
床に倒れた記乃。
手元のモールス信号の発信機。
異様な刺激臭。
上田の手から床に転がった、木製の小さな座椅子。
そして、動揺したまま立ち尽くす上田千恵。
三浦が低く言う。
「拘束を」
禁衛たちが動いた。
上田は逃げようとしたが、すぐに腕を取られた。
「離して! 私は何も──」
「黙れ」
久世の声だった。
ただただ、低い。
(久世様のこんな声、初めて聞いたな……)
いつもの軽い響きがない。
飾り気もない。
三浦が記乃のそばに膝をつく。
「結城様、聞こえますか」
答えたつもりだが、声になっているかは分からない。
三浦は記乃の身体を起こす。
頭が痛む。視界が揺れる。
肩から背にかかった塗料の臭いが、吐き気をさらに強くする。
久世が近づいてきて、片膝をつく。
「記乃」
名を呼ばれた。
その顔には、珍しく余裕がなかった。
「いつか、こういう危ない目に遭うと思っていた。思っていたんだが……」
久世は唇を噛む。
悔しそうな顔だった。
あの嫌になるほど綺麗な顔が、整っていない感情をそのまま浮かべている。
記乃は、それを見て、妙なことを思った。
言うべきではない。
状況にも合わない。
だが、口が勝手に動いた。
「……男前が、台無しですよ」
久世の目が見開かれる。
三浦が一瞬だけ固まった。
記乃は胸元の紙片を抱えたまま、そこで意識を手放した。




