第九話 家族との時間《前編》
人間関係というものは、距離と立場によって容易に歪んでしまう。
同じ言葉でも、相手が変われば意味が変わり、同じ沈黙でも、場が変われば重さが変わる。だが、ごく稀に、そのどちらにも左右されずに成立する関係がある。
血縁というものは、その数少ない例外のひとつだ。
(もっとも、それすら環境によっては簡単に歪むのだが)
官付の廊下は、今日も乾いていた。紙と墨の匂いが、湿度を抑えた空気の中で均一に広がり、足音は必要以上に響かないよう吸い込まれていく。
その中を、結城偵記は一定の歩幅で進んでいた。
視線が、前方で止まる。
見慣れた背格好。見慣れた立ち姿。
そして、その向かいにいる男。
(……あれは)
義妹の記乃と、久世だった。
距離は近い。立ち止まって話している。
だが、偵記の目には、それが自然な会話には見えなかった。
(話している、というよりは……)
わずかに眉を寄せる。
(絡まれている、の方が近いな)
久世がどういう立場の人間か、偵記は当然知っている。官付の長。自分より遥か上に立つ者。
逆らえば面倒が増える種類の人間。
だが。
(それとこれとは別だ)
思考はそこで終わる。
悩んだのは、実質数秒にも満たない短い時間だった。上官への礼節と、妹の状態。比較する対象ですらない。
偵記は歩を進めた。
「失礼いたします」
声は低く、抑えられている。が、充分に通る。
久世が振り向いた。
記乃も、わずかに視線を動かす。
「愚妹がなにか、失礼をいたしましたか」
ぶっきらぼうな言い回し。だが、語尾と抑揚は崩れていない。敬語として成立している範囲に収めている。
そして一拍置き、久世が口元に笑みを浮かべた。
「ああ、いやなに。ただの世間話だ」
軽い調子。
偵記は頷く。
(妹にとっては、それが迷惑なんだよな)
思う。だが、言葉にはしない。
そのとき、三浦が一歩前に出た。
「主が妹君の職務の妨げをしてしまい、申し訳ございません」
静かな声。
偵記の口が、わずかに先に動いた。
「邪魔をしていたんですか」
言った瞬間に理解する。
(まずい)
だが、もう遅い。
久世が、くすくすと笑った。
「兄妹揃って、はっきりと物を言う」
その言葉は、明確に面白がっている響きを持っていた。
だが──
記乃と偵記は、ほぼ同時にわずかに視線を動かす。
(兄妹揃って)
その言い回し。
その一言だけが、妙に引っかかった。
家では、親族の前では、使用人たちの視線の中では……
「兄妹」として振る舞うこと自体が、どこかぎこちないものとして扱われる。
だが、今のそれは違う。
ただの事実、として自然に口にされた言葉。
「ありがとうございます」
記乃が言った。
久世が、一瞬止まり、それから声を上げた。
「ははっ!」
明確な笑い声。
「礼を言うところではないだろうに」
偵記が、わずかに口元を緩める。
「おれからも、ありがとうございます」
続けた。
久世が、今度は本気で首を傾げた。
「待て待て。ふたり揃って、なぜここで礼を言うんだ?」
沈黙。
記乃も、偵記も、一瞬だけ同じ思考に至る。
(面倒だな)
偵記が口を開いた。
「おれたちを兄妹として扱うのは、父と妹くらいなものですから」
短い説明。
久世の表情が、わずかに変わった。
「……そうか」
少しだけ、声の温度が下がる。
「私には、ただの仲のいい兄妹にしか見えないが……そういうものなのか」
記乃の胸の内に、ほんのわずかに熱が灯る。
評価ではない。同情でもない。
ただ、見たままを言われただけの言葉。
ゆえに、特段嫌な気持ちにはならない。
「恐縮です」
偵記が軽く頭を下げる。
そのやり取りを見て、三浦が静かに口を開いた。
「茶菓子がございます。おふたりとも、お時間が許すのであれば、ご一緒にいかがでしょうか」
差し出されたのは、黒糖饅頭だった。
紙に包まれ、ほんのりと甘い匂いが漂う。
(この方は、本当に気が利く)
記乃はそう判断する。
(子沢山の父親と聞くが……これは確かに、家でも慕われるだろう)
久世が頷いた。
「私が普段使う応接間が空いている。自由に使え」
そう言って、記乃の頭に軽く手を置く。
そして一瞬、驚くより先に評価が走る。
(距離が近い)
だが、避けるほどではない。
久世はそのまま踵を返した。
三浦が続く。
「ご案内いたします」
応接間は、静かだった。調度品は過剰ではなく、しかし質が良い。空気の流れも穏やかで、外の音が薄く遮断されている。
しばらくして、下女が茶を運んでくる。
湯気が淡く立ち上る。
ふたりは、向かい合って座る。
苦痛を伴わぬ沈黙。
そして──
「……もらった饅頭、うまいな」
偵記が言う。
「そうですね。甘いです」
記乃が答える。
黒糖の甘さは、強いが単調ではない。餡はざらつき舌に残るが、決して不快ではない。
(悪くない)
「おまえ、仕事頑張ってるってな」
「ぼちぼちです。なにごとも全力で、というのが養父の教えですし」
「はっ。そうだな」
偵記が笑う。
「あのおやじは、おれたちに厳しすぎる」
「優しいですよ」
記乃は即答する。
「全部、私たちのために言ってくれていますし」
偵記が、わずかに視線を逸らす。
「……それはそうだな」
普段の会話より、言葉が柔らかい。
間が短い。余計な説明がいらない。
それが、血縁というものなのかもしれなかった。
「久しぶりに、記子にも会いたいです」
「そうだな」
「兄さんも、しばらく家には帰っていないんですか?」
「ああ、帰ってねえ」
偵記は短く言う。
「あの家は息が詰まる」
「……それは、そうですね」
一拍。
偵記が続ける。
「あのくそばばあが死んでしばらく経つし、おまえに難癖つけるやつも減ったとは思うけどな」
くそばばあ、というのは、記乃にとっての養母であり、偵記にとっての実母のことだった。
「口が悪いです」
「おまえも大概だろ」
「そうですかね」
「ふとしたとき、出てんだよ」
「気をつけます」
短い応酬だが、どこか軽い。
偵記が、湯呑を置いた。
「……久しぶりに、帰るか?」
その言葉は、問いではなかった。
確認でもない。ただの提示。
記乃は、一瞬だけ沈黙する。
だが、その沈黙の中で、すでに答えは出ている。
偵記はそれを見ていた。
(ああ……帰りたいんだな)
口には出さない。
「上に聞いておく」
偵記が立ち上がる。
「おれたちの休暇を合わせて、一日だけくれねえか、ってな」
動きは早い。
湯呑の中身はすでに空だった。
「ありがとうございます」
記乃がそう返事をするころには、もう扉へ向かっている。偵記は振り返らずに手を軽く上げ、そのまま部屋を出た。
残された静寂。
記乃は、湯呑を持ち上げる。
中は空。
黒糖の甘さが、まだ舌に残っている。
(とてもいい時間だった)
そう評価し、立ち上がる。
湯呑を持って部屋を出る。
片付ける。それだけの動作だが、その動作の中に、わずかな余韻が残っていた。
それは、おそらく──
休養とは別の種類の、なにかだった。




