第九話 家族との時間《後編》
家というものは、帰る場所であると同時に、戻ることで過去の空気を吸い直す場所でもある。
外でどれほど違う役目を得ても、どれほど違う呼び名を与えられても、敷居を越えた瞬間に、かつてそこで積み重ねられた記憶が、古い匂いのように肌へまとわりつくことがある。
(本当に帰れることになった)
その知らせが届いたのは、応接間で偵記と黒糖饅頭を食べた日から、二週間ほど経った頃だった。
申請した休暇は一日だったらしい。だが、実際に認められたのは二日だった。
家で一泊できるように、という配慮だと聞いた。
(きっかけは兄さんが申し出たことだとして……だれの采配だろう)
記乃は紙片に短く書いた。
──休暇、二日。
──目的、帰省。
──同行、偵記兄さん。
──移動、官付所有自動車使用許可あり。
官付の車庫へ向かうと、すでに偵記が自動車のそばに立っていた。
背が高く、肩幅があり、詰襟の上着が妙に似合っている。
顔立ちは整っているのに、いつも少し機嫌が悪そうに見えるところまで、相変わらずだった。
「遅い」
「定刻前です」
「荷物は」
「これだけです」
記乃は小さな鞄を持ち上げた。中には着替えと、最低限の紙片と万年筆が入っている。
偵記は鞄を見る。
「仕事道具は置いていけ」
「最低限です」
「帰省に最低限も何もあるか」
「不測の事態に備えています」
「家に帰るだけだろ」
「家だからこそ、不測の事態が起きる可能性があります」
偵記は一瞬黙り、それから鼻で笑った。
「そりゃ、否定はできねえな」
自動車に乗ると、油と革の匂いがした。
偵記は運転席に座り、手慣れた動作で車を出す。車体が小さく揺れ、官付庁舎の石畳を離れていく。
窓の外を、街並みが流れる。馬車、人力車、歩く人間、自転車。それらが一つずつ後方へ過ぎていく。
(自分で歩かない移動は、視界の流れ方が違う)
記乃は外を見ながら、そう思った。徒歩では拾える細部が、自動車では流れてしまう。その代わり、道の全体像はつかみやすい。
「おい」
「はい」
「仕事の顔になってる」
「そうですか」
「景色くらい普通に見ろよ」
「普通に見ています」
「嘘つけ。分析してる顔だ」
記乃は少しだけ口を閉じた。偵記は前を見たまま、短く笑う。
「まあ、いいけどよ」
結城家の屋敷が見えてくる。
門の前には、見慣れた車が一台あった。養父、密記の車だ。
(養父上もいらっしゃるんだ)
その事実だけで、胸の内側がわずかに緩む。帰る、という行為は、場所に戻ることではなく、そこにいる人間へ戻ることでもあるのだろう。
車が止まるより早く、玄関の戸が開いた。
「姉様!」
八つ年下の義妹、記子だった。
色白で、細く、病弱な身体をしている。それでも今日は、記憶よりも顔色が明るいように見える。
着物の裾を気にしながら、けれど同時に抑えきれないといった様子で、こちらへ駆け寄ってくる。
記乃はすぐに車を降りた。
「記子……寝ていなくていいの?」
「はいっ! 姉様が帰るのに、大人しくなんてしていられませんっ」
記子は記乃の手を取った。指先は少し冷たい。
(無理をしている。それに、この冷たさ……きっと玄関先で待っていんだ)
だが、その目は嬉しそうだった。注意するべきか、喜びを受け取るべきか。記乃は一拍だけ考え、後者を選んだ。
「出迎えてくれて、ありがとう」
「はい!」
「おれのことは無視か」
偵記が車の横で言う。
記子はぱっと顔を上げた。
「兄様も、おかえりなさい!」
「ついでか」
「ついでではありませんっ」
「どうだか」
偵記はそう言いながらも、表情は柔らかかった。
玄関の奥から、密記が顔を出した。
「記乃、偵記。よく帰ったねえ」
「父上」
「ただいま戻りました」
「うんうん。二人とも、顔を見せなさい」
密記はにこにこと笑いながら、当然のように記乃の頭を撫で、偵記の肩を叩いた。偵記は少し嫌そうな顔をしたが、避けなかった。
「父上、ここは玄関先です」
「そうだねえ」
「それに髪が崩れます」
「あとで偵記が直してくれるだろう?」
「……父上」
偵記が低く言う。密記は笑って応えた。
屋敷の中へ入ると、空気が変わった。官付の紙と墨の匂いでも、後宮の香でもない。木材、畳、古い家具、炊事場から流れてくる出汁の匂い。 記憶に近い匂いだった。
使用人たちが頭を下げる。
その視線は、半々だった。
相変わらず、どこか冷たいもの。拾われた娘、実子ではない娘、という認識を薄く含んだ視線。
そして、もう一方には、以前とは違うものがあった。女だてらに官付で仕事をしているという、警戒とも尊敬ともつかない視線。
(どちらにしても、居心地がいいとは言えない)
記乃は胸の内で処理した。
「記乃」
密記が振り返る。
「はい」
「気にしすぎだ。お前は堂々としていなさい」
「……顔に出ていましたか」
「出ていたよ」
密記は楽しげに笑う。
前を歩いていた使用人のひとりが、広間の襖を開けた。
久しぶりの家族団欒、とは聞いていたが、これまた豪華な食卓だ。
そして、上座につくなり、密記は「乾杯をしよう」と言う。
息子と娘が同時に帰ったことが、よほど嬉しいらしいことが手に取るようにわかった。
そして、すでに用意されていた酒をあおった。
「父上、昼からですか」
「今日は特別だからねえ」
密記は悪びれもせずに笑い、盃を軽く揺らした。
「娘と息子が揃って帰ってきたんだ。酒くらい飲むだろう?」
「父上は理由がなくても飲むでしょう」
偵記が呆れたように言う。
「理由がある方がね、酒はおいしいんだよ」
「詭弁です」
記乃が即答すると、密記は楽しそうに目を細めた。
「記乃は偵記に似てきたねえ」
「私が兄さんに似たのではなく、兄さんの言い方が妥当だっただけです」
「ほら、そういうところ」
「嬉しそうにすんな」
偵記は徳利を手に取り、自分の盃へ酒を注ごうとした。
「兄さん、手酌なんてよしてください」
記乃はすぐに徳利を奪った。
「おい」
「私が注ぎます」
「別にいいだろ」
「よくありません。久しぶりの帰宅で、兄に手酌をさせる愚妹だと思われます」
「だれにだよ」
「私にです」
「おまえの中の基準だろうが」
偵記は文句を言いながらも、盃を差し出した。
記乃は静かに酒を注ぐ。
透明な液体が盃の内側で揺れた。
「はい」
「……悪いな」
「いいえ」
偵記は盃を受け取り、少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「兄様ったら、顔が赤いですよ」
記子が嬉しそうに言う。
「酒のせいだ」
「まだ飲んでいませんよ」
記乃が指摘する。
「うるせえ」
「兄様、照れているのですね」
「……記乃がおれに似てきたなんて言うが、記子は記乃に似てきたんじゃねえのか」
密記は肩を揺らして笑った。
「いいねえ。やはり家は、こうでなくては」
「父上が一番楽しんでいますね」
「当然だろう。俺の可愛い子どもたちが揃っているんだから」
その言葉に、記乃はわずかに目を伏せた。
偵記も、盃を口元へ運びかけたまま一瞬だけ止まる。
密記はなにも気づかないふりをして、楽しげに酒を飲んだ。
「記子、無理をしていないかい?」
「していません」
「本当に?」
「本当ですっ! 姉様と兄様が帰ってきたので、元気です!」
「それは理由として強いねえ」
「はいっ」
記子は誇らしげに頷いた。
「姉様、今日はたくさんお話してくださいね」
「話せる範囲であれば」
「官付に行ってからのお仕事の調子はどうですか?」
「ああ、それは……」
「おい。危ない話はだめだ」
偵記がすぐに遮る。
「兄さん」
「おまえは放っておくと、淡々と物騒な話をする」
「内容は選びます」
「選んでそれだろ」
記子がくすくす笑う。
「では、姉様が食べた甘いものの話をしてください」
「甘いもの」
「はい。後宮や官付には、珍しいお菓子がありそうです」
記乃は少し考えた。
「最近、黒糖饅頭を食べた」
「黒糖饅頭! いいなあ」
「兄さんと一緒に」
「兄様と?」
記子の目が輝く。
「官付に勤めている三浦さんという方にいただいて、応接間を使いなさいと言われて、それで」
「おい、そこまで言う必要あるか」
「事実ですし」
「兄様と姉様が、外で一緒にお菓子を食べたんですね」
記子は嬉しそうに両手を合わせた。
「いいですねっ」
「ただの饅頭だ」
「ただの饅頭ではありません。兄様と姉様が一緒に食べた饅頭です」
密記がうんうんと頷く。
「記子は分かっているねえ」
「父上まで」
「偵記、照れることはないよ」
「照れてねえ」
「まったく。嬉しかったのなら、正直に言いなさい」
「そうですよっ! 兄様は素直じゃないです」
「……酒」
「照れ隠しでしょうか」
記乃が言うと、偵記は盃を持ったまま記乃を睨んだ。
「おまえ、そういうところだぞ」
「ふとしたときに口が悪い、という話ですか」
「それもだ」
記乃は少しだけ口元を緩めた。
記子がそれを見て、ぱっと笑う。
「姉様、笑いました」
「そうですか」
「はい。嬉しいです」
食卓は、思ったより賑やかだった。
食卓は、思ったより穏やかだった。記子は記乃の近くに座り、何度も仕事のことを聞きたがった。偵記は横から、危ない話はするな、と遮る。
密記は、記乃が答えられる範囲で答えればいいと笑う。
「姉様は、やはりすごいです」
「私はただの補佐だよ」
「十二分にすごいことです!」
「そう……なんだろうか」
「はいっ!」
記子の言葉は、まっすぐだった。
記乃は、そのまっすぐさをどう受け取ればいいのか、少し迷う。
(この子の言葉や表情は、昔から計算を含んでいない)
素直に受け取っていい。
そう評価して、こちらも素直になる。
「ありがとう」
そう答えると、記子は嬉しそうに笑った。
その後、湯浴みを済ませると、記子が当然のように記乃の袖を掴んだ。
「姉様、今夜は同じ部屋で眠ってもよろしいですか」
「身体は大丈夫?」
「大丈夫ですっ」
「本当に?」
「本当です」
記乃は記子の顔を見る。
少し疲れは見える。だが、強く止めるほどではない。
「早く休むことを条件として飲むなら」
「はいっ」
夜の部屋は静かだった。
記子は布団の中で、記乃の方を向いている。 眠るつもりはあるのだろう。だが、目はまだ冴えていた。
「姉様」
「はい」
「帰ってきてくださって、嬉しいです」
「私も、記子に会えて嬉しい」
記子は小さく笑った。
「兄様も、嬉しそうでした」
「そうかな」
「はい。兄様は顔に出にくいですけれど、姉様のことを心配しています」
「よく心配はされていると思うけど」
「姉様も、兄様のことが好きですよね」
記乃は少し考えた。
「うん」
短く答える。
記子は満足そうに目を閉じた。
しばらくして、寝息が聞こえてくる。細く、静かな寝息。
記乃は天井を見上げた。
屋敷の梁、薄暗い部屋、隣で眠る妹。
かつては、この家の中にいても、自分の居場所がどこにあるのか分からなかった。だが今は、少なくともこの部屋には、拒まれていない空気がある。
(帰ってきてよかった)
記乃は目を閉じた。
疲れが祟ってか、すぐに意識は夢の中に落ちていった。
翌朝。
帰りの自動車も、偵記の運転だった。
記子は玄関で何度も手を振り、密記は気をつけて戻るようにと言った。記乃は助手席で、窓の外を見ていた。
偵記は前を向いたまま言う。
「楽しかったか」
「はい」
「そうか」
それだけだった。
それだけで、充分だった。
しばらく沈黙が落ちる。だが、いつもの苦痛を伴わない沈黙だった。
偵記は口にはしなかった。
けれど、記乃の空気が少し柔らかいことは分かっていた。家に帰り、父に会い、妹に会い、久しぶりに兄妹として過ごした時間が、記乃の中で何かを緩めたのだろう。
(たまには、連れて帰ってやるか)
偵記はそう思った。
もちろん、口にはしない。
記乃もまた、言葉にはしなかった。ただ、紙片を取り出すこともなく、しばらく窓の外を見ていた。
街並みが流れてゆく。朝の光が、車窓に薄く反射する。
帰る場所というものは、必ずしも居心地のよい場所とは限らない。
だが、そこに会いたい人間がいるなら、それだけで帰る理由になる。
記乃はそう結論づけることにした。
そして、その結論を、いつものように紙片には書きとめることは、しなかった。




