第十話 夜浮かぶ紋様《前編》
模様というものは、意味を持たせた瞬間に、ただの線ではなくなる。
花の形であれば家を思わせ、鳥の形であれば吉兆を思わせ、円や渦であれば古い呪いの名残のようにも見える。
人間の目は、線をただの線として見続けることが苦手だ。そこにあるものに、名を与え、由来を探し、意味を補おうとする。
ましてや、日が沈んだ後、誰も触れていないはずの壁や床に、ぼうっと光る紋様が浮かぶとなれば。
後宮という閉じた場所で、それがただの汚れとして片づけられるはずもなかった。
(夜にだけ浮かぶ紋様、か)
結城記乃は、医局へ向かう廊下を歩きながら、左手の指先を軽く押さえていた。
紙で切っただけの傷である。
傷そのものは浅いが、紙で切った傷は小さいわりに痛む。鋭く、細く、こちらの意識を無駄に引っかいてくる。
(厄介だな)
記乃は指先を見下ろした。
血はもう止まりかけている。
それでも、紙片を扱う仕事をしている以上、指先の傷は放置しづらい。万年筆を持つにも、紙をめくるにも、細かい痛みが混じれば、記録の速度が落ちる。
だから医局へ行く。
理由としては、それだけだった。
後宮内で、夜になると壁や床に妖しげな紋様が出るらしい、という噂は耳に入っていた。
場所は、皇貴妃・鷹司綾子妃の棟。
日が沈んだ後から、丑三つ時まで。
窓、柱、床。建物内のあちこちに、奇妙な光の筋が現れるという。
だが、真壁はまだ問題として扱っていなかった。
理由は明確だ。
死人が出ていない。倒れた者もいない。火も出ていない。
ただ、女たちが怖がっているだけ。
その段階なら、後宮の噂のひとつとして処理される。
(けれど、怪異の噂は、放置すると膨らむんだよなあ)
記乃はそう思いながら、医局の戸を叩いた。
「相良さん、失礼します」
「入れ」
相良要一の声がした。
中へ入ると、相良は薬棚の前にいた。
その前に、ひとりの女が座っている。
見覚えはない。年は二十代半ばほどだろうか。
衣の質や所作から、下女ではなく侍女だと分かる。
女は、手の平を相良に見せていた。
赤く腫れている。
指の間にも赤みがあり、ところどころ細かな水疱のようなものが浮いていた。
(軽いかぶれ、か)
記乃は、入室した位置で足を止めた。
相良は淡々と軟膏を小さな容器に詰め、女へ渡した。
「掻くな。水仕事はしばらく控えろ。どうしても必要なら布で覆え」
「はい……ありがとうございます」
女の声は弱かった。
恐怖が混じっている。
痛みだけではない。なにかを確信できず、不安を抱えた人間の声だった。
女は記乃に軽く会釈し、医局を出ていく。
足音が遠ざかるまで、記乃は黙っていた。
戸が閉まる。
そこでようやく、相良が記乃を見た。
「お前はどうした」
「紙で指を切りました」
「見せろ」
記乃は左手を差し出した。
相良は傷を見る。
「浅いな」
「はい」
「洗って消毒をしておこう。あとは、絆創膏いくつか渡すから、適度に交換しろ」
「承知しました」
相良は指先に消毒の処置を施すと、絆創膏を用意する。
記乃はそれを受け取りながら、先ほどの侍女が出ていった戸を見た。
「いまの方は」
「鷹司綾子妃付きの侍女だ。和島というらしい」
「手がかぶれていました」
「ああ」
「原因は」
相良は一瞬だけ目を伏せた。
「近ごろ、綾子妃の棟に妙な紋様が浮かぶらしい」
「夜にだけ現れる、という噂の件ですね」
「それだ」
相良は薬棚を閉める。
「和島は、それが呪いだったらどうしようと心配していた。意を決して触ったら、手がかぶれたらしい」
記乃は指先の傷に軟膏を塗りながら、視線を落とした。
(触れてかぶれた)
怪異の噂から、実害へ変わった。
その変化は大きい。
見えるだけなら、まだ噂で済む。怖いだけなら、気持ちの問題として扱われる。
だが、触れた人間の皮膚に異常が出たなら、原因物質が存在する可能性がある。
記乃は胸元から紙片を取り出した。
──鷹司綾子妃棟。
──夜間、壁・柱・床等に紋様出現との噂。
──侍女・和島、紋様接触後に手のかぶれ。
──赤み、水疱様所見あり。
──無害とは判断不可。
相良は記乃の手元を見る。
「また書くのか」
「知ったので」
「真壁殿に言う気か」
「はい」
「そうしろ」
相良は短く言った。
「皮膚症状が出ているなら、ただの噂では済まない」
「相良さんも、そう判断しますか」
「ああ。原因が分かるまでは触らせるな」
「承知しました」
記乃は紙片をしまった。
指先の傷は浅い。だが、その浅い傷を理由に医局へ来たことで、別の傷を見つけた。
偶然と呼ぶには、少しだけ都合がよい。
ただし、都合がよい偶然であっても、利用できるなら利用する。
記乃は医局を出ると、その足で官付庁舎へ向かった。
真壁の執務室に入ると、いつも通り紙と墨の匂いがする。
真壁は机に向かっていた。
「何だ」
「報告します」
「短くしろ」
「鷹司綾子妃の棟で夜間に紋様が出現する件についてです」
真壁の眉が、わずかに動いた。
「ただ噂だろう」
「もう、その段階ではありません」
記乃は紙片を広げた。
「本日、医局にて鷹司綾子妃付き侍女・和島さんを確認しました。手の甲および指にかぶれがあり、相良さんが軟膏を処方しています」
「原因は」
「本人は、夜間に浮かぶ紋様に触れたためだと話していたそうです」
真壁は机の上で指を止めた。
「触るなよ……そういうものに」
「本人は、呪いかどうか確かめようとしたようです」
「馬鹿か」
「恐怖に支配され、冷静ではなかったのでしょうね」
真壁は、深く息を吐いた。
「調査しろ」
「承知しました」
「鷹司綾子妃の棟だ。無礼がないようにしろ」
「はい」
「ただし、危険物があるなら早めに押さえろ。かぶれ程度で済むか分からん」
「承知しました」
記乃は一礼した。
調査対象が正式に決まる。噂は、記録すべき事案へ変わった。
鷹司綾子妃の棟へ向かう道は、澄子妃の棟へ向かう道とは、空気の質が少し違っていた。
澄子妃の棟は、静かに整えられている。
無駄を省き、必要なものだけを正しい位置へ置いたような、理の通った静けさがある。
一方で、綾子妃の棟へ近づくにつれ、空気は少し柔らかくなる。香の匂いも、衣擦れの音も、どこか丸みを帯びている。
おっとりしている。そう言うこともできる。
だが、それが必ずしも弱さとは限らない。
(皇貴妃としては、異質なのかもしれない)
鷹司綾子という皇貴妃について、記乃が知っていることは多くない。
ただ、後宮内では、彼女をよく思わない者もいると聞く。
気高い。強い。厳格。
そうした言葉が皇貴妃に求められるなら、穏やかでおっとりした綾子妃は、そこから外れて見えるのだろう。
(見えることと、実際がどうかは別だ)
記乃はそう整理した。
棟の外では、ひとりの侍女が箒を持っていた。医局で見た女──和島。
彼女は右手を布で軽く覆っている。
動きは少しぎこちない。
記乃は近づき、軽く頭を下げた。
「和島さんでしょうか」
和島は顔を上げた。
「はい。あなたは……」
「九条澄子妃付き侍女の結城記乃と申します」
「澄子様のところの侍女?」
「はい」
和島は不思議そうに記乃を見た。
「どうして、こちらへ?」
「色々と他にも仕事はありまして」
記乃はそう答えた。
説明としては充分ではない。
だが、和島は「ああ」と小さく頷いた。
納得したらしい。
(警戒心が薄い)
記乃はそう判断する。
こちらが細かく説明しなくても、相手の言葉を受け取る。それは素直さでもあるが、危うさでもある。
「夜にだけ浮かぶという紋様の件で、お話を伺いたいのです」
和島の表情が、即座に曇った。
「やっぱり、あれは呪いなのでしょうか」
「まずは、詳しく確認させてください」
記乃は、否定しなかった。
いつものように「怪異など存在しません」と言い切ることは簡単だ。
だが、いまの和島は怯えている。怯えている人間を頭ごなしに否定すれば、反発が返ってくる。
あるいは、言葉を閉ざされる。
(いま、怪異の否定をする必要性はない)
円滑な調査のためには、ときに言葉を慎まねばならない。
最近、記乃はそのことをよく思う。
「いつごろからですか」
「五日ほど前からです。日が沈んで、しばらくすると……柱や床に、ぼうっと紋様が」
「出現時間は」
「夜です。丑三つ時を過ぎるころには、もう薄くなっていることもあります」
「場所は」
「窓の近く、柱、床……いくつかあります」
記乃は紙片を出した。
──発生時期、五日前より。
──発生時間、日没後から丑三つ時頃まで。
──発生箇所、窓周辺、柱、床。
──複数箇所。
「形は」
和島は少し困った顔をした。
「花のような……上から下へ伸びる花弁のような形です。でも、どうにも、複雑で」
「描けますか」
「上手ではありませんけれど」
「簡略して構いません。印象だけでもわかれば」
和島は箒を脇へ置き、記乃が差し出した紙片の余白へ、おそるおそる線を引いた。
曲線が重なり、中央から花弁が開くような形。
そして、外側へ流れる線。
記乃はその形を見た瞬間、目を細めた。
(上がり藤にも見える)
だが、それだけではない。
この後宮に、鷹司の人間がいる。
その条件を重ねれば、より近いものがある。
(……鷹司牡丹)
記乃は紙片へ追記する。
──和島描写、上方から下方へ伸びる花弁状。
──上がり藤にも見えるが、鷹司牡丹に類似。
──鷹司綾子妃との関連性、要確認。
「現物を見せていただけますか」
和島は少し戸惑う。
「見ると言っても、昼間は見えないのよ」
「見る方法は思い当たります」
「そうなの?」
「はい。ただ、準備が必要です」
「では、綾子様に念のため許可を取っておくわ」
「お願いいたします」
記乃は一礼し、いったんその場を離れた。
向かう先は医局だった。
相良は記乃を見るなり、わずかに眉を上げた。
「またか。今度はなんだ」
「片栗粉と綿をいただけますか」
「何に使う」
「調査です」
相良は、それ以上深く聞かなかった。
棚を開け、白い粉を小袋に分ける。
さらに綿を包んで渡した。
「これで足りるか」
「充分です」
「吸い込むなよ」
「はい」
記乃は受け取りながら、ふと問う。
「他にも、手がかぶれて来た人間はいますか」
相良は手を止めた。
「いる」
「誰ですか」
「上田千恵。女御付きの侍女だ」
記乃は紙片を取り出す。
「症状は」
「和島の比ではない。かぶれというより、ただれに近かった。本人は、水仕事で荒れたと言っていたが」
「水仕事」
「そう言っていた」
「手の部位は」
「手のひらと指先、手首の内側。何かを素手で扱ったような出方だった」
記乃は書く。
──上田千恵。
──女御付き侍女。
──手のかぶれ、和島より重度。
──本人申告、水仕事。
──所見、素手で刺激物を扱った可能性。
(上田千恵)
その名は、まだ点に過ぎない。
だが、点は増えた。
和島は、紋様に触れたためにかぶれた。
上田は、それよりひどいかぶれを起こしている。
ならば、触れた量か、触れた時間が違う。
あるいは、扱った段階が違う。
(塗った側の手)
記乃は、そこで一度思考を止めた。
まだ断定には早い。
「ありがとうございます」
「無茶はするな」
「善処します」
「信用ならん」
「いつ信用されるんでしょう」
「無茶をしなくなれば自ずと信用はついてくる」
相良はため息を吐いた。
鷹司綾子妃の棟へ戻ると、和島が建物の前で手招きしていた。
その隣に、もうひとりいる。
淡い色の衣をまとった女だった。洋風の要素を取り入れた高貴な装い。
姿勢は柔らかい。
目元も、口元も、どこかゆるやかに笑っているように見える。
だが、全体として決してだらしなくはない。
柔らかいまま、場の中心にいる。
記乃はすぐに頭を下げた。
「鷹司綾子様でいらっしゃいますか」
「ええ。あなたが結城記乃さん?」
「左様でございます」
「なんだか、面白そうだと思ったのよ」
綾子妃は手を合わせ、にこやかに微笑んだ。
「侍女たちが怖がっていたから、あなたが解決してくれるというなら、助かるわぁ。見ていてもいいかしら?」
「危険のない範囲であれば構いません」
「ありがとう」
声が柔らかい。
だが、その柔らかさは、相手に否と言わせにくい形をしている。
記乃は紙片を取り出した。
──鷹司綾子妃。
──柔和。言動穏やか。
──他者を乗せる言葉選びに長ける。
──人心掌握、自然。
少し迷い、さらに書く。
──悪意・害意は感じられず。
──悪く言えば、人たらし。
綾子妃は、記乃の手元を見て笑った。
「私のことも書いているの?」
「必要な範囲で」
「ふふ。後で悪口になっていなければいいけれど」
「事実の範囲で記録しております」
「それは、安心していいのかしら」
綾子妃は楽しそうに言った。
和島が案内したのは、玄関に近い柱だった。
「ここです。夜になると、この辺りに浮かびます」
指された場所は、人の往来が多い位置だった。
玄関のすぐそば。
棟に入る者、出る者、侍女、下女……多くの目に触れやすい。
(見せるための場所)
記乃はそう判断した。
片栗粉の小袋を開け、綿に少量を含ませる。
柱の表面を、軽くはたく。
力を入れすぎれば、残留物が崩れる。弱すぎれば、粉が乗らない。記乃は、指先の感覚を頼りに、一定の圧で綿を動かした。
それから、ふっと息を吹きかける。
余分な粉が舞った。
白い粉が薄く残り、そこに紋様が浮かぶ。
花弁。
中央の形。
外へ広がる線。
昼の光の中、夜の光とは違う形で、痕跡が現れた。
(やはり)
記乃は目を細めた。
上がり藤ではなく、鷹司牡丹に近い。
近い、というより。
(そのものに見える)
綾子妃が、隣で小さく声を漏らした。
「あら。これ、うちの家紋に似ているわね」
「そう見えます」
「私の棟に、私の家の紋。ずいぶん親切な呪いねえ」
綾子妃は冗談めかして笑う。
記乃は顔を上げた。
「失礼ですが、お心当たりはございますか」
「ないわ」
綾子妃は即答した。
「だって、わたくしはこんなに上手に絵を描けないもの」
和島が一瞬だけ困った顔をした隣で、綾子妃はにこやかに笑っている。
記乃はその返答を、冗談として処理した。
だが、否定としては充分だった。
記乃は濃い色の紙片を取り出す。
普段は使わない、表面の粗い紙。それを、柱の紋様にそっと押し当てる。
強く押せば、痕跡が潰れる。弱ければ、付着しない。
紙の表面に、微細な粉状のものが移った感触があった。
記乃はそれを丁寧に手巾へ包む。
──柱表面、片栗粉により紋様可視化。
──形状、鷹司牡丹に酷似。
──昼間は肉眼視困難。
──濃色紙片へ微量付着物採取。
記乃は顔を上げた。
「一度、失礼いたします」
「もう分かったの?」
「思い当たる人物を訪ねてまいります」
「まあ」
綾子妃は手を合わせた。
「なにか分かったら、教えてちょうだいね」
「承知しました」
和島が不安そうに見ている。
「呪いでは……ないのですか」
記乃は一拍置いた。
否定することは簡単だ。
だが、ここで必要なのは、安心させることではない。調査を前へ進めることだ。
「現時点では、物質による痕跡と見ています」
「物質……」
「はい。触れれば、手がかぶれる可能性があります。触らないでください」
和島は慌てて頷いた。
「はい」
記乃は棟を離れた。
次に訪ねるのは、上田千恵。
女御付きの侍女。手に重いかぶれを負った人間。
そして、まだ線にはなっていないが、夜に浮かぶ紋様へもっとも近いところにいる点。
(まずは、手を見る)
記乃は紙片を胸元に収め、歩き出した。
夜に浮かぶ紋様は、ただの光ではない。
昼間に隠れ、夜に現れる。
ならば、それは怪異ではなく、条件によって姿を変える物質だ。
光。
温度。
塗料。
皮膚症状。
点は揃いつつある。
あとは、その点を、だれの手に結びつけるかだった。




